異変の春

不穏な兆候

桜は僕を守護す

 闇。

 瞬くも、闇。

 首を巡らせるも、闇。

 視界を奪う闇の向こうへ、手を伸ばす。しかし、虚空を掻くだけで終わる。


 嗚呼、寒い。


 急に身体が冷えてきた。心臓を氷の手で掴まれているようだ。悪寒が全身を駆け巡る。気色悪さに吐き気が込み上げてくる。気を抜くと、大して溜まっていない胃の中身を残さず嘔吐してしまうだろう。生来の嘔吐嫌いとしては、それだけは避けねば。残り僅かな気力を振り絞って我慢する。

 それも残念ながら限界が近いらしい。耐え切れずに口元を手で押さえようとした。だが、叶わない。なぜ。

 理由はすぐに分かった。いつの間にか四肢に何かが絡みついている。もやのようなものが。首や胴体、腕、脚に絡んだそれが、触れた箇所から体温を奪っているのだ。悪寒の原因は、これか。

 締め付けによる息苦しさと痛みに呻き声を上げようとしたが、それもできない。口を開けたと同時に、咥内にも靄が侵入してきたのだ。喉の奥にまで入り込んできて、そこから体内の生気を奪い始める。

 視界が回る。頭が痛い。金槌で殴られるような激痛。苦痛のあまり頭が割れるのではないか、これは。失神しそうになるも、必死に意識を繋ぎ止める。今、気を失いでもしたら、確実に二度と目覚められない。


 ……やばい。


 生命力を着実に吸われているせいか、突然全身の筋肉が弛緩した。駄目だと思っても抗う体力も残されていない。皮肉にも靄に体を預ける形で大きく仰け反り、辛うじて持ち上げていた瞼も落ちた。

 はっきりとしない朦朧とした意識の中で、ぼんやりと思う。

 僕は、ここで終わるのか――。

 その時だった。


『手を』


 脳に直接響いた少女の低い囁き。おかげで、遠のきかけていた意識が戻ってきた。少女の気配は、いつの間にか近くに存在していた。

 どうにか瞼を持ち上げ、眼球を動かして気配の方を見る。何もいないように見えるが、確かにいる。彼女は傍らに隠形おんぎょうしている。


『動けないのか?』


 問い掛けに頷こうとするも、それすらままならない。だが、こちらの返答は察してくれたようだ。


『……分かった。気をしっかり持て。いいな?』


 瞬きで応じれば、彼女はフッと笑みを漏らしたらしい。見えなくとも、そんな気配の揺らぎが伝わってきた。

 靄に拘束された手足。そのうちの右手に、柔らかな彼女の手が重ねられる。触れられた肌が一瞬冷えた。次いで、微かな貧血に襲われる。しかし、それは問題ない。これまでかなりの生気を奪われた。だから、この程度の違和感は問題とも思わない。

 この現状を突破することの方が、よほど急務だ。


『放せ……!』


 彼女の声音が脳に響き渡った。神社の巫女さんが持っていそうな沢山の鈴。あれを耳元で鳴らされたら、こんな感覚がするのかもしれない。あまりの反響に軽く眩暈がした。けれど、先ほどまでの身を侵される不快感と本能からの危機感に比べれば、どうってことはない。


 視界を覆っていた闇が唐突に晴れた。


 眩しさに目を細めていると、また何かが視界を埋め尽くした。今度は闇ではない。乱舞する桜の花弁だ。

 薄紅のそれが身体を縛る靄を切り裂いていく。

 激しい花弁の渦に吞まれる。彼女のおかげで四肢の自由を取り返した。僕は、未だ目の前で踊り狂うそれに、手を伸ばした。一枚くらいなら、この手に……。

 だがそれは叶わなかった。

 急激に周囲の景色が変化し始め、僕の意識は崩れゆく空間から弾き出された。


 ***


 耳を劈くギターとシャウトの爆音で、千尋は我に返った。ライトに照らされたステージ。歓声を上げて盛り上がるオーディエンス。ボーカルの最高に輝いた笑顔。だが、自分に向けられた視線だけは背筋がうすら寒くなるほどに冷えている。その理由を十二分に自覚している千尋は、申し訳なさに瞼を伏せた。


 神奈川県横須賀市。京急線汐入駅から徒歩二分ほどの場所にあるショッピングモール。

 市民の憩いの場であるそこには、小さめだが音楽イベント等が行えるステージが設置されている。よく地元の中高生が部活の発表を行ったり、バンドを呼んで、ちょっとしたライブを開催したりするのだが、今日はボーカルの関係者ということで特別に最前列の席で見せてもらったのだった。

 ライブ終了後。携帯に一言、待ってろという随分と雑な文面のメッセージが届いた。大変まずいと思いながら、モール内で軍港を見渡せる位置に配された休憩所のベンチに腰掛ける。近くにある自動販売機で、パックのいちご牛乳を母親に買ってもらって、ご満悦な女の子が目の前を歩いていく。その様子を、千尋はぼんやりと眺めていた。

 案の定、片付け諸々を速攻で終わらせてきた様子の彼が猛スピードで走ってきた。嗚呼、いい年の大学生が屋内を疾走なんて。原因は自分だが、それでも恥ずかしさで顔を覆いたくなった。

 かなりの速度で駆けてきた彼は、勢いをそのままに問答無用で千尋の後頭部を強か引っ叩いた。


「こんの……阿呆がッ!!」

「痛てっ……!」


 喧嘩慣れした幼馴染からの威力割り増しな一撃は思いの外応える。片手で叩かれた部分を押さえつつ、千尋は振り返った。


「ほんとにごめん……魁斗」

「ったく、よりによって俺のライブ中に意識飛ばしてんじゃねぇよ。せっかく最前取ってやったってのに、もったいねぇ」


 俯いて謝ることしかできない千尋。すっかり落ち込んでしまった様子だ。魁斗はそんな千尋を見て、ガシガシと明るい茶の髪を掻きむしった。そして、居心地悪げに目を逸らす。


「ンな深刻そうに謝んなよ……俺が苛めてるみたいじゃねぇか」

「ごめ……」

「あー! 謝んなっつってんだろ!? もう怒ってねぇから、な!?」


 謝ることをやめない千尋の肩をがっしりと掴む。肩を掴まれ、揺すられた千尋は目を白黒させた。

 こう見えて、魁斗は優しいのだ。少しばかり不器用で粗暴だが、決して悪い奴ではない。肩を掴む魁斗の手に自分のを重ね、千尋は小さく頷いた。

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