僕は桜を、まだ知らない
千歳は兄からのメッセージを確認し、携帯を鞄にしまった。間もなくこちらに着くそうだ。
兄達がいるのは、正面に見えるショッパーズプラザ。今日演奏会を行った、この芸術劇場から歩けば数分も経たずに到着する。容易に合流可能だろうが、過保護な兄はそこで待ってろとの仰せだ。大人しく待っていよう。
「そろそろ兄さんも妹離れしてくれないと困るんだけど……」
はあ、と小さく溜息を吐く。悩ましいこの問題が解決する日が近ければ良いのだが、それは叶わぬ望みというやつだろう。自分は兄を突き放すことができるような性格ではないのだから。
軽い頭痛を覚えて蟀谷に指を当てた。その時、歩道橋を降りてくる二人が視界に入り、千歳は指を下ろして淡く微笑んだ。千尋よりも先に、小走りで兄が駆け寄ってきた。
「千歳! 今日も快調だったか?」
「ええ。兄さんは? いいステージになった?」
「もちろんだ」
わしわしと妹の頭を撫でる魁斗は、この上なく優しい笑みを浮かべている。魁斗がここまで柔らかな笑顔を向ける相手は、千尋の知る限り、最愛の妹たる千歳だけだ。
千歳はこの春で中学二年になった。兄の魁斗は成人済みの大学生。この兄妹、結構年が離れている。魁斗は最近になって生まれた可愛い妹を溺愛しているのだ。……最近といっても、十数年前の話なのだが。
「そういえば、千尋君と会うの何気に久し振りよね」
千歳が頭に乗った兄の手をさり気なく退けながら、千尋に話を振る。流石に外でスキンシップをされるのは嫌なのだろう。中学生。千歳ももうお年頃だ。
千尋にとっても、千歳は妹のような存在だ。家では末っ子の千尋。昔、魁斗と一緒に幼い千歳と遊んだときは、兄になれたようで嬉しかったものだ。
「そうだね。千歳ちゃん、元気そうで何より」
「そんなお堅い挨拶やめてよ。私にとっては、千尋君も兄さんなのに」
ころころとおかしそうに笑う千歳。しかし、魁斗が黙っていない。
「おい待て千歳。此奴も兄貴ってのはどういうことだ」
魁斗の殺意に近い視線が嫌でも突き刺さる。千歳ちゃん、君の発言によっては後日、僕は君の兄貴に本気で絞められるかもしれないから本当に気を付けて。嗚呼、魁斗のシスコンには毎度のことながら頭が痛い。
「兄さん? 兄さんもいい歳なんだし、もう少し寛容になって。それに、千尋君が私の面倒見てくれて、遊び相手になってくれたのも紛れもない事実じゃない」
「ま、まあ……そりゃそうだけどよ」
「あんまりに大人げないと、拗ねるから」
「うっ…………わーった! わーったよ。俺が悪かった」
「うんうん。ありがとね、兄さん」
……何というか。女は強しというけれど、それは兄妹間でも適用されるらしい。普段では考えられないほど、たじたじになっている魁斗。その様を見ながら、千尋は苦笑いを浮かべるのだった。
取り敢えず帰ろうと、三人は駅に向かって足を進める。歩きながら、今日千尋が意識を飛ばした話を魁斗が口にすると、千歳は文字通り真っ青になった。
「え!? それで大丈夫だったの!?」
「うん。桜緋が助けてくれたからね」
それを聞いて、千歳は胸を撫で下ろした。
「そう……良かった。やっぱり桜緋さんってお優しいのね」
「お優しい……まあ、そうなるのか」
彼女が向けてくるものは優しさなのだろうか。出会って早一年。桜緋のことは、まだまだ分からない。けれど、千歳は至極真剣な顔で、そうよと頷いている。
余談だが、魁斗同様、千歳も“見える”人間だ。しかも、桜緋曰く、千尋や魁斗よりも強い力の持ち主だとか。
「私もまた会いたいな……桜緋さんに」
千歳が空を仰ぎながら呟く。魁斗が苦笑交じりに肩を竦めた。
「千歳が願うんだ。叶うだろ」
「もう! 兄さんそろそろ私から卒業して!」
「ハッ……そりゃ無理な相談だな」
「格好良く言っても駄目!」
「ンな冷てぇこと言うなよ」
終わりの全く見えない兄妹の会話を聞きながら、千尋も空を見上げた。日暮れ時の夕焼け空が頭上に広がっている。
彼女は僕を見るとき、どこか嬉しそうで、哀しそうだ。僕の前世と何があったのか、彼女は全く口にしない。ただ、それを訊くと必ず、こう言うのだ。
――彼奴は、良き友だった。お前とも、そう在りたい。……迷惑か?
僕は、そんな彼女を拒む理由がないから、構わないと答える。そして、彼女は安堵したように笑うのだ。いつも、そう。
――そうか。……礼を言う。
こんなぎこちない関係が友とは思えない。だから……
僕は、彼女を知りたい。彼女と本当の友になれるように。
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