桜の懸念

「店番だったのか?」


 部屋に前触れなく精霊が現れても動じないくらいには慣れた。

 突然来訪してきた桜緋は出しっぱなしだったキャンバスを熱心に眺めていた。


「相変わらず上手いな」

「それはどうも」


 ぞんざいに言いつつキャンバスを取り上げれば、桜緋は不満そうに眉間に皺を寄せた。


「もう少し見ても問題はないだろう」

「問題はないけど勝手に見られるのが不快なんだ」

「……すまない。確かにそれは最もだ」


 素直に己の非を詫びてきたので、千尋もあまり責めるような真似はしなかった。

 千尋は昔から絵が好きだった。特に、風景を描くことは至福だった。いつも昼休みは屋上に上っているくらいだ。

 桜緋もそれを知っていて、無邪気とも受け取れる笑顔で千尋を見上げた。


「今度、私も描いてくれ」

「人物画は苦手だって、前に言ったと思うけど」

「そう言うな。年寄りの頼みだと思って聞き入れてくれ」

「もう自分で年寄り肯定してるし……」


 はあと溜息を吐いて、千尋はキャンバスを片付けた。棚の整理をしながら、低く呟く。


「……いずれ、描くよ」

「ああ。楽しみにしている」


 それにしても、桜緋は何をしに来たのだろう。ただの気紛れのように思えるが、直感が否と告げている。


「何しに来たんだ?」

「暇潰しだ」

「嘘だ」


 桜緋は珍しく誤魔化されない千尋に少々驚いたらしい。大きめの瞳が更に見開かれる。そして、ふっと苦笑した。


「……曲がりなりにも彼奴の転生、か」


 その小さな呟きが千尋に届くことはなかった。


***


 千尋と和葉が授業に戻ってからのことだ。

 桜緋と楓雅は二人を見送った後、その場を離れて敷地沿いに植えられた桜の木々の上に場所を移した。特に理由はないのだが、共に木々に宿った精霊なせいか樹木の傍にいると落ち着くのだ。


「……お前、気付いたか?」


 太い枝の上で片膝をついて座り、背を幹に預けた楓雅が重い口調で切り出した。

 桜緋はピクリと肩を震わせた。楓雅のいる枝より一段低いところに座っているその顔は見えない。


「さっきの邪気――お前の気配に酷似してたよな?」


 確認だった。自分よりも遥かに長命で経験豊富な桜緋が見落としているわけがない。桜緋の小さな背を見下ろしていれば、やがて返答が返ってきた。


「……ああ。気付いていたよ。あれは桜の気配を纏っていた」

「どう思う?」


 楓雅は桜緋を疑っているのではない。桜の精霊は桜緋一人ではない。人間の想いの大きさだけ、精霊は無限に生まれることができる。桜の精霊も、楓の精霊も、此の世に数多存在するのだ。だから、桜緋が関わっていると現時点では断定できない。だが、意見は聞いておきたかった。妙な予感がするのだ。

 楓雅に背を向けた桜緋。どんな表情をしているのか、全く分からない。しかし、推測を述べる声音は淡々としていて、嫌疑をかけられる可能性のある者とは思えないくらい感情を口調から排除していた。いや、だからこそ冷静に状況を見極めようとしているのか。


「あの邪気が己を祓おうと試みた桜を喰ったのか、はたまた精霊の気配が何らかの理由で変質して邪気の活性化に共鳴してしまったのか……はっきりとしたことは言えない。情報が少なすぎる」

「自分じゃないって、否定しないんだな」

「どうして?」


 この少女の思考は本当に読めない。腹の中で何を考えているのか、どんなに探っても見えてこない。楓雅は桜緋と接しているとき、嫌でも自分がまだまだ若いことを自覚する。自分もそれなりに永い時を生きてきたつもりだが、桜緋には負ける。込み上がる苦笑いが隠せなかった。


「普通自分が疑われそうになったら、真っ先に保身に走るだろう」

「……今の段階で潔白を訴えたとしても、それを証明することはできない。そんな無駄なことはしない」

「さすがだな……」


 楓雅が感心しているとき、桜緋は俯いていた。膝の上で握った拳は、血の気が引いて真っ白になっている。むろん、楓雅がそれに気付くことはなかった。


***


 桜緋の表情が曇った。


「桜緋……?」


 いつも余裕があって落ち着いている桜緋が、このように内心を表情に出すなんて。何が彼女をこんな不安げな顔にさせるのか。千尋には全く想像がつかない。

 あまりに暗い表情をしていたので、千尋は何かあったのかと問おうとした。しかし、問おうとした直前、桜緋が急に扉の方を振り向いた。滲み出ていた不安な色が一瞬で消え、代わりに警戒心に近いものが溢れ出す。


「どうかした?」

「……千景の、気配だ」

「え?」


 桜緋の言っていることが信じられず、思わず千尋は聞き直す。だが、それは正しいらしい。一階から母や兄の驚いた声が聞こえてきたのだ。


「ちょっ……僕も行ってくる」


 次に千景が帰ってくるのは早くてもお盆と聞いていたのに。何があったのだろう。

 バタバタと階段を駆け下りる千尋の足音を聞きながら、桜緋が剣呑な口調で呟く。


「帰宅するまで気配が分からなかった……?」


 自分なら、接近する千景の気配をもっと早い段階から感じ取ることができたはずだ。なのに、今は千景が家に入るまで全く気配が読めなかった。これは衰えか。それとも。様々な推測が頭を駆け巡る。

 不意に、一つの答えが桜緋の脳裏に浮かんだ。


「邪気の影響か……!」


 今日だけではない。ここ最近、桜の気配を纏った邪気が他にも出現していた。楓雅達は今日が初めてだったようだが、桜緋は違った。千尋を守るためという名目で二人の戦闘に介入したが、本当は邪気の源を追っていたのだ。桜の邪気の原因。桜の精霊として、この事態を放っておく訳にはいかない。


「まずいな……」


 この地域の気が澱んできている。邪気が、蔓延し始めている。精霊我々の力が、妨げられている――――

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