第33話 怒れる虎

「……いらっしゃい、お父さん、蓼原さん。お昼の支度は出来ているから」

「やあ、俺の可愛い兎ちゃ……」

「綾乃お嬢さん、お邪魔し……」

 玄関に迎え入れて貰った途端、無表情になって不自然に黙り込んだ父親とその秘書を見て、綾乃は不思議そうに問い返しながら促した。


「二人ともどうしたの? 中に入って?」

「……ああ」

「……お邪魔します」

 前日から今朝にかけて散々「高木さんの顔を潰さない様に、どうやってお断りしよう」とか「幸恵さんにせっかく力になって貰ったのに、無駄足だったなんてどう説明しよう」などと独りで悶々と涙ぐみつつ考え込んでいた為、綾乃の顔は腫れぼったい上、血色も悪くなっていた。流石に朝には鏡を見て気になったものの、昼に父達が食事をしに来る事を思い出し、午前中調理に専念していた為、酷い顔になっているとの自覚はすっかり無くなっていた。

 しかし常日頃、人の表情の裏を読む事を生業としている二人の事、何か有ったのが明白な綾乃の様子に君島は密かに怒りを堪え、蓼原は無言で額を抑えた。


(どこのどいつだ、綾乃を泣かせやがったのは!?)

(お嬢さん……、だから素直なのは美点ですが、素直すぎるのは欠点ですから……)

 そんな内心を押し隠し、二人は綾乃に勧められるままテーブルに着き、表面上は綾乃の手料理に舌鼓を打った。そして当たり障りの無い世間話をしながら半分程食べ進めた所で、君島が徐に口を開く。


「そう言えば……、和臣から聞いたが、荒川家との顛末を聞いたそうだな。話すのが遅くなって悪かった」

 その話題に、それまでどこか心ここに在らずと言った風情で受け答えしていた綾乃が、勢い良く反応した。


「ああっ! そうよ、お父さんもちぃ兄ちゃんも、そういう大事な事はもっと早く話してよ! おかげでこっちは、色々大変だったんだからね!?」

「すまんすまん、それで幸恵さんとはその後どうだ? 仲良く出来ているかな? それに色々大変だったと言うのは、何がどう大変だったんだ?」

 その何気ない問い掛けに、綾乃の顔が僅かに引き攣った。


(えっと……、この話しぶりだと、お父さんは私が当初幸恵さんに邪険にされていた事とか、幸恵さん経由で身元がバレて、社内で爪弾きにされてた事とかは伝わって無いんだよね? ちぃ兄ちゃん、信じて良いよね!?)

 この場に居ない次兄の顔を思い浮かべつつ、綾乃は精一杯普通の笑顔を取り繕って答えた。


「う、うんっ! この前は幸恵さんの分もお弁当を作って職場に持って行って、一緒に食べたのっ! それで『料理が上手なのね』って、誉めて貰ったし!」

「ほう? そうか、それは良かったな。彼女とはお義母さんの四十九日法要の時以降、全く顔を合わせていなかったし、荒川家の方々も『あの子が未だに頑なで申し訳ない』と言っていた位だから、ひょっとしたら綾乃を目の敵にするかと思って、密かに心配していたんだが……」

 僅かに不思議そうな視線を向けてきた父に、綾乃は益々焦りながら言葉を継いだ。


「そんな事無いから! だって幸恵さんは私と比べ物にならない位、美人で仕事もバリバリできる大人の女性だよ? 幾ら気に入らないからって、職場で嫌がらせするような、つまらない事はしないから。あの公明正大なお母さんの姪なんだし、有り得ないよ」

「まあ……、それは確かにそうかもしれんな……」

 愛妻を引き合いに出されても、まだ若干納得しかねる表情を見せた君島に、綾乃は思うまま言葉を継いだ。


「本当に幸恵さんは親切だよ? 色々親身になって相談に乗ってくれたし、住所とか好きなお料理とかまで、事細かに教えてくれたし!!」

「ああ、分かった分かった。綾乃、そう叫ぶな。お前と幸恵さんが仲良くしているのは、十分に分かったから」

「そ、そう? それなら良いんだけど……」

 思わずテーブル越しに身を乗り出し、力一杯主張してきた綾乃を、君島は少々閉口しながら宥めた。そして漸く納得してくれたかと綾乃が安堵した直後、君島がさり気なく爆弾を落とす。


「それで? 幸恵さんに教えて貰ったのは、『誰の』住所で『誰の』好きな料理なんだ?」

「それは勿論、た」

 素直に綾乃が答えかけ、真っ青になって口を噤んだ瞬間、室内の体感気温が確実に五℃は下がった。


「それは勿論、誰だ? 綾乃?」

 表面上は穏やかな笑顔で優しく娘に尋ねる君島だったが、その眼光の鋭さで、身内である綾乃や長年側近として仕えている蓼原には、今の君島がどれだけ危険な状態か、嫌と言うほど理解できた。


「たっ……」

「た?」

 そして追いつめられながらも、何とか頭をフル回転させた綾乃が、精一杯のごまかしの台詞を口にした。


「たっ、助け合いの精神を発揮して、風邪で休んでいる同じ職場の女性の先輩の所に、食事を作りに行きまして! たっ、偶々、その先輩が幸恵さんと同期だったものですから、色々とご相談に乗って貰いましたっ!」

(高木さんに付き合ってくれと言われた事とか、返事代わりに食事を作りに行こうとした事とか、そうしたら別な人と既にお付き合い済みだったなんて言ったら、絶対お父さんが怒る! そして下手したら「そんな奴の居る会社なんか止めろ!」って切れて、強制送還になるかも!)

 無意識に立ち上がって必死の面持ちで一応それらしい話をでっち上げた綾乃を見て、蓼原は思わず彼女を感慨深く見上げた。


(お嬢さん……。親元を離れて社会人として働き出して、こんな口からでまかせが言える程度には鍛えられたんですね。ご立派になられて……。惜しむらくは、先生にはまだまだ通用しないレベルですが、これからもお仕事頑張って下さい)

 思わず涙ぐんだ蓼原の横で、綾乃のその場しのぎの嘘など見切っている筈の君島は、何故かそれ以上は追及せず、あっさりと話を終わらせた。


「……そうか。職場内での人間関係も大切だからな。先輩なら仕事上で色々お世話になる事も多い。困った時はお互い様だろうしな」

「そっ、そうだよねっ!」

 そのやり取りに蓼原は驚いたように君島を見やったが、君島は秘書を目線だけで黙らせ、何事も無かったかの様に食事を続行させた。

 そして無事に食べ終えた二人は綾乃に見送られてマンションを離れたが、乗り込んだ車が発車すると同時に、君島が低い声で隣に座る蓼原に問い掛けた。


「例の綾乃に関わる人物の、調査結果は出ているんだろうな?」

「はぁ……、出ておりましたが、臨時国会の会期が明けてからお見せしようかと考えておりまして」

「と言う事は、お前は既に、その内容を把握しているわけだな?」

 ギロリと睨まれた蓼原は、早々に抵抗を諦めた。


「……今、ご覧になりますか?」

「勿体ぶらずに、さっさと見せろ」

「少々お待ち下さい」

 そうして蓼原が鞄から引っ張り出したモバイルPCを起動させ、数あるファイルから一つを選択した。


「あの口ぶりでは、絶対に綾乃が弁当を作って渡したり、自宅まで行って食事を作るような人間が居る筈だ。しかも幸恵さんにアドバイスを貰ったのなら、同じ社内の人間だろうしな……」

 自分の横でブツブツと憤懣やるかたない口調で呟く雇用主に、僅かに恐怖を覚えながら、とある報告書のファイルを開いた蓼原は、君島の方に画面を向けた。


「おそらく、この人物では無いかと。遠藤社長の息子さんとも若干噂になっていますが、妹みたいに可愛がって貰っているみたいですね」

 話を逸らすように蓼原はわざとらしく別な人物に対しての所見を述べてみたが、君島は報告書の一点を凝視したまま盛大に唸った。


「遠藤の息子なんぞ問題外だが……、この男も許せんな。綾乃の様子がおかしかったのは、絶対こいつのせいだ。しかも、幸恵さんと交際して去年別れているだと? 二重の意味で許し難い」

(だから報告したく無かったんだ。これは確実に、報復措置コースだな)

 そんな事を思って項垂れた蓼原に、予想通りの声がかけられる。


「蓼原、事務所に戻ったら、すぐに人員を手配しろ。計画立案は長谷川に任せるから、お前は要請された人員と資金と物資を滞りなく長谷川に回せ。分かったな?」

「了解しました。早速、長谷川に伝えます」

 そして携帯電話を取り出した蓼原は、(一応、公設秘書も私設秘書も動員しないから、まだ理性は残っているらしいな。それならこの高木とやらも、あまり酷い事にはならないか。会期中だから流石に先生もプライベートの事に全力で取り組むわけにいかないと、自重しているらしい。命拾いしたな)などと考えつつ、窓の外に視線を向けながら、遠い目をしたのだった。

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