第5話 ご招待

 ある日の昼休みの時間帯。綾乃は一緒に休憩に入った先輩の公子と香奈と共に、社員食堂にやって来た。そして何事も無く食べ始めたところで、公子が何気なく綾乃に尋ねる。


「そう言えば……、君島さんは最近、随分ご機嫌ね。仕事中も時々小さく鼻歌を歌っているし」

「うぇっ!? す、すみません! 騒々しくしていまして!」

 その指摘に驚いた綾乃が慌てて箸を置き、公子に向かって頭を下げたが、彼女は鷹揚に笑った。


「別に、鼻歌位良いのよ。業務の邪魔になる程、大声で歌っているわけじゃ無いしね。ただ最近、そんなに良い事や嬉しい事があったのかと、不思議に思っていたのよ」

「笹木さん。そんなの彼氏持ちのこの子なら、大体の所は決まっているんじゃありません?」

 綾乃の向かい側の席から、香奈がすこぶる冷静に口を挟んだが、これまた公子が真顔で言い返す。


「世間一般的な、彼氏持ちの子ならね」

「そう来ましたか……。そう言われてみると、確かに何がそんなに嬉しいのか、少々気になりますね」

 そこで二人から探るような視線を受けてしまった綾乃は、誤魔化さずに正直に申し出た。


「その……、先々週末に、祐司さんに千葉に連れて行って貰って、カープ対マリーンズのオープン戦を見てきたんです。カープの雄姿を直に見たのはほぼ一年ぶりだったので、つい仕事中にその時の興奮がぶり返しまして……」

「それで? つい応援歌みたいな物を、歌ってしまうとか?」

「はい……」

 僅かに驚いた顔を見せた香奈に、綾乃が面目なさげに頷く。その間公子は笑いを堪える風情で綾乃を見ていたが、ふとある事が気になって問い掛けてみた。


「君島さん。千葉のマリンスタジアムは、マリーンズのホームグラウンドよね。試合を見た時はどちら側に座ったの?」

「勿論、三塁ビジター側です。祐司さんはあまり野球に詳しく無いと言っていたので、カープの応援グッズを幾つかプレゼントして、色々教えてあげました。ちょっと新鮮でしたよ? いつも祐司さんに教えて貰ってばかりで、私が教える立場になったのなんて、あの時が初めてでしたし」

 にこにこと満面の笑みを浮かべながらそう告げた綾乃に、公子は笑いを堪える表情で言葉を返した。


「……そう。それはさぞかし、楽しかったでしょうね」

「はい、とっても!」

 しかしそこで、何かを思い出したらしい香奈が、怪訝な顔で口を挟んできた。


「あれ? でも確か高木さんって、以前聞いた話では」

「宮前さん?」

「はい、何ですか? 笹木さん」

「…………」

「…………」

 公子が無言で向けてくる笑顔を、香奈が怪訝な顔で見つめ返す。しかしそれはそう長くは続かず、香奈がどこか含みのある口調で言い出した。


「……ああ、そうよね~、あの高木さんが野球に詳しいとか、贔屓の球団があるなんて話、これまで社内で聞いた事無かったしね~。じゃあ綾乃ちゃん、高木さんをカープファンになる様に、勧誘したんだ~」

「勧誘と言うか……、一緒に応援してくれたら嬉しいなぁってちょっと思って、二人で応援団とかに入りませんかとか、さり気なく勧めてみただけですけど……」

 真っ赤になってモジモジと俯き加減で告げた綾乃を見て、公子と香奈は彼女と祐司の間でどんなやり取りが交わされたのかを、うっすらと察してしまった。


「う~ん、まあ確かに今まで興味が無かった人が、いきなり熱烈なファンになるって言うのは難しいしね。これから観戦の度に控え目に勧めてみたら? 面白さが分かったら、一緒に入ってくれるわよ」

「ですよね!? ありがとうございます、香奈先輩。頑張ります! 実は広島がまた日本一になる時には、日本全国どこであろうが駆け付けて、日本シリーズ制覇の瞬間を見届けようと、父と上の兄と固く誓い合っているんです。それに祐司さんが加わってくれたら、凄く嬉しいです」

 そう力説して瞳を輝かせ、その瞬間を想像して胸躍らせているであろう綾乃に対して、二人な余計な事を一切口にしなかった。


(正面切って、今言った様な事を言われたとすれば……。つい言いそびれた事も納得できるけどね)

(高木さん、完全に打ち明けるタイミングを外しましたね? なるべく早く言った方が良いと思いますけど)

 心の中で祐司に軽く同情した二人だったが、結局(でもこういう事は自分で言わないとね)と余計なお節介をする気は皆無であり、中断していた食事を続けた。すると思い出したように綾乃が言い出す。


「あ、野球観戦で思い出しました! 笹木さん、付き合っている人の実家に訪問する場合に持参する手土産って、どんな物が良いんでしょうか!?」

 そんな事をいきなり声高に尋ねられた公子は、思わず箸の動きを止め、まじまじと綾乃を見詰めた。


「何? その具体的過ぎる質問内容。結婚の報告にでも行くの? それにどうして野球観戦の話から、高木さんの実家訪問の話に繋がるわけ?」

 公子にすれば当然の疑問を発し、香奈が目を輝かせて固唾を飲んで見守る中、綾乃が激しく狼狽しながら言葉を継いだ。


「いいいいえっ! あのっ! けっ、結婚の報告とかでは無くてですね。球場で偶然会った祐司さんの昔のお友達から、私の事が実家の皆さんに伝わったらしく、祐司さんが『彼女同伴で顔を見せに来い』と言われたそうなんです」

「なるほどね」

「そういう事か」

 公子と香奈が納得して頷き、綾乃が真顔で話を続ける。


「祐司さんは『用事があるなら無理して行かなくて良いから』と言ってくれたんですが、まさか初めてのご招待を袖にできませんし、何が何でも予定を空けて、お誘いを受けるべきじゃないかと思いまして」

「……まあ、一般的には、そうねぇ」

「後々の事を考えたらね」

 二人とも口では綾乃に軽く同意しつつ、ほぼ正確に祐司の心境を推察した。


(家族にからかわれるのが分かりきっているから、本音を言えば断って欲しかったのよね? でもこの子にそういう機微を察しろというのは、ちょっとまだ無理でしょう)

 微妙な表情で顔を見合わせた二人は、取り敢えず無難なアドバイスをする事にした。


「それならやっぱり、あまり大げさにならない程度の物を、持参した方が良いでしょうね」

「日持ちを考えたり、人によってあまり好き嫌いが別れにくい物と言うと、やっぱり焼き菓子関係でしょうか? 大して重くなりませんし、個包装だと量の調節も容易ですし」

「そうね。いきなりお酒とか高級食材だと好みが各自の好みがある上、持病のある方だと食事制限とかかかっている可能性もあるし」

「生クリーム系も控えた方は無難ですよね」

「宮前さん。今日の退社後、君島さんを近くのパティスリーに連れて行って、店員さんに事情を話して、見繕って貰ってくれるかしら?」

「はい、良いですよ?」

「ええ? そんな香奈先輩のお手を煩わせる様な真似は。それに店員さんにも迷惑ですよ」

 二人のやり取りを真剣に聞いていた綾乃が、ここで慌てて口を挟んできたが、公子は軽く笑いながら綾乃に言い聞かせた。


「単なるレジ打ちのバイトなら困るでしょうけど、その場合は詳しい店員に対応を頼むでしょう。第一、その店の商品について一番詳しいのは、その店の店員よ? それを使わない手は無いわ」

「それはそうでしょうが、でも……」

「あなたのお家は職業柄、冠婚葬祭を含めたお付き合いが広い筈よ。お母様はその贈答品の一つ一つを、全て自ら選んでいるわけ? 家人や依頼する店の人間に任せてはいないの?」

 そう公子に指摘され、綾乃は少し考え込んでから納得したように頷いた。


「そうですよね。信頼できる人を見極めて、後は信用してお任せするって事も大切ですよね。良く分かりました。一人でうじうじ悩んでないで、思い切ってお聞きしてみます!」

 何やら吹っ切れたらしく、顔付きを明るくした綾乃だったが、続く公子の台詞で顔を引き攣らせた。


「それが良いわよ。手土産云々で悩んでいる暇が有ったら、高木さんの実家でどんな事を聞かれて、それにどんな風に答えるかをシミュレーションしていた方が、はるかに有益で建設的だわ」

 それを聞いて、(そう言えばそれもあった!)と愕然とした表情になった綾乃に、二人がニヤリと笑いながら追い討ちをかける。


「頑張ってね~。悪いけど私、まだ彼氏の実家に挨拶なんて行った事は無いから、アドバイスなんか無理だし~」

「色々あって、私もそうよ。そういうわけだから、そっちの方は自力で何とかしなさいね?」

「ええ!? お二人から是非、そちらのアドバイスも頂きたかったのに!」

「駄目」

「無理」

 本気で涙目になりつつある綾乃を多少気の毒に思ったものの、公子と香奈は止めていた手と口の動きを復活させ、それから何事も無かったかのように食事を続けた。

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