第17話 行動開始

 新入社員の綾乃は、まだそれほど残業する事もなく、その日もほぼ定時で上がってから荷物を持って自社ビル一階に降りた。しかしそのまま家路を辿る事はせず、ロビーの片隅で柱の陰に身を潜めながら、密かにその時を待つ。


「あ、来たかな?」

 手にしていた携帯電話が静かに振動だけを伝えると、綾乃が嬉しそうに弘樹からのメールの受信内容を確認する。そしてそれを元通りバッグにしまい込んでから、密かに自分自身を奮い立たせた。


「よし、頑張ろう!」

 そんな風に軽く顔を叩いて気合いを入れた綾乃の視界に、待ち人である一人の女性の姿が入り、静かに横切って行った。その顔を、綾乃がしみじみと感慨深げに眺める。

(あの人だ……。写真で見るよりお母さんに似ていて、美人だなぁ……。いけない、見とれてないで、本来の目的を果たさないと)

 些か呆け気味に、その背中を見送りかけた綾乃は、慌てて彼女の後を追った。


「あの……、商品開発部の荒川幸恵さんですよね?」

 最寄り駅に向かって歩いている幸恵の後を追いかけ、横に並んで歩きながら綾乃が声をかけると、案の定幸恵は歩みを止めないまま訝しげな視線を彼女に向けた。


「あなた、誰?」

「申し遅れました。私、今年から星光文具総務部で勤務している、君島綾乃です。宜しくお願いします」

 笑顔で綾乃がそう名乗った途端、幸恵はピタリと足を止め、拳一つ分頭が低い綾乃を見下ろした。

「…………君島?」

「はい。それで」

 無表情になった上、僅かに凄むような声音で確認を入れられた綾乃が、慎重に話を続けようとしたが、幸恵が忌々しそうに口を開いてそれを遮った。


「それで名前が、よりにもよって『あやの』ですって?」

「そうですが……、それが何か?」

「……別に」

 如何にも面白く無さそうに、幸恵はブスッと黙り込んで視線を逸らしたが、綾乃は勇気を振り絞って申し出た。


「あのっ! 荒川さん、一緒にお夕飯でもどうですか?」

「どうして見ず知らずのあなたと、私が一緒に食事をしなければいけないのかしら?」

 当然と言えば当然の皮肉を交えた反応に、綾乃が真顔で答える。

「その……、荒川さんは先輩達の中でも、能力や容姿が一際目立っていますから。これから会社勤めをしていく上で大切な事を、色々ご教授して頂きたいと思いまして……」

 すると、何故かここで幸恵は、険しさを漂わせていた表情を緩め、穏やかに話し出した。


「ふぅん、なぁるほどねぇ……。ご教授願いたいと……。それで、まず私とお近づきになりたくて、食事をご一緒に、というわけなのね?」

「はいっ!」

「それなら……、会社勤めに必要な事を、早速一つ教えてあげるわ」

「本当ですか? ご親切に、ありがとうございます!」

 にこやかな笑顔で語りかけられた綾乃は、すっかり嬉しくなって幸恵の次の言葉を待った。


(一見、お母さんより冷たい感じのする美人だけど、意外に面倒見が良くて、いい人なんだわ。仲良くできそう)

 そんな事を考えながら、期待に溢れる目で幸恵を見つめていた綾乃だったが、対する幸恵は相変わらずニコニコと笑いながら冷たく言い捨てた。


「空気読め、常春頭」

「え?」

 一瞬自分の耳を疑って固まった綾乃に、幸恵が背後を指さしながら淡々と話を続ける。


「って、あそこの看板に書いてあるのよ。続きを読んでみなさい」

「は? え、ええっと……」

 オロオロとしながら視線を彷徨わせた綾乃に対し、幸恵が幾分厳しく尋ねた。


「返事は?」

「は、はい!」

 そうして慌てて背後に向き直り、言われた看板を探し始めた綾乃だったが、一通り見渡しても該当する物が見当たらず、途方に暮れる。

「あの……、でも荒川さん。さっき仰った看板って、具体的にどこら辺にあるんでしょうか? 何だか見当たらなくて……、あれ? 荒川さん?」

 恐縮気味に尋ねながら、再び背後に向き直った綾乃だったが、幸恵はとっくにその場から足音も立てずに立ち去った後だった。そして十メートル程度離れた所から、密かに二人の様子を窺っていた弘樹と祐司は、一人取り残されて動揺している綾乃を眺め、盛大な溜め息を吐いた。


「何を話していたのかは聞こえなかったが、荒川の奴、あっさりトンズラしやがったな」

「普通に考えて、幸恵の相手は彼女には無理だろ」

「そうね。今のはどう見ても、鼻であしらわれた感じだし」

「そうそう……、うおっ!?」

「相変わらずキツい……、は?」

 いきなり自分達の会話に割り込んできた女性の声に驚いて二人が振り返ると、苦々しげな顔で公子が立っていた。そして弘樹を睨み付けながら、確認を入れてくる。


「以前から、何をコソコソとやっているのかと思えば……。君島さんに頻繁にメール送りつけていただけじゃなくて、ろくでもない事をさせているんじゃ無いでしょうね?」

 その一睨みで観念したらしく、弘樹は乾いた笑いを漏らした。


「あはは……、そう言えば綾乃ちゃん、公子さんに社内メールの事がバレて怒られたって言ってたっけ。だけど今の彼女の行動は、やんごとなき事情から、彼女が自発的に行った行動であって」

「弁解は良いのよ。この際、ちゃんと『おばあちゃん』に、この事態の説明をしてくれるわよね? 弘樹君?」

「は、ははっ……。人が悪いなぁ、公子さん。偶に俺がそう呼ぶと、もの凄く嫌な顔をするくせに、こんな時ばっかり」

 ここで盛大に顔を引き攣らせた弘樹の横で、二人のやり取りを聞いた祐司が眉を寄せ、友人を非難した。


「おい、弘樹! お前、笹木さんに、そんな事を言ってたのか? 笹木さんはまだ五十手前だろう。幾ら何でも『おばあちゃん』は失礼だろうが!」

「うん、まあ……、確かにそうなんだけどな……」

 お局社員として、他にも色々な意味で社内で有名な人物ではあったが、流石に「おばあちゃん」呼ばわりは無いだろうと思った祐司だったが、何故か弘樹は訂正したり謝罪したりする気配を見せず、曖昧に言葉を濁す。その態度に祐司が更に説教しようとすると、公子が口を挟んできた。


「営業部の高木さん、だったわね? 君島さんを回収した方が良いんじゃないかしら? 彼女、どうして良いか分からなくて、オロオロしてるわよ?」

 声をかけながら指さされた方向には、確かに途方に暮れた状態の綾乃が佇んでおり、祐司はその指摘に素直に頷く。


「分かりました、それでは失礼します。じゃあ弘樹、ここで」

「ああ、お疲れ」

 そうしてバタバタと綾乃の元に祐司が走り寄って行くと、公子が薄笑いを浮かべつつ弘樹に向かって一歩足を踏み出した。


「さてと。この顛末を、洗いざらい話してくれるわよね? どこぞの不肖の義理の息子は、私の職場に訳あり娘を突っ込んで、知らん振りを決め込んでいるし」

「は、はは……。もう敵わないな、公子さんには。実は俺も詳しい事情を知ったのは、ごく最近なんだけど……」

 引き攣った笑顔で弘樹が公子に事情を吐かせられている一方で、祐司は幸恵の姿をまだ探していた綾乃に、落ち着き払って声をかけた。


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