第32話 勘違い

 土曜の昼過ぎ、綾乃は前日のうちに近所のスーパーで買い込み、必要分だけを取り分けた食材を詰めた保冷バッグ片手に提げて、電車に乗り込んだ。そして約二十分後、降り立った駅構内から幹線道路に面した歩道に出た綾乃は、携帯電話のナビ画面と、周囲の景色を照らし合わせながら、目的地に向けてゆっくりと歩き出した。


「えっと、幸恵さんから教わった住所だと、高木さんが住んでるマンションはこの道をまっすぐ行って……」

 最初は見知らぬ土地を歩く事に緊張していたものの、目指す場所に近付くにつれ、綾乃は徐々に自分の行動自体に怖じ気付き始めた。

「いきなり押しかけるなんて、これまでにした事はないし、恥ずかしいんだけど、はっきり口に出すのも恥ずかしいし……」

 頭の中でそんな堂々巡りになりかけた考えを、綾乃は右手に提げた保冷バッグを見下ろす事で「うん、頑張ろう」と自分自身に気合いを入れ、何とか断ち切った。そしてここで一度、ディスプレイの地図を確認してから、道路の反対側に目を向ける。


「じゃあここを渡って、あそこの角を曲がった所に……、え? 高木さん?」

 向かい側の歩道に見慣れた姿を見つけた綾乃は、一瞬表情を明るくしたが、すぐにその顔に戸惑いの色を浮かべた。明るい色彩のシャツにデニムパンツ姿と言う、ラフな姿の祐司を見て戸惑った以上に、彼の横に並んで歩いている女性が存在していたからである。

 しかも祐司は如何にも買い物帰りと言った風情の、食材らしき物を詰め込んである半透明のビニール袋を両手に提げており、そのまま連れの女性と談笑しながら綾乃の視界を横切り、角を曲がって綾乃が目指す方向へと進んで行った。


「えっと……、ひょっとして、近くに住んでいる知り合いの荷物を運んであげているとか?」

 半ば呆然としながら綾乃が呟いた言葉は、もしこの場に幸恵などが居たならば「そんな訳は無いでしょう、この大ボケ娘!」と盛大に突っ込みを入れられる事確実だったが、彼女は幾分混乱したまま、目の前の信号が青に変わった事を受けて、目的地に向かって再び歩き出した。


「後をつけるわけじゃ無いけど……。進行方向が同じだし、不可抗力だよね?」

 そんな弁解じみた独り言を漏らしつつ、何となく前方を進む二人に気付かれないように、あちこちの電柱やら看板やらにさり気なく姿を隠しながら進む姿は、端から見れば不審者扱いされても文句が言えない代物だったが、綾乃はそんな事に構っていられる心境では無かった。

 そしてあれよあれよと言う間に、二人は綾乃が目指していた低層マンションに辿り着き、迷う事無くエントランスから奥の通路へと進んで行った。それを入り口のガラス戸越しに確認した綾乃は、見てはいけなかった物を見てしまったように、気まずそうに来た道を引き返し始める。


「ここって単身者用の賃貸マンションだって、幸恵さんが言ってたし……。そうなると、やっぱり高木さんの部屋に行ったんだよね。お料理、作ってくれるような人が居たんだ……」

 そこまで言って、思わず綾乃は足を止めた。

「私、からかわれてたのかな?」

 その真剣な呟きは、すぐに涙声に取って代わられた。


「ううん、高木さん真面目そうな人だし、違うよね。単に私がぐずぐずして返事を先延ばしにしてたから怒っちゃって、他の人と付き合い始めたのよ。高木さんにしてみれば、当然だわ」

 祐司が耳にしたら「何を曲解している!」と怒鳴りそうな事を、綾乃は涙ぐみながら、独りで納得して再び歩き出した。そして更に自分の考えを、変な方向に向けて進めていく。


「良く良く考えてみたら……。幸恵さんみたいな美人と別れちゃったのも不自然だけど、私と付き合おうとしたのはもっと不自然だもの。あれは多分、ちょっとした気の迷いだったのよ。だって今の人、幸恵さんと比べても遜色ない落ち着いた感じの美人で、とてもお似合いだったもの」

 そこで綾乃はあっさり乗り換えられたという事実(勿論見当違い)にも関わらず、人の良さ丸出しで祐司の心情を推察した綾乃は、溜め息を吐き出した。


「きっと高木さん、新しい恋人ができて、私の事をどう断ろうかって困ってるよね?」

 そんな事を呟きながらトボトボと駅に戻る綾乃は、思わず途方に暮れた声を出した。

「どうしよう……。あの女性の事を言わないって事は、一応私が傷付かないように、気を遣ってくれてるんだよね? それなのに私の方から『もう新しい恋人ができたみたいですから、あの話は無かった事にして下さい』なんて正直に言ったら、高木さんが気を悪くするかもしれないし……」

 そして今日の段取りを整えてくれた幸恵の事を思い出し、綾乃はとうとうポロポロと涙を零し始めた。


「ふうぅっ……、幸恵さんがせっかく考えてくれたのにっ……。無駄になっちゃった……」

 周囲からの好奇に満ちた視線など考える余裕も無く、盛大に目を擦りながら自宅まで戻った綾乃の顔は、本人の自覚は皆無だったが目の周囲が見事に腫れ上がり、酷い有り様になっていた。

 更に綾乃にとって間の悪い事に、翌日の昼は秘書の蓼原を連れて、父の東志郎が綾乃の部屋を訪問する予定になっていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る