第19話 職場での波風 

 その後も、綾乃の幸恵へのアプローチは、報われないまま地道に続いており、その日、社員食堂で偶々一人で食べていた幸恵に遭遇した綾乃は、嬉々としてトレーを抱えてそのテーブルに歩み寄った。


「荒川さん。隣に座らせて貰っても宜しいですか?」

 笑顔を絶やさず小声でお伺いを立ててきた綾乃を、チラリと無表情で見上げた幸恵は、素っ気なく了承の返事をした。

「どうぞ」

「失礼します」

 しかしスプーンですくっていたエビピラフを口に運んだ幸恵は、それを飲み込んでから、綾乃が隣の椅子に座るのと入れ替わりに席を立った。そのままトレーを持ち上げて返却口へ向かおうとする幸恵に、綾乃が狼狽しながら声をかける。


「え? あの、荒川さん? まだ食べ終わっていないんじゃ……」

 その声を綺麗に無視して幸恵は進み、食器の返却口に些か乱暴にトレーを置いた。そこで出くわした人物に、幸恵は少々意外そうに声をかけられる。

「あら、食堂に来てたのね、幸恵。今日は一人だから、声をかけてくれたら良かったのに」

 話し掛けてきた相手が、比較的仲の良い同期である秋月清実であった為、幸恵は何とか怒りを静め、小さく笑ってみせた。


「気が付かなかったわ。どの辺りに座ってたの?」

「確かに入口の方からは、柱の陰になって見えにくかったかもね。……ねえ、そんなに残して体調が悪いの? 大丈夫?」

 何気なく幸恵が返却したトレーに目を向けた清実が、僅かに心配そうに尋ねてきた為、幸恵は安心させるように言ってきかせた。


「大丈夫よ。急に食欲が失せただけだから」

 なるべく穏便に話したつもりだったが、フロアの方に視線を向けずに廊下に向かって歩き出した幸恵を見て何かを感じたのか、清実が並んで歩きながら不思議そうに尋ねてきた。

「どうしたのよ。普段、滅多に感情を面に出さないあんたが。不機嫌そのものの顔になってるわよ?」

「どうもこうも。最近、君島綾乃って子が纏わりついて来て、胸が悪いったら無いわ!」

 腹立ち紛れに吐き捨てた幸恵の台詞に、清実が思わず眉根を寄せた。


「君島? それって、うちの新人の事よね? どうして幸恵に纏わり付いているの?」

 総務部勤務である清実が怪訝な顔をした為、幸恵は腹立たしげに続けた。


「ああ、そっちの新人だったの。まともに話をする気も無くて、何か所属を聞いた気がしたけど、すっかり忘れていたわ。実力も無いくせに社内を大手を振って歩いている人間なんて、見ているだけで不愉快よ」

「どうして他の部署の幸恵が、そんなに目の敵にするのよ。接点が無いでしょう?」

「接点は無いけど、名前だけは知ってたのよ。あの子、絶対にコネ入社よ」

 苛立たしげに断言した幸恵に、横を歩く清実は益々当惑した表情を見せた。


「それは……、確かにあの子が入って以来、何となく私も疑ってたけど。どういう事?」

「私、あの子の親がどんな人間か知ってるのよ」

 問われた幸恵は、そこで自分との関係性を綺麗に伏せたまま、綾乃の身元を悪意交じりに清実に吹き込んだのだった。


 「え? 総務部と営業部と商品開発部合同の懇親会ですか?」

 終業後にロッカールームで自分のバッグを取り出そうとした綾乃は、至近距離で上がった甲高い声に、思わずその動きを止めた。そして少し離れた所でお喋りに興じている一団に、慌てて目を向ける。


「そう。商品開発部の遠藤係長が、旗振り役みたい。うちは女性が、他の二つは男性比率がどうしても高いでしょう? 部署が違うと意外に交流が少ないし、独身者限定で一つやってみようかって話になったみたい」

 ロッカーの扉の内側の鏡でメイクを軽く直しながら、清実が周りの後輩達に説明すると、忽ちあちこちから歓声が上がった。


「うわぁ、本当ですか? 確かに個別に知り合える機会って、殆ど無いですよね。嬉しい!」

「独身者限定って……。遠藤課長ったら、社内カップル成立を目指してるんですか?」

「これも将来の社長就任に向けての、社内で支持者を増やす為の一環とか?」

「まさか。その前に自分が結婚するべきでしょ」

「違いないわ」

 そんな事を言い合って笑いさざめく同僚達を眺めながら、綾乃は密かに弘樹からのメールの内容を思い返した。


(そうか……。この前、遠藤さんからのメールに、『近いうちに俺も同席して、自然にきちんと荒川と顔を合わせる機会を作ってあげるから』って書いてあったけど、多分これの事だわ! これに幸恵さんを引っ張り出してくれるって事だよね? 後でお礼のメールをしなくちゃ!)

 すっかり嬉しくなった綾乃がバッグを取り出して帰ろうとすると、ここで清実が上機嫌に声を上げた。


「それで、総務部は私が参加を取り纏める事になってるから。後から参加申込みを回覧させるから、宜しくね?」

「はい、分かりました」

「この場に居ない人にも、伝えておきます」

 そんな風に和気藹々と話し込んでいる一団に向かって、綾乃は思わず足を一歩踏み出しながら声をかけた。


「あの……、秋月先輩。それはいつでしょうか?」

 しかし綾乃がそう尋ねた途端、会話がピタリと止み、和やかな空気が霧散した。

「あら、まさか君島さんも参加する気なの?」

 その場に一気に気まずい空気が満ちたのは、話の中心だった清実が冷え冷えとした声を出した為だったが、綾乃にはその理由が全く分からず、周りの者達も互いの顔を見合わせながら気まずげに押し黙った。しかし声をかけた自分が黙り込む事はできないと、綾乃は勇気を振り絞って申し出る。


「え、ええ。参加させて頂きたいのですが……」

 しかし清実は、それを鼻で笑った。

「別に普通のサラリーマンとの出会いなんか求めなくたって、どうせここに入ったのは腰掛け程度のつもりで、二・三年したら地元に帰って、良い所のボンボンと結婚するつもりなんでしょう? それに会場も普通のパブレストランで、お嬢様御用達のようなお店ではないわよ?」

「え? あの……」

 明らかに小馬鹿にした口調で拒絶した清実に綾乃は困惑したが、そこで近くで些か乱暴にロッカーの扉を閉める音がしたかと思うと、鋭い声が会話に割って入った。


「秋月先輩。本人が参加したいと言ってるんですから、変な言いがかりなんか付けないで、参加させてあげれば良いじゃありませんか」

 その物言いにカチンときたらしい清実が、発言者の香奈を睨み付ける。


「変な言いがかり? それはそっちでしょう? 宮前さん。私はただ、本当の事を言っているだけよ」

「申し訳ありませんが、憶測と悪意で物を言っているようにしか聞こえないんです。仮にも先輩なら、誰にも分かるように、仰って頂けませんか?」

「何ですって?」

「香奈先輩! もう良いですから!」

「良くは無いわよ!」

 売り言葉に買い言葉で、清実と香奈の間に一触即発の空気が漂ったのに慌て、綾乃が香奈を宥めようとしたが、ここで清実が憤然としながら言い捨てた。


「じゃあ教えてあげるわ。前々から田舎臭くて鈍くさいその子が、どうして入社出来たのか不思議だったんだけど、その子の父親は衆議院議員の君島東志郎よ。そのコネでここに潜り込んだんだから!」

 清実が叫ぶようにそう口にした途端、その周囲で囁き声が生じる。

「え? 本当?」

「はぁ? 君島って……、あの?」

「あんなのにごり押しされたら、入れないと色々拙そうよね……」

 ひそひそと顔を突き合わせて囁き合う同僚達に、流石に綾乃は声を上げた。


「いえ、あのっ! それは誤解です!」

「何? 娘じゃないとでも言うつもり?」

 軽く睨み付けながら清実が問いただすと、綾乃は正直に思う所を告げた。

「いえ、確かに君島東志郎は私の父ですが、父はそんな無理やり就職を頼むような事を、する人じゃありません」

「見苦しくしらばっくれなかったのは誉めてあげるし、議員本人はそうだとしても、周りが気を利かせるとかあるんじゃないの?」

「それは……」

 言われた内容に心当たりのある綾乃は、咄嗟に続ける言葉が見つからず口を噤んだ。それを見た清実は、勝ち誇ったようにわざとらしく声を張り上げて話を続ける。


「あ~あ、良いわねぇ、お嬢様は。気楽に適当にお仕事できて。面倒な事があれば、誰かに押し付けて逃げる事ができるんでしょうし」

「それではお伺いしますが、今まで君島さんが、一度でもそんな事をしましたか?」

「は?」

 清実の暴露話が始まってから黙っていた香奈が、再び唐突に口を挟んできた為、清実は一瞬虚を衝かれて黙り込んだ。そこをすかさず香奈が畳み掛ける。


「無遅刻無欠勤なのは勿論ですが、言われなくても毎朝誰よりも早く来て、備品の準備を整えて軽く掃除して皆の出勤を待って、きちんと礼儀正しく挨拶してくれます」

「そんなの、新人なんだから当然でしょう?」

「それなら勿論秋月先輩は、新人の頃に同様の事をされていたんですよね?」

「…………」

 嫌味っぽく薄笑いを浮かべながら香奈が確認を入れると、清実が無言で相手を睨み付けた。しかしそんな視線にはびくともせずに、香奈が話を続ける。


「どんな仕事をやらせても、『やった事が無いのでできません』とかふざけた事は言わないし、ミスはしますが絶対同じミスは繰り返しません。これが『いい加減に腰掛けで仕事をしている』人間のする事でしょうか?」

 淡々と問い掛けられ、清実は堪忍袋の緒が切れたとでも言う様に香奈を怒鳴りつけた。


「一々五月蠅いわね! 何? その子の肩を持つ気!?」

「私は事実を述べているだけです」

「香奈先輩! あの、それ以上は言わないで下さい!」

 すこぶる冷静に目を細めて清実を見詰める香奈に、綾乃は慌てて取りすがった。自分のせいで佳奈まで清実の怒りを買ってしまったら申し訳ないと、その場を取りなそうとしたが、時既に遅く清実が腹立たしげに叫びながら踵を返す。


「不愉快だわ! そんなのに媚びを売りたかったら勝手にしなさい! 私を非難するのはお門違いよ!」

「あ、先輩! 待って下さい!」

「私達も帰ります!」

「……お疲れ様でした」

「お疲れ様」

 ロッカールームから足音高く清実が出て行った為、彼女を囲んでいた者達も綾乃と香奈をチラチラ見ながら彼女の後を追った。中の一人が申し訳無さそうに香奈に小さく頭を下げたのに対し、香奈も苦笑いで挨拶を返して見送ってから、呆れたようにひとりごちる。


「どっちがお門違いだって言うのよ……。一時間おきにメイク直しをしているような人間にだけは、言われる筋合いは無いわ。気にしない方が良いわよ?」

 最後は自分を振り返りながら告げてきた香奈に、綾乃は申し訳ない気持ちで一杯になりながら、小さく頭を下げた。


「……はい。ありがとうございます」

 身の置き所が無い風情の綾乃に、香奈は鷹揚に笑いながら軽く背中を叩く。

「何しょぼくれてるのよ。綾乃ちゃんが横柄に振る舞ってる所なんて、見た事無いわよ? 寧ろ、もうちょっと横柄でも良い感じなんだから」

「そうでしょうか?」

「そうよ。ほら、帰りましょう」

 そうして自らもバッグを取り出して帰り支度を済ませた香奈は、綾乃を促して一緒に退社したのだった。

 しかし当然と言えば当然の事ながら、この騒ぎはその場だけでは収まらなかった。


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