第27話 悩み深い者達
社員食堂でそんなやり取りがあった翌日。
周囲からの居心地悪い視線を、できるだけ無視して仕事をしていた幸恵は、昼の休憩を取ろうと書類を纏めてから、重い腰を上げた。
(今日はどこに行こうかしら……)
社員食堂での好奇に満ちた視線を避けるべく、外に食べに行こうとポーチを持って一歩足を踏み出しかけた時、廊下から室内に入ってくる人影が目に入る。
「……失礼します、すみません」
(この声……、まさか!?)
同様に休憩に入ろうとした同僚達が、移動を始めてドア付近にかなりの人数がたむろしていたが、それらをすり抜けて綾乃が幸恵の元にやって来た。そして元気良く笑顔で挨拶してくる。
「幸恵さん、お疲れ様です!」
それに対し、幸恵が疑わしげな視線を向けた。
「あんた、一体ここに何しに来たのよ?」
「お昼ご飯、二人で一緒に食べましょう!」
「は?」
「私、幸恵さんの分もお弁当を作って来たんです。良かったら食べて下さい!」
そう言って手にしていたお弁当包みの片方を、幸恵に向かってまっすぐ差し出してきたのを見て、幸恵は一種呆気に取られ、次いで怒りの感情が湧き上がってきた。
「……あんた、馬鹿?」
「え?」
キョトンとした綾乃の様子に、益々幸恵の怒りが増幅される。
「どうして諸悪の根元と、同じお弁当を仲良く食べなくちゃいけないのよっ!?」
「私が、幸恵さんと一緒に食べたいからです。幸恵さんのお好きな物を取り揃えてきましたので、多分、満足して貰えると思いますし」
「どうして私の好みがあんたに分かるのよ? 適当な事を言わないで!」
「高木さんにお願いして、色々教えて貰いました」
そこで幸恵と、二人のやり取りを興味津々で見守っていた周囲の者達の顔が、揃って微妙に引き攣った。
「……祐司に?」
「はい」
「へえぇ? それはそれは。随分と従順な飼い犬に成り下がったのね、あいつ」
「は? 何がですか?」
一人訳が分からなくてキョトンとしている綾乃だったが、企画開発部の室内では、そこかしこで囁き声が満ちた。
「おい……。幾ら言い寄ってる相手だからって、元カノの情報を流すのって有りなのか?」
「と言うか、そもそも普通、男に聞かないよな? 元カノの傾向なんて」
「容赦なさそうだな……。人畜無害っぽい顔なのに、流石は荒川の従妹なだけはある」
それを耳にした幸恵は、これ以上の問答は無用とばかりに、勢い良く踵を返した。
「馴れ馴れしく名前を呼ばないで! 冗談じゃないわ、誰があんたなんかと食べるものですか!」
「あ、幸恵さん!?」
反射的に引き止めようとした綾乃の手を振り払い、幸恵が足音も荒くその場を後にすると、呆然と彼女を見送った綾乃の肩に軽くポンと手が乗せられた。
「行っちゃったねぇ……」
「やっぱり行動が素早いですよね」
苦笑いで話し掛けてきた弘樹に、綾乃も苦笑いで返すと、弘樹が続けて興味深そうに尋ねてきた。
「それで? どうして荒川にお弁当を作って来たわけ?」
「それが……。昨日笹木さんに、今回の事で幸恵さんが、周囲から変な目で見られているけど、お昼位リラックスして食べたいだろうから、暫くは社員食堂に出入りしないだろうって言われまして」
「……まあ、それは否定しないね」
軽く相槌を打った弘樹に力を得たように、綾乃が話を続ける。
「それで……、外食だと費用が嵩むし、近場で済ませようとしてもワンパターンになりがちだし、お弁当を作って親近感をアップさせてみてはどうかと。一人で居るより二人で居た方が、より気まずい思いをしなくて済むだろうから、この際手作りのお弁当を渡して勧めてみたらどうかと笹木さんに言われました」
(確かに二人で仲良く食べれば周囲を気にしなくて済むかもしれないけど、集める視線は二倍以上って言ってあげた方が良いかな? 全く公子さんも、一体何を考えて、綾乃ちゃんにこんなアドバイスをしたのやら)
真顔で告げられた内容に、弘樹が苦労して溜め息を吐きたいのを堪えていると、綾乃が決意を新たにしながら言い出す。
「色々バレてしまったので、開き直って直接アタックしてみましたが、幸恵さんがそうそう簡単に打ち解けてくれる筈はありませんでしたね。また明日、出直します」
それを聞いた弘樹は、小さく笑ってからある事を指摘した。
「頑張るね。それはそうと、そのお弁当はどうするの?」
「流石に二つは食べられませんから……。勿体ないけど、持って帰って捨てようかと思います」
かなり気が重そうに告げた綾乃だったが、ここで弘樹が真面目くさって言い出した。
「それは駄目だな、せっかくの綾乃ちゃんの力作を。よし、部下の尻拭いは上司の役目。綾乃ちゃん、良かったらそれを俺に食べさせて貰えないかい?」
「え? 遠藤さんにですか?」
予想外の事を言われて目を丸くした綾乃に、弘樹は真顔で続ける。
「だって無駄にするのは勿体ないし。俺は別に食事は準備してないし。綾乃ちゃんが良ければって話だけど」
理路整然と告げられた綾乃は、救われたように安堵した笑顔を向けた。
「こちらこそ、申し訳ありません。それなら一つ食べて頂けますか? 私もその方が嬉しいです」
「うん、喜んで。じゃあそこの応接スペースに座って待ってて? ご馳走になるから、お茶位淹れるよ。一緒に食べよう」
「分かりました。お願いします」
そして周囲が驚きの視線を向ける中、弘樹の誘導で綾乃は弁当を二つ手にしたままソファーに収まり、弘樹はお茶を淹れるべく給湯室へと向かった。そしてこれから広がるであろう噂を推測して、茶を淹れながら一人でほくそ笑む。
(全く……、公子さん、これが狙いだったか? これが祐司の耳に入ったら、どういう反応をするんだろうな?)
そんな事を考えて面白がる一方、弘樹は幸恵に対するフォローをどうするべきかと、真面目に考え始めた。
綾乃が幸恵の元に、弁当持参で押しかけ始めてから数日後。祐司は少々躊躇ってから、彼女に電話をかけた。
「こんばんは。高木だけど」
「はい、お疲れ様です。今日はどうかしましたか?」
「その……、ちょっと聞き捨てならない噂を耳にしたものだから、直接確認しようと思って、電話をしてみたんだ」
「噂? 何についての噂ですか?」
「君が連日のように、弘樹の所に二人分の手作り弁当を持参して、仲良く一緒に食べているって言う噂なんだが……」
困惑気味に尋ねてみたが、対する綾乃はそれまでの訝し気な口調から一変して、明るく断言してきた。
「あ、その話なら本当ですよ? 最近は殆ど毎日、遠藤さんと一緒に食べてますから」
あまりにも事も無げに言われた為、祐司は自身の顔が引き攣るのを自覚しながらも、なんとか穏やかな口調を心がけて質問を続けた。
「できれば、その理由を聞かせて貰いたいんだが……」
「それは笹木さんから、助言を貰ったからです」
「あの人が、今度は何を言ったんだ?」
「それはですね……」
どう考えても何か裏があるのを感じさせる名前が出てきた為、祐司が慎重に尋ねると、綾乃が真面目に説明を始めた。その間、色々突っ込みどころがあったにも関わらず、祐司は無言で聞き役に徹する。
「……そう言う訳で、無駄になりかけたお弁当を、幸恵さんの代わりに遠藤さんが食べてくれているんです」
「…………」
一応最後まで黙って聞いた祐司は、無言のまま溜め息を吐いた。そして電話越しに何も伝わってこない事を不審に思ったのか、綾乃が戸惑った声を出す。
「高木さん? あれ? 電波状態が悪いのかな?」
「いや、大丈夫。聞こえているから」
「そうですか。でも、急に黙ってどうかしましたか?」
不思議そうに問われて、祐司は率直な意見を口にした。
「弘樹と笹木さんの間には血の繋がりは無い筈なのに、同類の気配がするなと思って。……絶対に面白がっているし」
「別に、面白がってはいないと思いますが。二人とも親身になって、相談に乗ってくれますよ?」
「まあ、確かにある意味では、そうだろうがな」
一応同意して、口の中で何やらブツブツと言い出した祐司に、綾乃が思い出たように尋ねた。
「そう言えば高木さんに、ちょっとお聞きしたい事があったんです」
「何かな?」
「幸恵さんとお付き合いしていたのに、どうして別れたんですか?」
「……え?」
完璧に予想外の事を言われて面食らった彼に、綾乃の問いかけが続く。
「それに、どうして私と付き合いたい云々の話をされたのかと不思議でして。誰がどう見ても、幸恵さんの方が美人ですし、世慣れている感じがしますし、きっと仕事だってできますよ?」
心底不思議がっている口調のそれを聞いて、祐司は(これは嫌みじゃなくて、本心から聞いてるんだよな?)と自問自答しつつ、慎重に言葉を選びながら話し出した。
「どうしてと言われても、一言で説明しきれないんだが……。普通に友人としての付き合いだった頃は、上手くいっていたと思う」
「そうなんですか?」
「ああ。変に媚びない感じで、自分自身を確立している所とか、的確に意見を出す姿勢も割と気に入ってたし」
「確かに幸恵さんって、そんな感じですよね」
「でも、実際に付き合ってみると、言動が妙に鼻につく所があって。あ、勿論俺も、意外に融通が利かないって言われたが」
一方的に相手の非だけを言えないと、自分の悪かった点も併せて祐司が告げてみると、綾乃が半分納得して半分理解できないような口調で応じた。
「色々、難しいんですね。友達として仲が良かったなら、恋人としてもそれなりに上手くいきそうなのに」
「そうは言っても、何でもかんでも相手に依存するとか、主体性の無い人間は御免なんだ。面倒くさいと思われそうだけど」
自分で言ってみても相当面倒くさいかもしれないと思いながら、祐司が正直に言ってみると、綾乃が小さく笑う気配が伝わってきた。
「でも、そういう高木さんの正直な所は、美点だと思います」
「ありがとう。そういう方向から見ると、確かに君は幸恵よりは華は無いタイプだけど、一見流されやすそうでも、自分の意見はしっかり持っているし、地道に頑張る姿勢は好ましいと思うし、だけど放っておくと、何だか色々巻き込まれそうで心配と言うか、保護欲をかき立てられると言うか。こんな風に感じたのは、初めてで、上手く表現できないんだが……」
色々と頭の中で考えを纏めながら、思った事を口にしてみると、綾乃は明るく言葉を返してきた。
「そうですか。高木さんのお考えは、良く分かりました。やっぱり聞いてみて良かったです」
「そうか?」
そこで祐司が安堵したのも束の間、綾乃が急に話題を変えてきた。
「因みに高木さんは、今でも幸恵さんと円満な友達付き合いをしたいと思っていますか?」
「え? あ、ああ……。それは、まあ……。金輪際、顔も見たくないって、毛嫌いしたわけじゃないし……。俺としては友達付き合いするのに抵抗は無いんだが、別れて以来、彼女とは疎遠になっているし……」
困惑しながらも正直に告げると、決意も新たな彼女の声が電話越しに伝わってくる。
「そうですか。それならやっぱり、何が何でも幸恵さんとの友好関係は、樹立しなくちゃいけませんね。良く分かりました。これからも頑張ります!」
「はぁ?」
「それでは、明日の準備がありますので、失礼します。おやすみなさい」
「あ、ちょっと待って」
慌てて呼びかけたものの、あっさり通話が終わってしまった為、祐司は呆然と手の中の携帯電話を見下ろした。一瞬、かけなおそうかと思ったものの、何を同言えば良いかは、自分でも良く分からなかった為、ここで終わりにする。
「彼女……、俺の言った意味、ちゃんと理解してるんだろうな?」
一抹の不安を覚えたものの、弘樹との事情が明確になった為、祐司はもう一人の問題人物に対してのアプローチを、真剣に考え始めた。
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