第28話 祐司の懇願
その翌日。出勤してくる社員で賑わっている、星光文具本社ビル一階正面玄関ホールに、一際鋭い声が響き渡った。
「弘樹!!」
「おう、祐司。お前、朝からどうしてそんな怖い顔をしてるんだ?」
駆け寄ってくる友人に向かって、弘樹はのほほんと声をかけたが、相手は険悪な雰囲気を隠そうともせず、弘樹のネクタイを掴んで引き寄せながら、いつもより若干低い声で恫喝した。
「お前、いい加減にしろよ? このところほぼ連日、彼女と一緒に手作り弁当を食べやがって!!」
予想はしていたものの、その八つ当たりに弘樹は笑い出したくなった。しかしそんな事をしてしまったら、相手を益々怒らせる事は分かり切っていた為、精一杯真面目な顔を取り繕いながら言い返した。
「別に、お前にどうこう言われる筋合いは無いぞ? 空振りしている綾乃ちゃんの心遣いを、俺がフォローしているだけだからな」
「それは昨晩、彼女から電話で聞いた!」
そこで祐司が苛立たしげに叫んだ台詞が予想外だった為、弘樹は思わず口走った。
「ほぅ? 何だ、それなりに彼女にちょっかいは出してるんだ。一歩も進展が無い割に、頑張ってるじゃないか」
「五月蝿い! そうじゃなくて、幸恵分の弁当が余ったら俺に連絡をくれるとか、人目に付かない所で弁当を食べる位の配慮があってしかるべきだろうと言ってるんだ!!」
「だってお前、外回りかもしれないだろ? それに一緒に弁当を食べる位で綾乃ちゃんと噂になれば、密かに綾乃ちゃんラブのうちの親父にも面目が立つし」
「弘樹……」
ギリッと歯軋りでもしそうに微妙に顔を歪めた祐司を、弘樹は苦笑気味に宥める。
「安心しろ。親父はこの噂程度で、俺がちゃんと綾乃ちゃんに言い寄っているらしいと、すっかり安心しているみたいだし。流石に綾乃ちゃんの職場に押し掛けて『うちの息子の嫁になってくれ』なんて言う程の、非常識なアホじゃないから、今すぐどうこうって事もないだろう」
淡々とそんな事を言われた祐司は、溜め息を吐いて項垂れた。
「……何か今一瞬、お前みたいな息子を持った社長に、もの凄く同情した」
「俺に文句を言う前に、そもそもの原因に文句を言えよ。ほら、ちょうど来たぞ?」
「え?」
祐司が振り返って弘樹が指差した方向を見やると、スーツ姿の幸恵が出社してきた所だった。そして男二人としっかり視線が合ってしまった幸恵は、微妙に視線を逸らしつつ近付き、一応直属の上司である弘樹に挨拶をする。
「……おはようございます」
「やあ、おはよう荒川」
「それでは失礼します」
不自然な程、爽やかな笑顔で声をかけた弘樹の前を通り過ぎて行った幸恵の背中に、彼が不思議そうに声をかけた。
「おい、エレベーターに乗らないのか?」
弘樹達が立っていた場所の、すぐ近くに有ったエレベーターの扉と彼の声を無視し、幸恵は階段を使う事にしたらしく、無言のまま奥へと進んだ。それを見やって弘樹が苦笑いする。
「……やれやれ、随分嫌われたもんだなぁ」
「俺が? お前が?」
皮肉っぽく顔を向けられた祐司は、渋面になって尋ね返したが、今度は弘樹が顔を顰める。
「両方、と言うか、会社全体? 今回の事で、下手したら辞めるかもしれないなぁ、あいつ」
「何だ、それは?」
「ああ、うん。単なる俺の所感だから、お前は気にするな」
そう言って話を終わらせた弘樹を見て祐司は眉を寄せ、無言のまま小走りで幸恵の後を追いかけた。そして通路の奥にある階段を急ぎ足で上って行くと、二階から三階にさしかかる辺りで幸恵の姿が見える。
「おい、荒川。ちょっと待て」
反射的に祐司が呼び掛けたが、それは失敗だったらしく、それを合図に幸恵は勢い良く階段を駆け上がり始めた。
「こら! まさか本気で、十階まで階段で行く気じゃ無いだろうな!?」
慌てて自身も駆け上がりながら、祐司が上方に向かって叫んだが、負けず劣らずの怒声が降ってくる。
「ほっといてよ! あんたに関係ないでしょ!?」
「ああ、確かに関係ないかもしれんがな、目の前で馬鹿な事されるとムカつくんだよ!」
「じゃあ見えない所に行って、勝手に笑ってれば良いじゃない!」
「俺はそんなに性格が悪いと思われてるのかよ!?」
「性格は悪いし頭も悪い上に、すっごく無神経よね!」
「何だと!? お前、人の事を言えた義理か!!」
そんな風に二人で怒鳴り合いながら階段を駆け上がった為、商品開発部がある十階に辿り着いた時には、さすがに二人とも廊下に膝を付いて、へたり込んでしまった。
「……っの、無駄口、叩き、ながら、駆け上がる、からっ……、息、切れたじゃ、ねぇかっ!」
「こっちの……、勝手、でしょ! 嫌ならっ、黙って、エレベーター、使い、なさい、よ」
階段がある場所はフロアの端に当たり、出勤してくる社員に見咎められる心配は殆ど無い為、それから少しの間、二人はへたり込んだまま乱れた息を整える事に専念した。そして何とか落ち着いた祐司が立ち上がりながら、唐突に幸恵に声をかける。
「昨日、彼女と少し電話したんだが」
「彼女って、誰の事よ」
薄々分かっていながら、幸恵が素知らぬふりで問い返しながら立ち上がると、祐司が真顔で告げた。
「君島綾乃。彼女、お前に振られまくってても、全然こたえてないし、怒ってもいないぞ」
「だから何? 彼氏に良い顔したいだけなんじゃないの?」
「彼氏、ね……。俺はお前みたいに、彼女に熱烈に迫られた事なんて皆無なんだが……」
ムキになって言い返した幸恵だったが、それを聞いた祐司は一瞬遠い目をした。しかしすぐに真顔になって、幸恵に言い聞かせる。
「お前さ、やりすぎたし言い過ぎたなって、もう自分では分かってるよな? でも意地っ張りだから引っ込みが付かなくなって、自分ではどうしたら良いから分からなくなって、困ってるんだろ?」
そう言われた幸恵の顔が、僅かに引き攣った。
「何を言ってるのよ?」
「プライドの高いお前が、頭を下げて謝りたく無いって事位、分かっているつもりだ。お前にも、言い分はあると思うしな。だから納得できない事には頭を下げなくて良いし、謝罪の言葉も口にしなくて良いから、あの子の弁当を、一緒に食ってやってくれないか。頼む」
祐司は終始冷静にそう言って、最後に軽く頭を下げたが、言われた幸恵は瞬時に頭に血を上らせた。
「ふざけないで!! 何が『だから』なのよ!?」
「彼女だったら一々口にしなくとも、お前の気持ちは分かってくれると思うから。言いたい事はそれだけだ、邪魔したな」
そして疲れたように小さく息を吐いてから、祐司は営業部のある八階目指して階段を下りて行った。それを無言で見送った幸恵が、涙目になりながら小さく呟く。
「……何よ、勝手に自分の言いたい事だけ言って」
しかしそんな恨み言めいた囁きを、幸恵自身の他は、誰も耳にしてはいなかった。
その日の昼時も相も変わらず、綾乃は二人分の弁当持参で商品開発部を訪れていた。
「こんにちは、お邪魔します。お疲れさまです、幸恵さん!」
「…………」
もうこの頃には商品開発部内では綾乃の訪問は周知の事実となっており、周囲からは場を弁えない綾乃に対する呆れ果てた感の視線や、未だに頑なな幸恵に対する非難の眼差しが降り注いでいた。しかしそんな視線を物ともせず、綾乃がすっかり恒例となった台詞を繰り返す。
「あのっ! 今日、お昼をご一緒しませんか? 今日はおかずに幸恵さんの好きな」
「これまで何度も五月蝿いしウザいって言ってるでしょ! 傍迷惑なストーカー行為はもううんざりよ、いい加減にして!!」
「きゃっ……」
「……っ!」
にこにこと機嫌良く巾着袋からランチボックスを取り出し、幸恵の方に綾乃が軽く差し出したところで、幸恵が腹立たしげに叱りつけながら反射的にその手を叩いた。その結果、まともに片手に衝撃を受けた綾乃が手にしていたそれを取り落とし、更に悪い事に、蓋を開けて中身を幸恵に見せようとロック部分に軽く手をかけていた為、弾みで蓋が開いて床に中身が半分程零れ落ちる。
取り落とした綾乃は勿論、その事態を引き起こしてしまった幸恵も咄嗟に次の動作に移れずに固まり、周囲の者達もどうなる事かと狼狽して互いの顔を見合わせる中、些か脳天気な声がその場に響き渡った。
「ああ、すぐに言わなくて悪かったね、綾乃ちゃん。実は今日、昼は荒川と食事をしながら、ちょっと込み入った話をする事になってたんだ。そういう訳で今日は遠慮して貰えるかな?」
徐に椅子から立ち上がり、二人に向かって歩きながら弘樹が告げると、綾乃が彼に向かって恐縮気味に頭を下げる。
「あ、そうだったんですか? すみません、分かりました。それならどうぞ、お二人で行って来て下さい」
「ごめんね? じゃあ悪いけど、ここの片付けも任せて良い?」
「はい。こっちが勝手に持って来たんですから、責任を持って私が片付けます」
「よろしく」
気を悪くした風情など感じさせず、綾乃が穏やかに笑って請け負うと、弘樹は釣られたように笑って、軽く綾乃の肩を叩いた。そして周囲の者に向かって呼びかける。
「すまないが、誰か彼女に掃除用具の場所を教えてやってくれないか?」
「はい、分かりました」
「えっと、君島さんだよね。これとか使って良いから」
「このビニール袋、使って良いよ?」
「ありがとうございます」
弘樹の声で、周囲の何人かが呪縛が解けたように綾乃に声をかけつつ近寄り、早速後片付けが始まった。それを尻目に弘樹は幸恵の手首を掴み、強引に引っ張りながら歩き出す。
「ほら、荒川。ボケッとしてないで行くぞ」
「ちょっと待って下さい! 私には話なんてありません!」
「こっちには有るんだよ。付いてこないなら俵担ぎして行くが、どっちが良い?」
廊下に出た所で弘樹に両目を細めて睨み下ろされた幸恵は、どう見ても本気で言っているとしか思えないその表情に、抵抗を諦めた。
「……歩いて行きますので、手は放してください」
「最初からそれ位、素直にしてろ」
如何にも面白くなさそうに呟かれて幸恵は気分を害したが、言いたい文句を何とか飲み込んで弘樹の後に続いて歩き出した。
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