第26話 迷走する噂
衝撃の懇親会から、一夜開けた翌日。
午前中の業務を終えた公子が、香奈と綾乃を従えて社員食堂に出向くと、ガラス戸を抜けて中に入った瞬間、ざわめいていた食堂が静まり返った。
「はぁ……。視線がうざいですねぇ」
「別に悪い事をした訳では無いし、行くわよ」
「は~い」
「は、はいっ!」
淡々と指示をして歩き出した公子に、小さく肩を竦めた香奈と、気後れ気味の綾乃が続く。その動きと共に食堂内が再びざわめき始めたが、代わりに居心地の悪い視線を三人が浴びる事になった。しかし公子と香奈はそれに怯むどころか綺麗に無視し、注文の品を受け取って空いているテーブルに堂々と陣取る。
「君島さん、一々気にしないの。人の噂も七十五日って言うわよ?」
「はぁ……」
「だけど笹木さんの告白には、本当に皆びっくりでしたよ。もう朝から……、じゃなくて昨日の夜から、笹木さんを陰でコソコソ愛人呼ばわりしていた人達、顔色が真っ青になってましたからね」
まだ少々狼狽えながら頷いた綾乃だったが、香奈は箸を取り上げつつ訳知り顔で頷いた。しかしそれにも別段感銘を受けなかったらしい公子が、焼きうどんを冷静に食べ始める。
「それこそ今更なんだけど。誰が何を言ってたかなんて、とっくに分かっているのに。それで腹を立てるなら、とっくにその人達は退職の憂き目にあっているわよ」
「ですよね? 朝から変にゴマをするわ、お愛想笑いはするわ、鬱陶しくありません?」
「勤務評定を下げるだけだわ」
それを聞いた香奈は、左手で軽くテーブルを叩きながら笑い出した。
「やっぱり笹木さん、最高! このタイミングで会長との事実婚と正式入籍を公表しちゃったから、君島さんと荒川さんの噂も、どっちかと言えば二の次になっちゃいましたし」
「あのっ! まさか私達のせいで、今まで秘密にしていたその事を、公表する事にしたんですか!?」
流石に聞き流せない内容に、慌てて綾乃が会話に割り込んだが、公子は苦笑いしながら事情を説明した。
「少しは関係が有るけど……、元々、そろそろ公表するべきかと、考えてはいたのよ」
「あら、どういう心境の変化ですか?」
思わず興味津々で身を乗り出した香奈にチラッと目を向けてから、公子は皿を見下ろしながら独り言のように続けた。
「良子に……、娘にね、英幸さんに認知はして貰っているけど、戸籍上は親子じゃないし、見た目もそうじゃないから、人前では英幸さんの事は『おじいちゃん』と呼びなさいと言っていたの」
「えっと……、でもそれは……」
「まあ、変な目で見られない為には、それが無難でしょうが」
余所様の家庭の事であり、どこまで口を挟んで良いのか咄嗟に判断が付かず、綾乃と香奈が顔を見合わせて黙り込むと、公子は小さく溜め息を吐いてから話を続けた。
「それに関して、良子がこれまで不満を口にした事は無いんだけど、この前英幸さんが風邪をひいて体調を崩して寝込んでいる時に、枕元で言ってるのを聞いちゃったのよ。『ずっとお友達に嘘を言いたくないから、長生きして結婚式に出てね? 結婚式なら、お父さんをお父さんって言ってもお母さんは怒らないと思うから』って。それを聞いて、ちょっと反省してね。自分が意地を張っているせいで、娘に余計な気を遣わせていたなって」
そこで僅かに重くなった空気を払拭するべく、香奈が素朴な疑問を口にした。
「あの……、そもそもどうして事実婚だったんですか? 聞いた話では、会長の最初の奥様は、結構早く亡くなっていて、会長は二十年位前に独り身になってますよね? 娘さんの年齢からすると、そういう関係になったのは十数年前でしょうから、当時入籍しても問題は無かったんじゃないですか?」
その問いに、公子は顔を顰めた。
「単に、私のプライドの問題よ。ここに入社した時、一生勤め上げると自分自身に誓ったものでね。英幸さんと直接出会った時は三十四歳になっていて、結婚なんかにはとうに見切りを付けて、仕事が面白くなってた頃だし。それなのに、当時社長だった英幸さんと結婚なんかしてみなさい。まともに働けなくなるでしょうが」
そう断言された香奈と綾乃は、そうなった場合を頭の中で考えてみた。
「それはそうでしょうね。第一、同僚に会長夫人が居たりしたら、周りがやりにくいです」
「良く分かりました」
「だからそれを理由にプロポーズを断った上、一緒に暮らすなら家事分担をきちんとこなせる人じゃない駄目ですと言ってやったら、あの人、会長業務の傍ら料理学校に通い出して、三年かけて一通りの課程を終えちゃったのよ」
半ば呆れ果てた口調で告げてから、公子が食べるのを再開すると、香奈が如何にも楽しそうに笑った。
「うっわ、会長凄い! 執念ですね。そして笹木さん、愛されてますね。そうなると家では、会長が主夫をされているんですか?」
「そうよ。会長業務は、結構時間に余裕があるみたいだから」
あっさり言われたその台詞は、香奈は笑いのツボに入ったらしく、彼女は右手で口元を押さえ、左手でテーブルをバンバン叩いて周囲の視線を更に集めた。そんな香奈の代わりに、綾乃が質問を続ける。
「それで、職場内には内緒で結婚したんですか?」
「ええ。ただし主だった上司達には報告したし、幹部クラスは英幸さんから話を通したわ。結婚は諦めていたけど子供は欲しかったから、ギリギリ四十手前で良子を産んだの。因みに英幸さんが六十七の時よ」
「……会長、頑張りましたねぇ」
香奈が思わず遠い目をしながら突っ込みを入れた内容を、公子はあっさりとスルーして小さく肩を竦めた。
「対外的には未婚の母になったけど、別に恥じる所は無いし、後悔してもいないわ。だけど、娘の心情までは思い至らなくてね。母親失格だなと思わされたわけ」
「そんな事は無いと思います」
「昨日チラッと見ただけですが、仲の良いご家族だと思いましたよ?」
真顔の後輩達からの真摯な言葉に、公子は嬉しそうに僅かに顔を緩めた。
「ありがとう。そんなこんなで、いつまでも意地張ってないで、多少煩わしい思いをするけど、この際に公表しようと考えたのよ。『自分がされて嫌な事を人にしてはいけませんって言われなかった?』って賢しげに口にしたくせに、自分に関する事だけ保身の為に口を噤んでいるわけにいかないでしょう?」
そう同意を求められた香奈は、何気なく食堂内に目を走らせてから、しみじみとした口調で言い出した。
「そうですよね。もう一方の当事者の荒川さんも、相当好機の目で見られている事確実ですし。今日は社員食堂に来ていないみたいですけど、外に食べに行ってるのかしら?」
「お弁当とか買ってきても、自分の机で落ち着いて食べる雰囲気では無いでしょうしね」
「暫くは、ちょっとキツいかもしれないですよね? 企画開発部って殆ど男性で構成されていますし。その中で徐々に頭角現していたのに、絶対『叔母のコネで入社して、社長に目をかけて貰ってる』とか、冷やかされたり妬まれてますよ?」
「でしょうね。でもあそこの部長はしっかりしている人だから、彼女の事は正当に評価してくれている筈よ」
「それはそうでしょうけど……。職場全員が正当な評価をしてくれるとは、限らないじゃないですか」
「そんなちょっとした軋轢で潰れる位なら、所詮それだけの人間って事よ」
「これまで散々噂の的になっていた笹木さんが言うと、重みがありますよね」
訳知り顔で先輩二人が話す内容を、綾乃は半ば呆然とした表情で聞いていたが、その様子を眺めた公子が唐突に話を振ってきた。
「それはそうと、君島さんはどうするの?」
「う、うぇっ!? はいっ! すみません、何がでしょうか?」
ある事について考え込んでいた綾乃が、急に話し掛けられて慌てて尋ね返すと、公子は些か意地の悪い笑みをその顔に浮かべながら、重ねて問いかけた。
「だから、荒川さんのご実家とあなたの家の事は取り敢えず解決したし、高木さんとの事をどうするのかって事よ」
「あ、そうそう! 昨日の懇親会での衝撃度の位置付けは、『笹木さんが実は会長夫人』告白に続いて、『高木さんの告白&お預け』事件なんだから! 社内中の噂の的になっているし」
「え、えぇっ!?」
途端に目をキラキラさせて自分に迫ってきた香奈に、綾乃が盛大に声を裏返させて狼狽すると、横から公子が冷静に話を続ける。
「てっきり高木さんに家まで送って貰ったと思ったのに、今日聞いたらお兄さんに送って貰ったんですって? 高木さん、意外に甲斐性無しなのね」
「笹木さん、それは仕方ありませんよ。まだ付き合ってもいないのに、お兄さんの目の前からかっさらって行く真似なんかしたら、その場で敵認定確実ですよ?」
「それはそうかもしれないけど、それをどうにかするのがデキる男ってものじゃない?」
「笹木さんって、男女関係についてもシビアですね」
「あ、あの……、今すぐ返事をしないといけないでしょうか?」
香奈と公子の会話に綾乃が恐る恐ると言った感じで割り込むと、二人は怪訝な顔で綾乃に視線を向けた。
「それはまあ……、早いに越した事は無いんじゃない?」
「断りにくくても、ビシッと言わなきゃ駄目よ? 曖昧に言っていると、男って自分に都合の良い方に解釈して、つけあがるから」
「こ、断るとかそうじゃなくて! まだ他に集中したい事があるので、それが済んだら改めてきちんと考えようかと……」
「え? この期に及んで何を考えるの?」
「荒川さんの事でしょう?」
怪訝な表情を崩さなかった香奈とは対照的に、公子は分かっていると言う風に頷いた。すると綾乃が如何にも面目なさそうに、俯き加減で訴える。
「はい……。結果的に、私のせいで、職場内で気まずい思いをさせてしまっているみたいで……。申し訳無かったかと」
「第三者の立場から言わせて貰えば、あの人は自業自得だと思うんだけど。しかも間接的に嫌がらせをされていたのに、気遣う義理も必要も無いんじゃないかしら?」
僅かに腹立たしげに、辛口のコメントを口にした香奈だったが、公子は年長者の余裕で彼女を宥めた。
「まあまあ、宮前さん。気持ちは分かるけど、それが君島さんの良い所だと思うし。それで? 荒川さんの職場での風当たりとかを、できれば弱めたいわけね?」
「そうなんですが……。これと言った対策が思い浮かばなくて……」
益々面目なさそうに項垂れた綾乃を見て、公子は少しの間何やら考え込んでから、にこやかに提案した。
「それなら一つ、知恵を貸してあげましょうか? 今回の騒動は、私にも多少は原因が有るしね」
「本当ですか? 是非お願いします!」
そして嬉々として公子の案に乗ろうとしている綾乃を眺めながら、香奈は(良いのかな? 何か笹木さん、絶対面白がっている気がするんだけど)と一抹の不安を覚えた。
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