第7話 準備完了

「あれ? 綾乃ちゃんってソフトボールをやってたとか?」

「中学と高校はそうですけど、小学校の間は少年野球チームに入っていました。ちょうど上の兄がチームのコーチをしていて、毎週手を引かれて練習に連れて行かれたんです」

「……へぇ」

「そりゃあ凄い」

 以前話を聞いた祐司は無言を貫いたが、康太と銀至は素直に驚きの表情を見せた。


「兄が厳しくて、二年生位までは玉拾いばかりさせられてましたけど、満足してましたね。陰でこっそり上級生のお兄さん達が、キャッチボールの相手をしてくれましたし」

「一年生から?」

「お兄さん、厳し過ぎないか?」

 男二人の顔が僅かに引き攣ったが、綾乃はそんな事には気が付かず、話を続けた。


「練習の甲斐あって、幼稚園までは毎月の様に熱を出して寝込んでいたのに、小学校からは凄く丈夫になって、中学高校は皆勤賞を貰いました。その時は家族皆で喜んでくれて」

「丈夫になったね……」

「うん、それは凄い」

 感心するしかない話に二人で頷いていると、綾乃が地面に置かれているバットに目をやりながら、誰に言うともなく呟く。


「久し振りにバットを見たら、打ちたくなっちゃったな……。今度、バッティングセンターにでも行こうかな?」

 それを耳にした康太と銀至は思わず顔を見合わせ、次いでニヤリと面白そうに笑ってから提案した。


「じゃあ綾乃ちゃん、今からちょっと打ってみない?」

「え? 良いんですか?」

「ちょっと待て、綾乃! おい、康太!」

 途端に喜色満面になった綾乃に、祐司は焦った声を上げつつ康太に詰め寄ったが、康太は苦笑しながら声を潜めて相手を宥めた。


「まあまあ、一応経験者みたいだし、バットがすっぽ抜けるとか危ない事にはならんだろ。ピッチャーには打ちやすい、甘い球を投げる様に言っておくからさ」

「しかしだな!」

「お前、あの期待に目を輝かせている綾乃ちゃんに、駄目だと言えるのか?」

 そこで綾乃を振り返った祐司は、満面の笑みの綾乃を認め、説得を諦めた。


「分かった。だが間違ってもデッドボールなんてさせるなよ?」

「うちのピッチャーは球威もコントロールも、かつてのお前並みだ。安心したか?」

「……そういう言い方をされたら、反対できないだろうが」

 冷やかし気味にそんな事を言われた祐司は渋面になったが、綾乃に向き直った時はいつもの表情を取り繕った。


「じゃあ綾乃、ちょっとだけなら。その代わり、十分気を付けるんだぞ?」

「はい! ありがとうございます!」

 祐司の許可を得て、祐司や康太達にも頭を下げた綾乃は、早速周囲の人間と両手両足がぶつからない広さの場所まで移動し、早速簡単なストレッチを始めた。


「良かった~、祐司さんの言う通り、動ける服装にしてきて」

 そう言いながら手早く手首足首をほぐしていく綾乃を見て、少年たちは「何事?」と顔を見合わせたが、男達も顔を寄せて囁き合った。

「おお、やる気満々だな、綾乃ちゃん」

「本当に可愛いな」

「本当に、大丈夫なんだろうな?」

「くどいぞ祐司!」

「お前がそんなに心配性だとは思わなかったぞ」

 一人不安そうな祐司をからかいつつ、康太はピッチャーの貴史を手招きして打ち易い球を投げる旨を小声で指示した。それに「任せて下さい」と自信満々で頷いた彼が、ボールの入ったバケツを手にマウンドに戻り、キャッチャーと組んで何回か投げ込む。そして素振りを終えた綾乃がバッターボックスに立った為、貴史は一応確認の為、綾乃に声をかけた。


「じゃあ行きますよ? 投げても良いですか?」

「……よぉうっし! 準備運動完了! どっからでもかかって来やがれ!!」

「え?」

 バットを握り締めた綾乃の口調と表情が先程までとは一変した事に、グラウンド中が静まり返ったが、気を取り直した貴史が振りかぶり、ストライクゾーンど真ん中に投げ込んだ。


「うぉりゃあぁぁっ!!」

 そして大方の予想では、あっさり真っ直ぐキャッチャーミットに収まる筈だったボールが、綾乃が振ったバットによって弾き返されて大きく弧を描いて飛んで行き、センターの頭上を軽々と越えていくのを、綾乃以外のその場全員が呆然と見やった。


「……あ、越えた」

「良い音したなぁ……」

「真芯を捉えたな。会心の当たりっぽい」

 そんな独り言めいた呟きが漏れる中、綾乃の雄叫びがグラウンドに轟いた。

「さあ、ドンドン来いやぁ――っ!!」

 その挑発紛いの物言いに、貴史が瞬時に本気になる。


「……くっそ。これならどうだ!?」

「あぁ? 落とすならもっと落とせや、こら!」

「それじゃあ……、これだっ!!」

「それで隅を突いたつもりか? ふざけんな!!」

「それなら全力で行くぜ!!」

「それで全力? 蠅が止まりそうなボールを投げるとは器用だな?」

「ふざけんなぁぁっ!?」

 相方とサインのやり取りをして、球種・コースを厳選しつつ投げ込んでいった貴史だが、悉く綾乃に弾き返され、段々余裕が無くなっていく。それを冷静に見やりながら、男達が言葉を交わした。


「……祐司。お前、彼女を野球の腕で選んだのか?」

「いや……、彼女がここまでやれるとは、今の今まで知らなかった」

「それになんだか、さっきまでと口調が全然違うんだが?」

 そこで祐司は、綾乃とのやり取りを思い返す。


「そう言えば……、彼女のお兄さんが、彼女の事を『ボールとバットを持つと人格が変わる』と言っているとか」

「なるほど」

「でも無意識に、野球好きの相手を選ぶとは……。お前が相変わらずの野球バカで、俺は嬉しいぞ」

「それは嫌味か?」

「それはともかく、どこで止めさせる?」

 好き勝手に言い合っていた大人達だったが、マウンドを眺めながら銀至が眉根を寄せた。それを受けて、同じく顔を向けた康太が、仕方がないといった風情で肩を竦める。


「貴史の奴、ムキになってるからな。気の済むまでやらせておくつもりだが」

「でも一見素人っぽい女にあそこまでボロボロ打たれて、心の傷になったりしないか?」

 そんな指摘に、思わず祐司と康太は改めて貴史を見やった。


「これなら……、どうだぁぁっ!!」

「まだまだ曲がりが甘いっ!」

「くっそぉぉっ!!」

 既に涙目になりながら投げている貴史を目にした康太は、沈鬱な表情で終了を告げた。


「……そろそろ止めさせるか」

「そうだな」

「そうしろ」

 そこで康太が止めに入り、綾乃は素直にバットを返してからマウンドの康太と貴史の元に走り寄り、笑顔で礼を述べた。対する康太と貴史の顔が盛大に引き攣っていた気がするが、祐司と銀至は見なかった事にする。すると綾乃は、今度は笑顔のまま祐司の所に駆け戻った。


「お待たせしました。はぁ、すっきりした……。とっても楽しかったです!」

「それは良かったな」

 綾乃が純粋に楽しんでくれたのは祐司としても嬉しかったので、色々な瑣末な事には拘らない事にした。すると綾乃が話を続ける。


「はい! 祐司さんの実家に行くのに凄く緊張していたんですけど、これでリラックスできました。もう、どっからでもかかって来やがれ、って感じです!」

 グッと拳を握り締めた綾乃に、祐司は本気で頭痛を覚えた。

「……出入りじゃないんだから。じゃあ俺達、そろそろ行くから。またな」

「お邪魔しました!」

 側にいた銀至に別れを告げ、マウンドの康太には軽く手を振って挨拶すると、銀至は挨拶を返し、康太は手を振り返した。


「さよなら。おじさん達に宜しくな。また近々、顔を見せに行くから」

 そしてグラウンドに背を向けて歩き出した二人だったが、まだ興奮冷めやらぬ様子で、綾乃が感想を述べる。


「こんな所で思いきり打てるなんて予想して無かった分、余計に嬉しかったです」

「そうか。それで綾乃、さっきの話の続きだが」

「今度千本ノックとか、やらせて貰えないかなぁ」

「…………」

 うっとりとした表情で、虚空を眺めながら呟く綾乃から、背後に視線を戻した祐司は、マウンド上で両手を付いてうずくまっている貴史と、それを宥めているらしいチームメイト達の姿を目に入れてしまい、(俺だったら立ち直れ無かったかもしれないな。すまなかった。挫けずに頑張れよ?)と心の中で不幸な後輩に、密かにエールを送った。

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