桜花繚乱

土御門 響

昔日

 此の世に生を受けて、何度目の春だろうか。

 暖かく穏やかな風に乗ってきて、庭を舞う薄紅の花弁。その様はどの年も美しい。だが、今年は妙に切なさを感じた。何かの予感のような。

 もう歳なのだから大人しく床に就いていてくれ、と懇願してくる娘夫婦と孫達には申し訳ないが、この習慣だけは変えるつもりはない。廊下に部屋から持ってきた円座を敷いて、脇息きょうそくもたれ掛かりながら花見をする。

 年老いてもなお変わることのない春の楽しみであった。

 のんびりと春の景色を楽しんでいたところ、幼子おさなご独特の甲高い声音が老人の耳朶じだを叩いた。


「おじいさま! おさむいでしょ? どうぞ!」

「おお……ありがとうな」


 その小さな手から差し出された衣を受け取って、よしよしと撫でてやる。大好きな祖父に褒められて嬉しいのだろう。まだまだ幼い孫は頬を桃色に染めて笑った。

 末の孫娘であるこの子は、今年で五つになった。可愛らしい顔立ちは母親である娘そっくりで、将来美人になることは間違いないだろう。娘馬鹿、孫馬鹿と呆れられても、彼の考えが変わることはない。

 子供らしいあこめ姿で、ぱたぱたと家中を駆け回り、その度に母親から叱られている少々お転婆な末孫。愛おしく、そして、それだけ元気で健やかであるということが、彼は幸せに思えるのだ。


「さくら、みていらっしゃるの?」


 いつもは庭を駆け回るこの子も、今日は祖父と一緒に花見をするつもりらしい。ぺたんと床に座り、にこにこと、こちらを見上げてくる。そんな孫の艶やかな黒髪を撫でてやりながら、再び庭へと目を向けた。

 空を、都を、庭を舞い、地に降り積もっていく無数の桜達。嗚呼……なんて美しく、儚いのだろう。


 桜を見ていると、懐かしき昔日の日々が脳裏を過ぎる。

 彼女は、どうしているのだろう。ここ数年、全く姿を見ない。自分の視る力が失われたのか、彼女が姿をくらませたのか、どちらなのかすら不明だ。

 だが、直感で言えることがあった。

 彼女は生きている。此の世に今も存在している。

 ……友よ。お前は今、どこにいる。姿を見せてくれずとも良い。

 ただ、私は――――


 ***


 彼の花見は、その日が最後となった。

 彼は花が散って間もなく、静かに息を引き取った。眠るように、此の世を去った。


 そんな死に際を一人、見守る者がいた。その者は病臥する彼の枕元に端座し、一言では言い表せない複雑な感情を孕んだ瞳で、旧友の老いた面差しを見つめていた。


『……少し見ぬうちに、老いたな』


 ぽつりと呟かれた言葉は、ひどく寂しげだった。

 掛布代わりのうちぎから出ている皺だらけの手に触れると、どれだけの時を彼が生きたのかが、よく分かる。人間にしては長命だった。

 その時、彼が瞼を持ち上げた。


『……っ』


 しまった、起こすつもりはなかった。

 目覚めたといっても、まだ夢とうつつの狭間にいるらしい。緩慢とした手付きで、彼は私の手に自らの手を重ねてきた。そして、心底嬉しげに笑った。穏やかで、幸せそうな笑みを向けてきた。……全く、本当に。お前は全然変わらない。


「来てくれたのか……?」


 こちらは接触しているものの、姿は晒していない。けれど、微かに零れる気配で分かるのだろう。私が枕元にいることが。


「そろそろ、限界かもなぁ……」

『自覚があるのか?』

「そうだなぁ……眠いからなぁ……」


 のんびりとした口調だ。もう間もなく川を渡るというのに。人間は老いると余裕が生まれるらしい。昔ならば死の恐怖におののき、慌てふためいただろうに変わったものだ。笑うべき状況ではないが、思わず笑ってしまった。

 そんな私を、孫でも見るような眼差しで、お前は見ている。嗚呼、本当に、お前は年を取ったのだな。込み上げてきた切なさが、私の胸の奥を抉った。


「一つ、いいか……?」

『なんだ?』


 不意に声を掛けられ、私は瞬きして応じた。


「もしも、再び生を受ける機会があるのならば……」


 その言葉に思わず瞠目した。何を言うつもりだ。


「その時は、必ず……また会おう」


 にこり、と。にこりと笑って、彼は瞼を落とした。もう、その瞼が開くことはなかろう。私は最期の言葉に俯き、肩を震わせた。


『お前は……っ!』


 私がこういう性格と知っていて、言ったのだ。次会う時、私の性格を忘れたとは言わせんぞ。

 その次が、いつになるか想像もつかない。私も時の流れで多少は変わってしまうだろう。それでも、根幹は変わらない。

 だから、待とう。再び出会う日を。

 幾瀬の年月の彼方に、お前が再び生を受ける瞬間を。お前に再び逢える日を。

 私は永久に、待っていよう――――

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