(一話読み切り)混血の奉公人ヨハネの日常

芝原岳彦

第1話 お使い

「おい、おきろ!」


 ヨハネは頭頂部に衝撃を受けて目を覚ました。薄明かりの中で目を凝らすと、奉公人頭の薄ら笑いを浮かべた顔が浮かび上がった。


 ヨハネは体を起こして体についているわらクズをはたき落とした。十五歳の新入り奉公人である彼は、土間の上に藁を敷き詰めただけの寝床で寝かされていた。


 「おい、今から朝市場に行って、朝飯に出す魚を買ってこい。代金はこの商会の付け払いだ。少しでも安く買ってくるんだぞ」

 そう言うと奉公人頭は、まだ藁の上に座っているヨハネに土間の砂を足で擦りかけると、奉公人小屋を出て行ってしまった。


 奉公人小屋は縦長で、中央の通路の左右に十台ずつの寝台が置かれていた。みな廃材を組み立てたの箱で、その中にわらが入っているだけの粗末な寝台だった。

 新入りのヨハネに至っては、その箱すらなく、土間の上に藁が敷いてあるだけの寝床だった。


 ヨハネは飛び起きると、奉公人小屋から裸足はだしで飛び出した。春の空気はまだ冷たかったが、東の空には太陽が光り始め、裏路地の汚い通りを照らし始めていた。


 目指す市場は海辺に開かれているはずだった。早くいかなければ売り切れてしまう、そう思ったヨハネは、汚い水溜まりを飛び越えながら海辺に向かって走った。

 彼の美しい黒髪がなびいた。


 朝の市場はだった。


 今朝、水揚げされたばかりの魚、昨日、海女たちが取り上げて、一日海水の中で生かされたあわび栄螺さざえ、先ほど潰されたばかりの牛や豚。


 それらの放つ磯臭さや、血と粘膜の臭い、そして人いきれが混然一体となって市場をうねり流れていた。



 ヨハネは適当な屋台を一つ見つけると、その店主に声を掛けた。

「ごめんなあ。もう売り切れですわ」

 実際、商品台の上にはほとんど商品が残っていなかった。


 彼は別の屋台に行き、そこの女将さんに声を掛けた。

「もうちょっと、早かったらなあ」

 実際、店頭にはほとんど商品が残っていなかった。


 彼は別の店を探して、そこの店主に声を掛けた。

「申し訳ありません。売り切れなんです」

 店の前には小さなさめが一匹並んでいるだけだったが、店の奥には、たくさんの干したいわしを細い麻縄でした商品が吊るしてあった。


「あれはどうですか」


ヨハネがそう尋ねると、店主はヨハネの顔を凝視しながら、

「あれは、お得意さんに売るモノなんです。申し訳ありません」


 ヨハネはまた別の店に行くと、金髪の店主に声を掛けた。

「安い魚がありますか?」


その店主はヨハネの全身を上から下まで見るといった。

「もう売り切れだね。ごめんね」


「でも、台の上にはあじが幾つも残ってますよ」

「そいつは、一匹、良銭一五枚ですよ」

「良銭十五枚ですか! あじがそんなにするなんて聞いた事ない!」

「水揚げされたばかりの特別なあじなんですわ。お大尽の食卓に上がってもおかしくないものなんでね」


 ヨハネは次の店に移った。

 その店には、商品台の上にあじが大量に残っていた。

「そのあじを二十人分下さい」


屋台の店主はヨハネを品定めするように見ると言った。

「その魚はもう傷んじまっててね。お客様に売るわけにはいかねえんですわ。悪いね」

 店主はその彫の深い顔を左右に揺らしながら言った。



 ヨハネは焦り始めた。日が高くな始め、朝食の時間は近づいていた。早く買い物を済ませて商会に帰らないと、奉公人頭にまた殴られる、そう思いながら、あたりを必死に見渡した。

 一軒の店を見つけた。その店頭には、たくさんの飛魚が並んでいた。ヨハネはその店に走った。


「その飛魚とびうおを二十人分下さい」


 その店の男は、背が高く彫の深い、色白の男だった。その男はヨハネの全身を上から下まで舐め回すように見ると、心もちあごを上げて行った。


「悪いね。これは売る相手が決まっているんだ」

 ヨハネは驚いて言った。

「決まっているも何も、店先に並べてあるじゃないですか」


 そのヨハネより背の高い男はあごを上げたまま、目だけを下に動かしてヨハネを下に見ると言った。


「お得意さんがいるんでね。その人たちが来るのを待ってるんだ」

鮮魚せんぎょにお得意さんですか……では店の奥にある干し魚を売ってください」


 ヨハネは店の奥の箱に詰めてある干した鯵を指さして言った。


「あれは飯屋に納める分なんですよ。悪いね」

「店に納める分をわざわざ市場まで持って来たんですか。そんな事あり得ないでしょう」

「すいません、次のお客さんがお待ちなので」


 ヨハネが後ろを振り向くと何人もの客が眉間に皺を寄せて待っていた。その客たちに跳ね飛ばされるように、ヨハネは横にどいた。

 飛び魚も干した鯵も飛ぶように売れて言った。



 ヨハネは肩を落として商会まで帰った。


「馬鹿野郎!」

 ヨハネは左頬を奉公人頭に殴られて尻もちを付いた。

「てめえはお使い一つ満足にできねえのか。この役立たずが!」


 その後ろには朝飯を待っていた他の奉公人たちがいら立った目でヨハネを睨みつけていた。


「お前みたいな役立たず、今日は一日、飯抜きだ!」

 奉公人頭はヨハネにそう怒鳴ると、飯を待っていた他の奉公人たちに言った。

「仕方ない。今日は仕事の前に、屋台で朝飯だ」


 そう言われた奉公人たちはヨハネに悪態をつきながらゾロゾロと食堂を出て行った。


 ヨハネはなぜこんなことになったのか全く分からないまま、台所の土間に尻もちを付いたまま、呆然としていた。

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