第16話 混迷する事態

「でも……、綾乃ちゃんが上京したり入社してから何回も会ってたけど、一度もその幸恵さんの話を聞いた事が無かったんだけど?」

 それを耳にした綾乃は「うっ」と言葉を詰まらせ、どこか恥ずかしそうに頬を染めながらボソボソと弁解した。


「それが、その……、初期研修中や正式に配属になってから毎日覚える事が多くて、ついつい仕事にかまけて忘れていて……。この前漸く思い出してから、商品開発部のフロアとか社員食堂で探してみても、それらしい方を見かけなかったので……」

 そこで唐突に、弘樹が口を挟んできた。


「だから彼女の事を知りたくて、同じ部署の俺の連絡先を知りたかったわけだ」

「はい。でもお聞きしたものの、こんなプライベートそのものの話で遠藤さんのお手を煩わせるのはどうかと躊躇いまして……。結局今まで、話しそびれていたんです」

 それを聞いた弘樹は、何でもない事の様に笑って言った。


「そんな事は気にしないで。もっと早く俺か、同じ部署の奴に聞いてくれたら良かったのに。実は今彼女、埼玉の研究所に二ヶ月程長期出張中でね。確か、再来週には本社に帰って来るけど」

「え? そうだったんですか。どうりで見かけない筈です」

 項垂れて、傍目にも落ち込んでいるのが分かる綾乃に、弘樹と眞紀子は揃って楽しげに声をかけた。


「そう落ち込まないで。ちょうど良かったんじゃないかな? 時期的に仕事も一通り覚えて、精神的に余裕が出来た所だし。ここら辺で別な事に意識を向けても、落ち着いて取り組めそうだよ?」

「そうよね? 何と言っても、お祖母さんとの大切な約束も忘れて『田舎に帰る』なんてべそをかいていた時期は過ぎたし?」

「うっ……、眞紀子さんの意地悪」

 その若干恨みがましい綾乃の台詞に、思わず弘樹と眞紀子が失笑すると、ここまで黙って話を聞いていた祐司が、静かに口を開いた。


「それじゃあ要するに、君島さんは幸恵と仲良くなりたい、と言うか、仲良くなるつもりなんだ?」

「はい。勿論です。あの、高木さんは幸恵さんと仲が良いんですか? 名前呼びしている位ですから、同期とかですか?」

 そこで男二人がチラッと顔を見合わせ、綾乃達がそれを不思議そうに眺めていると、祐司が顔つきを改めて、重々しく言い出した。


「……それなら一つ、言っておかないといけない事があるんだが」

「何でしょうか」

 怪訝な顔をした綾乃に、祐司は慎重に打ち明けた。


「実は……、俺、その荒川幸恵とは去年まで付き合っていて……」

「え? そうなんですか? じゃあ幸恵さんの事、色々教えて貰えたら助かります!」

「ああ……、うん。分かる範囲で教える」

「ありがとうございます」

 途端に綾乃は嬉々として祐司に頼み込んだが、弘樹と眞紀子は呆れた視線を向けた。


(おいっ、祐司!? お前いきなり何を、正直に言い出してるんだ!)

(はぁ? それがこの話と、何の関係があるって言うのよ?)

 そんな二人の戸惑いの視線を丸無視して、祐司が話を続けた。


「それで……、敢えてこの事を口にした理由だけど、一応先に言っておいた方が、後から揉めないと思ったからだ」

「揉めるって……、何をどう揉めるんですか?」

 キョトンとして尋ね返した綾乃に、祐司は真顔で付け加えた。


「だから……、君には俺と付き合って欲しいと思ってるんだけど、その状態で彼女と君が接触したら、彼女やその周りから有る事無い事吹き込まれたり、余計な敵愾心を持たれそうだから」

「はあ……?」

 今一つ何を言われているのか分からない風情の、微妙な表情になった綾乃だったが、傍観者の弘樹と眞紀子は、殆ど同時に脱力して額を押さえた。


(祐司……、お前いきなり告ってどうするつもりだよ。しかもはっきり言って、俺と眞紀子さんの事を、綺麗さっぱり忘れてるよな?)

(は? いきなり何言ってんの? しかも『付き合って欲しいと思ってる』って、何その煮え切らない言い方。と言うか、まさか自分が今何を言ったか、理解できていないとか?)

 呆れ果てて物も言えない二人をよそに、綾乃は言われた内容を自分なりに解釈して祐司に確認を入れた。


「えっと……、つまり、私が高木さんとお付き合いをしていたら、以前別れた幸恵さんと私の仲が、上手く行くものも行かなくなる可能性があると言う事ですね?」

「ああ、その可能性があるから、一言注意しておこうかと。多少きつい事を言われても気にしないで欲しいんだが」

 そう真顔で告げた祐司に、綾乃も真剣極まりない表情で力強く頷いた。


「分かりました。じゃあ取り敢えず高木さんとのお付き合い云々を考えるのはひとまず置いておいて、幸恵さんとの良好な関係構築に全力を注ぎます。その上でお付き合いは考えさせて下さい。わざわざ注意して頂いて、ありがとうございます。幸恵さんと仲良くなるまでは幸恵さんに不快に思われたくないので、高木さんには極力近づかない事にしますね?」

「え?」

 サラッと言われた内容が咄嗟に理解できずに祐司が固まると、綾乃はソファーから立ち上がって深々と頭を下げた。


「高木さん、今日は本当にごちそうさまでした。遠藤さん、これからも幸恵さんの事で相談に乗って欲しい事が出てきたら、宜しくお願いします」

「勿論、俺は構わないんだけど……。えっと……、綾乃ちゃん?」

 未だ固まったままの祐司の様子を横目で窺いつつ、弘樹が戸惑った声をかけたが、綾乃は動きを止めなかった。


「それではお世話になりました。失礼します」

「あ、私も帰るわ。見送りは良いわよ、お邪魔様」

 再度軽く頭を下げて綾乃が別れの挨拶を口にし、眞紀子も慌てて立ち上がって連れ立ってマンションを出て行った。その間男二人は、呆然として座ったまま彼女達を見送る。

 そして何分か経過してから、静まり返った室内に、弘樹の爆笑が轟いた。


「…………」

「っ! あ、あははははっ!! お前、面と向かってお断りされたの初めてだろ! その間抜け面、可笑しすぎるっ! 木更津の一匹狼の名前が泣くぞ!?」

「人聞き悪い事を抜かすな! 断られたんじゃなくて、保留にされただけだろ! 第一、俺は木更津出身じゃねぇっ! 適当な渾名を付けるな!」

 腹を抱えて笑い転げている弘樹を、祐司が苛立たしげに睨み付けて怒鳴りつけたが、弘樹は笑い過ぎて出て来た涙を軽く拭いつつ、しみじみとした口調で忠告した。


「いや、それにしたって。今のあれ、お前絶対無意識に、付き合いたい云々を口にしただろ。彼女にしたい子が元カノに接近するつもりなのが分かってテンパったのは分かるがな、もうちょっと時と場所と言葉を選べよな?」

 その指摘に、ぐうの音も出ず項垂れる祐司。


「あまり良い別れ方が出来なくて、社内で顔を合わせれば未だに睨まれてるからな。流石に拙いと思ったら、うっかり口が滑った」

「それにしたって……、自覚した途端に『お座り、待て!』かよ!」

 そこで再び腹を抱えて「うわはははは」と爆笑し始めた弘樹に、祐司は冷たい視線を向けた。


「笑い事じゃないだろ。お前も幸恵に毛嫌いされてるし」

「そんな事、今に始まった事じゃないだろ?」

「もし幸恵が彼女に辛く当たって泣かせたりしたら、また榊さんが怒るぞ?」

「……そう来たか。親父さんも厄介だしな」

 ここで否応なく自分も巻き込まれるのが必至な事を認識した弘樹は、祐司と顔を見合わせながら深い溜め息を吐いた。


 一方で、マンションを出てから無言でスタスタと来た道を逆行していた綾乃は、思い出した様に傍らの眞紀子を見上げた。

「あの……、眞紀子さん?」

「何?」

「ひょっとして、私、さっき、告白とかされたんでしょうか?」

 かなり自信なげに問い掛けられた眞紀子は、一瞬地面に突っ伏したい気持ちに駆られたが、取り敢えず肯定する事にした。


「……一応、そうなんじゃないかしら?」

 それを聞いた綾乃は、狼狽しながら控え目に問いを発した。

「え、えっと……、その……、取り敢えず幸恵さんの事優先で、良いんですよ、ね?」

 心配そうに尋ねる綾乃に、眞紀子は遠い目をしながら答える。


「別に良いんじゃない? 本人は今すぐ返事して貰えなきゃ嫌だとは言ってないし。それに一般的に考えても、綾乃ちゃんが言った様に元カノが今カノにあまり良い顔はしないでしょうし」

 それを聞いた綾乃は元気を取り戻し、無意識に拳を握って気合いを入れた。


「そ、そうですよね? うん、まず幸恵さんと仲良くなれるように、頑張ります!」

「……色々、頑張ってね」

 男慣れしていないが故に、意識的に祐司の発言を半ば封印してしまった綾乃の態度に、眞紀子は言いたい事は山ほどあったものの、敢えてこの場では何も言わなかった。

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