第14話 恋に落ちる瞬間 

 最寄り駅改札口付近で弘樹と待ち合わせ、その先導で綾乃と眞紀子は並んで歩き出し、十分程でとある低層マンションへと辿り着いた。

 エレベーターで四階に上がってドアチャイムを鳴らすと、ポロシャツとジーンズに、紺色のエプロン姿の祐司が出迎える。


「やあ、いらっしゃい」

「すみません、お邪魔します」

「榊さんも、お付き合いして頂いて、申し訳ありません」

「それは構わないわ。綾乃ちゃん一人で、狼の巣穴に放り込むわけにはいきませんからね」

「眞紀子さん! それは流石に失礼ですから」

「相変わらず、厳しいですね。取り敢えず上がって下さい」

実家では父や兄達のエプロン姿など目にした事など無かった綾乃は、軽い先制攻撃を受けて苦笑した祐司の姿に軽く動揺したが、何とか平静さを保って中へと入った。


 玄関からリビングに到達するまでにキッチンの横を四人でぞろぞろと通り過ぎたが、そこの意外に充実している設備に、綾乃は密かに目を丸くした。業務用かと思えるほど大きな冷蔵庫にガスオーブン、おそらく火力を違えてあるガスコンロが四つに焼き料理用の鉄板、作業台とシンクも一般の物と比べると倍以上のスペースがあり、整然と棚に並んでいる調理器具や調味料の数も圧巻そのものだった。

 キッチンを興味深く眺めてから、所々洒落たインテリアで飾っているリビングを見回しながら綾乃がソファーに落ち着くと、キッチンに行った祐司がお茶を入れて戻って来た。それを一口飲んで口の中を潤した綾乃は、湯飲みをテーブルに戻してから、向かい側に座った祐司に軽く頭を下げる。


「あの、えっと……、本日はお招きに預かりまして……。しかも面倒な事をさせる事になってしまって、すみません」

「いや、これは俺が勝手に決めた事だから。むしろ俺の我が儘に付き合わせて、申しわけ無いと思ってる」

 恐縮しきりで綾乃が頭を下げると、祐司も真顔で応じて頭を下げた。それに戸惑いながら綾乃が確認を入れる。

「いえ、そんな……。でも本当に高木さんが作ってくれるんですか?」

 それを聞いた祐司は、小さく苦笑いした。


「ああ。この間、結構姉にしごかれてね。変な物は出さないから。……勿論食べられそうもなかったら、残して貰って構わないが」

「いっ、いえ! あの、この間はちょっと情緒不安定で失礼しました。今日はちゃんと頂きます」

「ありがとう。それで……、ちょっと並行して焼くのがまだ難しいので一枚ずつ焼きますから、少しお時間頂きます」

 綾乃に笑いかけてから祐司が眞紀子に向き直って断りを入れると、彼女は苦笑いで返した。


「構わないわよ? 先に綾乃ちゃんの分を焼いて頂戴。大人しくしているから」

「すみません。じゃあ早速取り掛かります」

 そこで立ち上がった祐司に、綾乃がすかさず頼み込む。

「あの……、作るのを見ていても良いですか?」

(それは流石に、緊張するんだが……)

 そうは思ったものの、目をキラキラさせて期待に満ちた表情で尋ねられた祐司は、とても断る事など出来ずに壁際を指差した。


「それなら、良かったらそこのスツールを持って来て、カウンター越しに座って見ていてくれるかな」

「はい!」

 そうして綾乃が嬉々としてスツールを引き寄せ、それに座ってカウンター越しに鉄板での作業を見守り始めると、眞紀子は向かい側に座っている弘樹の方に、軽く身を乗り出して囁いた。


「だけど何なの? ここのキッチン。外観は普通のマンションなのに、設備が半端じゃ無いんだけど」

 その疑問に、弘樹は小さく笑いながら答えた。

「あいつの姉さんは、最近メディアに露出が多い料理研究家でね。宇田川貴子って名前、耳にしたこと無いかな?」

「ああ、あの。名前を聞いた時、何となく聞き覚えがあると思ったのよ」

 合点がいったと言うように頷いた眞紀子に、弘樹が説明を続ける。


「料理の試作の為に、自宅でもこれ位の設備は必要だからって、ここを購入した時にキッチンを広げた上、徹底的に設備に手を入れたそうだよ」

「なるほど。じゃあそんな人に特訓を受けたって言うなら、少しは期待しても良いのかしら?」

「良いと思うよ? あいつ結構凝り性の上、意外に負けず嫌いだし。体型崩壊の危険性を冒した努力の成果を、見てやって欲しいな」

「……何となく、意味は分かったわ」

 思わず遠い目をしてしまった眞紀子に、弘樹は嬉しそうに述べた。


「やっぱり眞紀子さん、俺好みなんだよな。体型も頭の回転が早い所も」

 しかしそんな口説き文句など、眞紀子は一蹴した。

「はっ! 警視庁に二度もイタ電かける、痛すぎる馬鹿は願い下げよ」

 はっきりきっぱりお断りされ、流石に弘樹は挫けそうになった。


「お兄さんに聞いたんだ。何て言ってた?」

「久しぶりに顔を合わせた時、四方山話のついでに変な顔をしながら話してくれたわよ。重大事件勃発中じゃなくて、助かったわね。組織的な妨害工作と思われたら、発信者番号から辿られて、確実に尾行が付いてただろうし」

「イタ電じゃなくて間違い電話だって! それにそもそも、間違えるつもりは無かったんだから!」

「姑息な事を考える方が悪いのよ」

 弘樹と眞紀子がソファーでそんな事を延々と言い合っているうちに、祐司は慣れた手付きで熱した鉄板の上に手早く混ぜた生地を流し込み、時間と焼け具合を判断しながら次々に具材を重ねていった。その一連の流れを凝視していた綾乃は、心の中で感嘆の呟きを漏らす。


(うわぁ……、具材が本物、キャベツも細いし麺も良い茹で上がりっぽく見える。豚肉もどう見ても良いのを使ってるし、それにソースはやっぱりこの香り……)

 ウキウキしながら綾乃は焼き上がりまでの時間を過ごしていると、祐司は慣れた手付きでヘラを返し、焼き上がったそれを用意していた皿に危なげなく乗せた。


「よっと、お待たせ。本当なら冷めにくいように、鉄皿も準備すれば良かったんだが」

 そう言いながらカウンターを回り込んでテーブルに皿を乗せた祐司に、綾乃は驚いて手を振った。


「えぇ? そこまでしなくても。このお皿で十分です!」

「そうか。それなら今、他の物も出すから」

「他の物?」

 そう言いながら再び台所に入った祐司に綾乃が怪訝な顔をすると、祐司は片手鍋が乗ったコンロの火を点けてから冷蔵庫を開けた。その中からガラスの器に入った野菜サラダと手製らしいドレッシングが入った容器を取り出し、テーブルに戻って綾乃の目の前に置く。


「せっかくここまで来て貰ったのに、お好み焼きだけじゃなんだと思って、他にも用意しておいたんだ」

 そうして次に温め直したワカメスープを器によそい、再度綾乃の前に置く。

「さあ、どうぞ」

「はい、頂きます」

 促された綾乃は素直に頷き、鰹節が踊っているお好み焼きに箸を伸ばした。そして一口大に切り分けたそれを口に運び、黙って味わう。

 そんな綾乃を祐司は黙って見守っていたが、綾乃がごくりと食べていた物を飲み込んだのを見て、祐司が恐る恐る声をかけた。


「……どうだ?」

「美味しいです!」

 すかさず満面の笑みで評してくれた綾乃に、祐司の顔も綻んだ。

「そうか、それは良かった」

「ちゃんと広島の味がします!」

「しなかったら困るな」

「でも東京の方に、ここまで美味しいのが作れるなんて、正直思っていませんでした!」

 手放しでの誉め言葉に、流石に面映ゆくなった祐司が多少ひねくれた物言いをした。


「……出身は千葉だけどな」

「でも、本当に凄いですよ。本場にお店を出してもやっていけますから!」

「幾ら何でも、それは本職の人に失礼だろう」

「そんな事はありませんよ! それに調理を職業としていない男の人が、ここまで美味しい物を作れるって凄いって事を、表現したかったんです」

「そうか?」

 力一杯訴えてくる綾乃に、祐司が照れながら気分良く問いかけると、綾乃はそのままの勢いで話を続けた。


「はい! 高木さんの恋人とか奥さんになる人が羨ましいです! 時々こういう美味しいものを作って貰えるんでしょうから」

 にこにこと笑いかけられながらそんな事を言われ、真正面からその笑顔を受け止めた祐司は、思わず絶句してから、ぼそりと呟いた。


「……羨ましいか?」

「はい、私、高木さんみたいなお料理上手な人と結婚したいです!」

 殆ど何も考えずに綾乃がそう口走って、再び上機嫌で箸を動かし始めると、祐司が先ほどよりも低い声で呟いた。

「……そんなに食べたいなら、幾らでも作るが」

「え? 今、何か仰いましたか?」

 口に入れていたお好み焼きを飲み込んでから、綾乃が聞き漏らした内容を祐司に尋ねると、祐司は僅かに頬を赤くして立ち上がった。


「何でもない。榊さん達の分も焼き始めるから、一人で食べていてくれ。一巡してまた食べたかったら、食材は多目に用意しておいたから、小さ目に二枚目を焼くがどうする?」

「是非、お願いします!」

「分かった」

 嬉々として頭を下げた綾乃に笑いかけ、祐司は口元を押さえて台所に向かった。綾乃は目の前のお好み焼きに意識を集中していた為、祐司の些細な変化などには無頓着だったが、先程から生温かい視線で二人のやり取りを見守っていた弘樹と眞紀子にしてみれば、顔を引き締めても耳を赤くしている祐司の心境などもろバレだった。


「ねえ……。私、今、もの凄く珍しい光景を目にした気がするんだけど?」

「確かに。女に手料理振る舞われて、胃袋掴まれて恋に落ちるって話は定番だけど、女に手料理振る舞って胃袋を掴んだ挙げ句、自分が恋に落ちるってパターンは、滅多に無いよなぁ……」

 双方呆れ果てた口調でそんな事を言ってから、眞紀子が真顔で素朴な疑問を呈した。


「何なの? あいつ良さげな見た目に反して、そんなにモテないの? 実は性格がとんでもなく悪いとか?」

「あいつは良い奴だから、そんな事は無いって。言い寄る女を捌くのに、苦労している位だし。……だからかもな」

「何が『だから』なのよ」

 一人で何となく納得している弘樹に眞紀子が怪訝な顔を向けると、ここで弘樹がしみじみと言い出した。


「気に入られようとして、女から計算ずくで褒めちぎられる事はあっても、あんな風に純粋に本心からの誉め言葉をかけて貰う事って、滅多に無い経験だろうし」

「それはそれで、ある意味不憫ね。見た目が良いってのも考え物だわ」

「加えて、綾乃ちゃんには初対面から怯えられるわ泣かれるわ。通常では有り得ないシチュエーションで、保護本能がムクムクと増殖していただろうし」

「確かに、あり得ないシチュエーションよね……」

 そこで眞紀子が何気なくカウンターの方に目をやると、何やらカウンター越しに楽しそうに会話しながら焼いたり食べたりしている二人を認め、黙ってそれを見守った。すると弘樹が結論付ける。


「この間、あいつが頑張ってたのも、無意識に綾乃ちゃんに喜んで貰いたいって思ってたからだろうし。そうでなかったら、幾ら自分に非があったとしても、『人が奢るって言ってるのに、食べずに帰るような失礼な女なんて知るか!』って激怒して終わりの筈だし」

「それに関しては、私も同感。今日の話を聞いて『手料理って何?』って思ったわよ」

 眞紀子が小さく肩を竦めながらそんな事を言ったところで、些か脳天気な口調で弘樹が言い出した。


「これまでは無自覚だったみたいだが、さっきの綾乃ちゃんの笑顔で陥落及び自覚したとみた。いやぁ、めでたい」

 それを聞いた眞紀子は額を押さえ、呻くように指摘する。

「綾乃ちゃんったら、面倒そうなのを引き寄せちゃったわね。それに加えて見た所、彼女の方にはそんな気は皆無よ?」

「まあまあ、あいつは良い奴だぜ? 俺が保証するから、長い目で見てやってくれないかな?」

 にこやかに頼み込んできた弘樹に、眞紀子は如何にも面白く無さそうに告げた。


「じゃあ一応、あなたから彼に忠告しておいて。『綾乃ちゃんに下手な事をしたら、怖いお父さんにコンクリート漬けにされて、東京湾に沈められるから』って」

 眞紀子が物騒過ぎる台詞を淡々と口にした為、弘樹の顔が一気に強張る。


「は、ははっ……。眞紀子さん、冗談キツいなぁ。ある意味、そんな所も魅力的だけど」

 辛うじてそんな軽口を叩いた弘樹に、眞紀子は小さく舌打ちしてから尚も真顔で告げた。


「冗談だと思うなら、そう思っていて良いわよ? 綾乃ちゃんの彼氏いない歴イコール年齢は伊達じゃないわ」

「…………マジですか」

「大マジよ」

 暗に(過去に綾乃ちゃんにちょっかい出そうとした男達は、娘ラブの親父に悉く闇に葬り去られたのよ)との含みのある眞紀子の声音と視線に、弘樹の体感温度は一気に低下した。そこでいつの間にかソファーの方にやって来た祐司が、穏やかな声で眞紀子に声をかける。


「お待たせしました。榊さんの分が焼き上がりましたので、テーブルの方にどうぞ」

 眞紀子がチラリとテーブルに目をやると、お好み焼きの他にサラダとスープがセット済みなのを認め、静かに立ち上がった。


「ありがとう。さて、それでは綾乃ちゃん絶賛のお好み焼きをご馳走になりましょうか」

「弘樹、お前の分は次な。もうちょっと待っていてくれ」

「ああ」

 涼しい顔をしてテーブルに向かった眞紀子を見送り、少し申しわけなさそうに断りを入れた祐司に笑って頷いてから、 弘樹は友人の恋路の困難さを思って、密かに憐憫の眼差しを送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る