帰郷と召請

僕の兄

 薄曇りはいい。本が黄ばまなくて済む。

 千景が中庭のベンチに寝転んで読書に耽る。その様子を目をキラキラと輝かせた女子達が遠巻きに見詰める光景は、北辰学園の日常の一部と化していた。

 千景は文武両道という言葉を自ら体現したような、文字通りの優等生だ。そこに生来の神秘的なクールさも上乗せされ、女子生徒達の心は鷲掴みにされているのだった。本人には、その気も自覚も全くないのだが。


「ね、ねえ藤原君」

「……何?」


 同じクラスという特権を乱用した数人の女子が声を掛ければ、千景は目を向けることなく気のない問いを返した。それだけでも、黄色い歓声が上がるのだから大したものだ。


「なに読んでるの? いつも」

「……これ」


 カバーを外して見せる。


「人間失格……太宰治の?」

「すごっ。教科書に載ってそうな奴じゃん!」

「人間失格って、結構ヤバい感じだから教科書載んないんじゃなかったっけ?」

「そうなの?」

「お姉ちゃんが言ってた。大学で無頼派の研究してるから」

「ブライハって、何?」

「アホは黙って」

「はー!?」


 こっちは読書の最中だというのに、やかましいことこの上ない。しかし、散らすのも面倒だ。

 千景の眉間に皺が寄る。


「なんで太宰なの?」


 千景の機嫌を損ねている自覚のないクラスメートの一人が問い掛けた。それを聞いて、千景は思わず笑った。そんなの、決まっているだろう。

 自嘲的な笑みが無意識に零れる。その歪んだ笑みに、女子達は底知れない怖気を感じて、ぴたりと騒ぐのを止めた。


「なんでって……そりゃあ、共感しか感じないからだ」


 そう言う千景の顔は蒼白で。――とても、生者には見えなかった。


***


「千尋、ちょっとレジ番頼んでいいか?」


 顔を出した兄に、千尋は了解の意を伝えた。


「んじゃ、頼む」


 兄が階下へ降りて行ってから、千尋も立ち上がった。


 藤原家は和菓子屋を営んでいる。兄の優一は後を継ぐために職人である父の元で修行中だ。母は父と結婚してからずっと売り子を務め、千尋も手伝いとして店先に立つことがあった。

 二階の自宅から一階の店に降りると、ちょうど母が常連客と話をしていた。


「あら千尋君。また背が伸びたねぇ」

「そうですか?」


 指摘されても自覚はないので何とも言えない。千尋が小首を傾げる。母もレジを打ちながら微苦笑に近い曖昧な微笑みを浮かべた。


「そうですか……一緒にいると分からないものですね」

「まあ、それもそうねぇ」


 にこにこと笑いながら頷く年配の婦人は、いわゆるご近所さんだ。昔からの常連で、千尋達にとっては祖母のような存在だった。

 いつも婦人は大福を買っていく。スーパーで売っているものよりも餡子の甘みが好みだそうで。店側の者としては嬉しい限りだ。母から品の入った袋を受け取って帰ろうとした婦人が、そういえばと千尋を振り返る。


「最近千景君見ないけど……やっぱり忙しいの?」


 母が夕飯を作りに奥へ引っ込んでしまったため、店先には千尋しかいない。

 正直言って、困った。千景の話を訊かれても、向こうがあまり連絡を寄越さないので答えようがない。まあ、音沙汰がないということが、元気にやっているという証拠のようなものなのだが。

 千景は双子の兄だ。弓道の特待生として横浜の私立高校に在籍している。寮生活なので、帰ってくることは少ない。寡黙な性格で顔がいいせいか、昔からそれはもうモテていた。……自分はモテた例などないというのに、理不尽だ。双子という関係性がたまに信じられなくなる。双子といっても二卵性だから、ある意味似ていなくても当然なのだが。


「どうしてるんでしょうね……彼奴、あまり連絡してこないので。けど、元気だとは思いますよ」


 このくらいしか言えなかった。

 そういえば、横浜でインフルエンザが流行っているらしい。千景は大丈夫だろうか。そんな疑問が千尋の中に浮かんで、消えた。

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