第2話 土砂降りの後

「おい、おきろ!」


 ヨハネは頭に強烈な衝撃を受けて目を覚ました。

 まだ薄暗い早朝だった。一昨日の朝から降っていた雨はやんでいた。


 暗闇の中では、奉公人頭の薄ら笑いがぼんやりと見えた。


「おまえ、今日は市参事会の仕事に行って来い。市参事会の建物の前が集合場所だ。飯は向こう持ちだ。この商会の代表なんだから、みっともねえ真似すんじゃねえぞ」


 そういうと、奉公人頭は土間の砂をヨハネに擦りかけて、奉公人小屋を出て行った。


 ヨハネは憂鬱な気分になった。雨上がりの朝に、市参事会に出されるという事は、あの仕事をやらされるに決まっていたからだ。


 ヨハネは立ち上がって、体についた藁クズと埃をはたくと、裸足で裏道に走り出た。


 雨上がりの裏通りは、まるで小川だった。それも喰い残しや犬の死体が流れる汚物の川だ。その中をヨハネは、膝まで水に浸かりながら、市参事会に建物に向かって急いだ。


 ヨハネは裏道の角を幾つか曲がって大通りに出た。大通りはすっかり水がはけ、埋め込まれた敷石が黒く光っていた。


 その上をヨハネは大股で走った。彼の黒髪は風になびき、茶色の肌は湿った空気の水気で光った。


 いくつものアーチ状の石橋を超えると市参事会の建物が見えてきた。その横には、たくさんの奉公人がたむろしていた。数百人はいるだろうか、ヨハネはそう目算した。


 市参事会の建物の中から、背が高く金髪の男が出てきた。その男は、馬車の御者台の上に立つと、奉公人たちに向かって大声で叫んだ。


「奉公人たちよ。今日は川ざらいをやる。一昨日からの大雨で、川の中には大石が転がり、護岸のための石垣は崩れている個所も見受けられる。市参事会の出資者たちがこれの修繕に協力してくださった。私が杖突き(現場監督)をやる」

 その男は背後に朝日を浴び、白い肌を光らせて奉公人たちを睥睨した。


「朝飯は用意した。パンと水だ。食べて行け」


 馬車の横には黒パンが入ったたくさんの大きな箱と、水の入った樽が数十個、置かれていた。

 奉公人たちはそれに群がった。箱のふたを剥ぎ、樽のふたを割って、パンを貪り喰い、水を呑み込んだ。ヨハネも胸が詰まるほど、パンを口に押し込み、それを水で流し込んだ。


 杖突きの男は、その様子を御者台に座って見下ろしていた。


 奉公人たちが食い終わると、その男は言った。


「私の馬車に歩いてついてきて下さい。現場まで案内します」


 馬車は走り始めた。その後を追って数百人の奉公人たちが走り始めた。


 馬車は早く、奉公人たちは息を切らせてその後について走った。走るのが得意なヨハネは、走る奉公人たちの中にいながらも、彼らを観察する余裕があった。


 髪の色は赤毛に黒髪、金髪に栗毛、直毛にくせっ毛、みな若かった。彼らはその肌を様々な色に光らせながら、大股で走った。


 しばらくすると、作業現場についた。

 そこは川べりの石垣が崩れ、川の流れの中には白いしぶきが幾つも上がっていた。上流から流れてきた石が河の中でとどまり、水の流れを阻害している証拠だった。

 杖突きの男は言った。


「みなさんには、水の中の石を拾い、それを使って石垣の補強をしてもらいます。石を拾う集団と石垣を直す係集団に私が分けます。みなさん、一列になって私の前に来てください。河を指さしたら、河で、石垣を刺したら補強の仕事をしてください」


 奉公人たちは、杖突きの前に並んで分別を受けた。その男は両手を鳥のように動かして、左右に奉公人たちを分けて行った。

 ヨハネは河の中で石を拾う集団に分けられた。

 すぐに作業が始まった。


 ヨハネは増水した河に腰まで浸かると、水中に落ちている大石を両手で転がした。石の下に両手を入れるたび、頭まで水を被った。

 体が冷え、震えが止まらなくなった。全身の骨がきしみ、関節が痛んだ。


 他の奉公人も同様だった。


 ヨハネたちが河原まで石を運ぶと、そこで待っていた石垣側の集団が、もっこで石を運び、崩れた石垣を補強した。


 ヨハネは全身を寒さで震わせ、腰を何度も伸ばしながら、その過酷な作業を続けた。


 しばらく作業が続き、正午になると、河原に幾つもたき火が焚かれ始めた。

 休息時間の証拠だった。


 大鍋が幾つも饐えられ、稗の粥を煮る臭いが周囲に漂い始めた。馬車がパン入りの箱を大量に運んできた。


 河の中にいる奉公人たちは、もう気もそぞろで作業に集中できなくなった。河原では石垣の修復をしていた集団がすでに、昼の食事を始めていた。


 その様子は、大鍋の周囲に金髪や栗毛の男たちが殺到して輪を作っているようだった。


 ヨハネたち河の中で作業をしている奉公人たちも、痛む体を引きずりながら河原に向かて水の中を歩いた。


 ヨハネたちは服を脱いで、水を絞ると、全裸になってたき火に当たった。そして黒パンの箱のから一つずつパンを取ると、大鍋の周りに集まって、稗の粥を体に流し込んだ。


 その様子は、大鍋の周囲に黒髪に茶色い肌の男たちが殺到して円を作っているようだった。



 午後もその作業は続いた。

 ヨハネたちのおかげで、河の中の大石はあらかた片付けられ、河の流れは正常になった。石垣の補修も終わり、これで下流が洪水で被害を受けることもないだろう。


 ヨハネはずぶ濡れになって体を震わせ、腰骨の痛みに耐えながらも、自分の成し遂げた仕事に満足した。


 そこからが地獄だった。


 ヨハネは、仕事が終われば、作業場から歩いて帰らなければならない事を忘れていた。

 作業が終わって気の抜けた奉公人たちは足を引きずり、病人のように街の通りを歩き続けた。


 石垣の作業を行っていた者はまだ元気で、ヨハネたちの前を歩いた。赤毛と栗毛、それに金髪の混じった集団は背を伸ばして、大股で通りを歩いた。

 その後ろをヨハネたちの集団は、黒髪を濡らし、皮膚を汗で茶色く光らせながら、悄然と歩いて行った。



 ヨハネは商会に帰った。台所に入ると、夕飯の粥はすでにみな食べられていた。彼は鍋の底にこびり付いた粥を爪ではいで口に入れると、水瓶の水をひしゃくですくって流し込んだ。


 ヨハネは、奉公人小屋の自分の寝藁に帰ると、倒れ込むように横になった。

 彼の心には、妙な違和感が芽生えたが、それが何か判らないまま、あっという話に眠りに落ちた。

 夢も見なかった。

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