第11話 OLライフに赤信号

 同じ頃、綾乃は自宅として与えられたマンションで、父親を出迎えていた。


「お父さん、いらっしゃい」

「やあ、俺の可愛い兎ちゃん。元気にしていたか?」

 玄関の扉を開けるなり自分を抱き締めてきた父親に苦笑しつつ、綾乃は抱き締め返した上で、ささやかな抗議をした。


「お父さん、先週も会ったばかりよ? それに、その『兎ちゃん』はそろそろ止めて欲しいんだけど」

「うん? そうか? 可愛らしいと思うが」

「もう……」

 真顔で反論する父に困った顔になってから、綾乃はその背後に佇む顔見知りの男性に笑顔を向けた。


「蓼原さん、ご苦労様です。蓼原さんの分も夕飯を準備しておきましたので、食べていって下さい」

「お嬢さん、ありがとうございます。しかし……、先生?」

 親子水入らずの場を邪魔するのはどうかと思った蓼原が短く雇い主にお伺いを立てたが、対する君島は鷹揚に笑って手招きした。


「おう、上がれ上がれ、遠慮するな」

「失礼します。お相伴に預かります」

「はい、どうぞ」

 綾乃と蓼原双方が安堵しながら室内に入り、綾乃がダイニングテーブルに、準備しておいた三人分の料理を、手早く並べた。

 一人暮らしには広すぎる2LDKであり、綾乃は東京での住居としてこの物件を父から提示された時は「贅沢過ぎるし自分の給料で遣り繰りします!」と頑強に抵抗したのだが、君島が「管理人常駐、オートロック、その他監視システム完備の物件でないと許さん!」と主張を曲げず、渋々綾乃が折れた経緯があった。当然入居前に立派な応接セットやダイニングテーブルなども揃えられ、それを見た綾乃は本気で頭を抱えたが、三人でテーブルを囲んでいるのを見て(大きなテーブルが無駄にならなくて良かった)などと、少し安堵していた。

 そんな事を考えていると、父親と並んで反対側に座っている蓼原が、しみじみとした口調で話しかけてくる。


「お嬢さん、とても美味しいです。それにここ暫く、こういう家庭料理に飢えていましたし、食べる事ができて嬉しいです」

 それを聞いた綾乃は、笑顔で応じた。

「良かったです。お代わりもありますから、遠慮しないで下さいね?」

「ありがとうございます」

「そう言えば……、蓼原さんは、最近私設秘書から公設秘書に変わられたんですよね? 東京に詰める事が多くなって、広島の家になかなか戻れませんか?」

 ふと「家庭料理が久し振り」と言うフレーズが気になって尋ねてみると、蓼原が僅かに驚いた表情になった。


「まあ、そんな所です。近々広めの物件を借りて、家族を呼び寄せようかと思ってはいるのですが……。しかしお嬢さん、良くご存じでしたね?」

「母から、秘書の方や後援会で主だった方が異動されたり交代した時は、その都度教えられてきましたから。『お父さんの仕事を支えて下さる方達の顔と名前位は、常にきちんと把握しておくのが、最低限の礼儀ですよ』と言って。蓼原さんの異動の件は、先月実家に電話した時、母から聞いていました」

 綾乃が淀みなく説明した内容を聞いた蓼原は、今度こそ感心したように唸った。


「流石は奥様、感服しました。それを実行に移している、お嬢さんも流石です」

「そんな事は無いですよ。ただ教えられた事を頭に入れているだけですから」

 照れながら軽く手を振って見せた綾乃だったが、君島は妻子が誉められて嬉しいのか、無言のまま食事をしつつも僅かにその表情を緩めた。そんな君島に、蓼原が思い出したように尋ねる。


「そう言えば、先ほどもそうでしたが、以前から先生はお嬢さんの事を口にする時、『俺の可愛い兎ちゃんが』と仰っていますが、どうして兎なんですか?」

「だからお父さん、外で『兎ちゃん』って言うのは止めて……」

 がっくりと項垂れた綾乃を見て、君島は小さく笑ってから、蓼原に視線を向けた。


「それはだな……。綾乃は小さい頃、同年代の子供より一回り小さくて身体も弱かった上、他人と張り合うような性格でも無かったから、見事にイジメの標的でな。目を真っ赤にして、学校から泣いて帰って来るのが常だったんだ」

「そうでしたか。確かにお嬢さんは、年の割には小柄だとは思っていましたが……」

「やだ、蓼原さん。子供の頃の話ですから」

 綾乃が小学生の頃から君島家に出入りしていた蓼原が僅かに痛ましそうな表情を向けると、綾乃は恥ずかしそうに弁解した。それを微笑ましく見やってから、君島が説明を続けた。


「それで私が家に帰ると、殆ど毎回真っ赤な目をして走り寄って来て、抱き付くのが常でな? つい『俺の可愛い兎ちゃん。そんな赤い目をして、今日はどうした?』と言うのが癖になってしまって……」

「なるほど、良く分かりました」

 そこで苦笑いした君島を見て、思わず蓼原も笑顔で頷いた。すると君島が何か思い付いたらしく顔付きを改め、綾乃に尋ねる。


「因みに……、綾乃。ここに泊まりに来たのはほぼ一月ぶりだし、先週は党本部近くの喫茶店で会議の合間に顔を合わせただけだから、落ち着いて話ができなかったからな。どうだ? 最近誰かに苛められたり、泣かされたりしてはいないか?」

「え?」

 そう問い掛けられた途端、綾乃の血の気が引いた。


(うっ……、まずい。最近のあれこれを、ここで正直にお父さんに話したりしたら、広島に強制送還される事確実じゃない)

 ダラダラと冷や汗を流しながら、自分の考えに全身を強張らせる綾乃。


(入社以来、色々覚える事や考える事が多くてすっかり忘れてたけど……。星光文具に入社したのには、大きな理由があるんだもの。それをうっかり忘れて、つい弱気になってたけど、思い出した以上はお母さんの為にも、辞表なんて書いていられないんだから! 絶対に逃げ帰ったりしないわ!)

 そんな風に心の中で自分自身に喝を入れていた綾乃だったが、流石にテーブルの反対側から、訝しげな視線が向けられた。


「何だ、急に黙ってどうした? 綾乃」

「お嬢さん、どうかしましたか?」

 その声に我に返った綾乃は、慌てて必死に弁明する。


「う、ううんっ! 何でも無いの! 仕事もプライベートも至って順調だから! とっ、友達も沢山出来たし、落とし物を届けようとしたら怒鳴られたりしてないし、社内でコネ入社とか疑われて無いし、他社製品を使っている事で上司に叱られたりしてないし、いきなり現れた人に驚いて突き飛ばしたりしてないし、変な物を食べさせられたりもしてないから!」

 それを聞いた君島は両眼を鋭く光らせ、口調だけは穏やかに綾乃に語りかけた。


「ほぅ? そうかそうか。新生活が順調そうで、何よりだな、綾乃」

「う、うんっ! 全然大丈夫だから、微塵も少しもかけらも心配しないでね!」

「ああ……、凄く良く分かった」

 狼狽しまくりながら綾乃が「あははははっ!」と笑い、君島もそれに合わせて薄く笑ったが、その目が全く笑っていないのを見た蓼原は、本気で頭を抱えたくなった。


(お嬢さん……、正直なのは普通は美点ですが、嘘を吐け無さ過ぎるのもどうかと思います)

 そんな暗澹とした気分になっていた蓼原の耳に、君島の声が伝わってきた。


「綾乃、すまんがお代わりをくれるか? ご飯と味噌汁と、この白和えと肉じゃがも少しずつ」

「分かったわ。温め直すから、少し待っててね」

 これで話題が逸れたと綾乃が嬉々として器を抱えてキッチンに向かうと、君島は先程までの娘に対する口調とはまるで違う、地を這うような声音で、短く蓼原の名を呼んだ。


「蓼原……」

「早急に、調査させます」

 君島の言いたい事を瞬時に察し、キッチンに居る綾乃には聞こえない程度の小声で蓼原が応じると、君島は厳しい表情のまま話を続けた。


「調査結果次第では、対処も頼む事になるかもしれん」

「先生が適当と判断された手段に合わせて人員その他を手配しますので、後ほど指示をお願いします」

「ああ、取り敢えず調査結果待ちだな。全く……、だから遠藤なんぞの会社に入れるのは反対だったんだ。夢乃があんなに強固に主張しなかったら、大事な綾乃を誰が入社させるか!」

 忌々しげに吐き捨てた君島に、つい蓼原が口を挟んだ。


「やはり奥様には頭が上がりませんか?」

「当たり前の事を言うな」

 当然の如く言い切られ、蓼原は今度こそ失笑した。しかしすぐに笑いを引っ込め、ふと感じた疑問を口にしてみる。


「先生、一つお聞きしても宜しいですか?」

「何だ?」

「昔、お嬢さんが苛められていたのを、先生は放置なさっていたのですか?」

(今も昔も、変わらず溺愛しているように見えるんだが……)

 そんな素朴な疑問を呈した蓼原だったが、それを聞いた君島は面白く無さそうに告げた。


「放置など、するわけが無かろう。徹底的に調べて、単なるガキのちょっかいなら軽く脅して、悪質なのは一家揃って選挙区から叩き出してやった。……綾乃には言うなよ?」

「……心得ております」

(やはりな。変な男でも纏わりついていたら、下手したら血を見るぞ。お嬢さん、すみません)

 本人の与り知らない所で、綾乃のOLライフに赤信号が点りかけている現状を憂いつつ、君島に逆らう事など思いもよらない蓼原は、心の中で密かに綾乃に詫びを入れたのだった。

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