第2話 これは疑惑なの?

「ようやく一心地つきました」

慎也は、紙ナプキンで口を拭いながら、そう言った。


 きっと、自宅から駅まで走ったのだろう。

 電車に乗り、私と逢ってレストランに入り、カルボナーラを食べ終わるまで結構時間がかかったのに、慎也はまだ額に汗をかいていた。


 慎也が急いで自宅を出たのは、微妙に生えた無精ひげを見ても分る。

 今まで逢った時は、何れも綺麗に剃ってあった。

 几帳面な彼のことだから、こんなことはあまりないのではないかと思える。


「……で、何があったの?」

私は、慎也が座席の背もたれに寄りかかるのを見届けてから、口を開いた。

 責める気持ちはないので、なるべく優しく聞いたつもりだが、慎也がどう受け取ったかは分らない。


「本当にすいませんでした」

「……、……」

「昨日、付き合いで飲みに行きまして……」

「……、……」

「朝まで引きずり回されてしまったんです」

「……、……」

徹夜で飲んでいたのか……。

 なるほど、確かに目が充血しているし、心なしか身体から発散するお酒の匂いもする。

 まだお酒が抜けきっていないのだろう。


「目上の方と飲んだので、勝手に帰るわけにもいかず、結局、家に帰り着いたのは朝の9時過ぎで……」

「……、……」

「ほんの30分うとうとするつもりが、不覚にもガッツリ寝てしまったんです」

「……、……」

ああ……、若いっていいな。

 徹夜しても、ちょっと寝れば、こうしてケロッとした顔で出掛けられるのだから。


 私ではこうはいかない。

 徹夜で飲んだりしたら、肌はボロボロだし、そもそも、そんな数時間の睡眠では起きられない。

 たとえ起きられたとしても、頭がボーッとして、何も手に付かないだろうし。


「本当は、始発で帰るつもりだったんです。それが、もう一軒だけって話になって、日高屋に……」

「……、……」

「先輩方が色々教えて下さるので、僕もつい腰が落ちちゃいまして」

「……、……」

そこまで言うと、慎也はまたペコリと頭を下げた。


 まったく、爽やか系の若い男はずるい。

 そんな邪気のない顔で謝られたら、何も言えなくなってしまう。


 それに、先輩方……、と言うからには、仕事の関係の人なのだろう。

 もしかすると、先日の合コンにも来ていた人達なのかもしれない。

 だとすると、慎也にとっては上司もいたのだろうから、断れるわけもない。


 慎也は、大体が人付き合いを欠かさないタイプだ。

 お酒は強いし、酒席も苦にしない。

 おまけに素直で人なつっこい性格だから、年上からさぞ可愛がられることだろう。

 昨日は金曜日だし、次の日が休みとなれば、つい、羽目が外れることだってある。

 つまり、すべて不可抗力だ。

 慎也のせいではない。


「千秋さん……、怒ってますよね?」

私が何の反応も示さないので、彼は誤解しているようだ。

 私の表情をのぞき込むように、彼は言った。


 私のリアクションは、相変わらず薄くて遅い。

 それを怒っていると思う慎也の反応がカワイイ。

 美香が私の反応を看たら、軽くスルーして何もなかったことになっていることだろう。

 まあ、美香は若い頃から図々しいが……。


 実際には、まったく怒ってはいないけれど、このまま不満の一つも言わないのではちょっと悔しいので、何を言ったら良いか考えていた。

 しかし、慎也に見つめられると、頭が真っ白になって何も言葉が浮かんでこない。


 頭をフル回転しながら言葉をさがすが、必死になればなるほど、気持ちだけが空回りした。

 そして、意味不明な沈黙が流れる。

 昼時を大きく外したレストランに人はまばらではあったが、私と慎也の周りだけが特別な静けさに覆われているような気がしていた。





「身体にだけは、気をつけてね……」

頭をフル回転し、数分の沈黙の末に絞り出した言葉はこれだけであった。

 心の中で、

「これって、何の不満?」

と自身にツッコんでいる私がいる。

 そもそも、怒ってないのだから、不満の言葉がでるわけもないのだけれど、それでも、このお人好しな一言を私が発するなんて、自分自身でも信じられなかった。


「本当にごめんなさい。今後はこういうことはないようにします」

私の意味不明な沈黙におののいたのか、慎也は更に謝った。


「ところで、今日の映画はどうする? 行く? それとも、とりあえずカラオケボックスかなんかで寝る?」

私は、慎也の更なる謝罪をスルーし、わざと話題を変えた。

 これ以上、私が何か言ったところで、慎也は私が怒っているとしか思ってもらえないだろうから。


「映画に行きましょう。今日はその予定だったんですから」

「そう……。じゃあ、映画館で寝ればいいわ」

あくまでも前向きな慎也に、私は多少の皮肉を交え、クスッと笑う。

 それを見てようやく安心したのか、慎也もクスッと笑った。


 やはりずるい。

 爽やか系の男は、微笑んだだけですべて許せてしまう。





 映画館で、やはり慎也は寝ていた。

 暗くなって、予告編をやっていたときにすでに寝息を立てていたから、本編はまるで観ていないに違いない。


 映画は、時代劇とアクション物がミックスされたような内容だった。

 慎也には私の好みが分らず、とにかく女性が喜びそうな映画……、と言うことで選んだのだろう。

 国民的な男性アイドルが出ているから、ハズレがないと思ったのかも知れない。

 まあ、国民的なアイドルとは言っても、40代になれば普通の俳優なのではないかと、ひねくれ者の私などは思うが……。





「し、慎也君……。起きて、入れ替えよ」

映画が終わり、場内が明るくなっても、慎也は寝ていた。

 本当は寝かせておいてあげたいが、そうもいかない。


「んっ? あ、寝てしまったんですね、僕」

「そうね、グッスリと……」

「すいません、誘ったのは僕なのに」

「良いのよ。さあ、とりあえず出ましょ」

眠そうに目をこする慎也の腕をとり、出口に向かう。

 良く見ると、彼の手には、映画が始まる前に買ったコーラがそのまま残っていた。


 映画館を出て、次は何処に行こうか二人で思案する。

 さっき、二人ともパスタを食べたばかりだから、食事にするには早すぎるし、いきなり飲みに行くにも時間が早い。

 時刻はまだ5時半……。

 雑踏の中で、立ちつくす私と慎也……。


 こういうとき、デートに馴れている女性はどう対処するのだろう?

 年上の私がリードすべきなのだろうが、まったく良い案が浮かばない。


「今日は帰りましょうか?」

「あ、いえ……。今、遊べるところを考えますから」

「そうじゃなくて、慎也君、まだ眠そうだし、疲れてるみたいだから」

「そんなことないです。ほら、元気ですよ」

慎也はわざとらしく屈伸をしだす。

 私の方こそ、良い案が示せないので、帰ろうと言って逃げているだけだったりするが……。





 二人でくつろげて、楽しめて、慎也が体力的に負担にならなくて、デートに相応しい場所で……。

 頭の中で条件を並べてみると、ますます見つからない。


 ん……?


 いや、今、何かが頭の中をよぎった。

 確か、デートに相応しい場所で……、と条件を並べたときだ。

 デート……。

 慎也と二人きり……。

 私と彼は、大人の男女……。

 大人の男女の楽しみって……。


 答えは、ラ、ブ、ホ……?


 一回意識してしまうと、答えはそれしかないような気がしてくる。

 私に経験がないだけで、付き合っているならごく自然なことだし。


 でも、まだ、私達はキスもしたことがない。

 それどころか、手を繋いだことさえも……。

 もしかすると、さっき映画館で慎也の手を引いたのが、初めての接触かもしれない。

 それなのに、いきなり、ラブホに行ってしまうの?


 妄想が頭を駆けめぐると、顔が火照ってきた。

 何だかんだ言って、私、結構、その気かも。

 でも、まだ心の準備が出来ていない。


 しまった……。

 今日の下着は、オバサン臭いベージュの上下だ。


「……さん? 千秋さん?」

「は、はい?」

「見つかりましたよ、二人でゆっくり楽しめるところが……」

「あ、そ、そう……」

慎也はだいぶ眠気を回復したのか、顔にいつもの爽やかさが戻っている。


 でも、その爽やかな顔で、「二人でゆっくり楽しめる……」なんて言われると、少し気恥ずかしい。

 彼も同じことを思いついたのだ。

 馴れているから、私のように照れたりしないだけで……。


「わ、私、この辺詳しくないから、場所が分らないわよ」

「大丈夫です。僕は仕事で渋谷にはしょっちゅう来ますから」

「あ、そ、そう……」

「そんなに遠くないです。ゆったりロマンチックな気分になれますよ……」

「……、……」

「あ、僕も行くのは初めてですよ。そんな機会もなかったですしね」

初めてだと強調されたが、そんなのどう考えてもウソだろう。

 いくら仕事で来ていても、用がなかったら、絶対に行かない場所だし。


 ゆったりロマンチックな気分……、って、普通はそんな風に思うのかしら?


 慎也は行き先の方向を指さし、歩き出す。


「千秋さんは行ったことあります?」

「わ、私も……、……」

「そうですか。二人とも初めてなんて、新鮮で良いですよね」

「……、……」

動揺しまくりで、会話がうまくできない。

 足がもつれて倒れそうだし……。


 慎也は、サラッと、「新鮮で良い……」なんて言ったけど、本心ではどう思ってるんだろう?

 35にもなったオバサンが、ラブホも行ったことがないなんて、内心で笑われているかも。

 それとも、「カマトトぶってるんじゃない?」なんて思われてるかな?


「あ、見えてきましたよ」

「……、……」

「あのビルです、プラネタリウムがあるのは……」

「!! ……、……」

私は、思わず、「プラネタリウム?」と復唱しそうになったのを、辛うじてこらえた。

 そっか、プラネタリウムか……。


 私の勝手な妄想が暴走しまくっていたことに、先ほどとは違う種類の恥ずかしさを感じる。

 しかし、密かにホッと胸をなで下ろした私もいた。





「凄く良かったですね」

「そうね、ロマンチックだったわ」

プラネタリウムから出てきて、二人で感想をもらす。

 作り物だと分っていても、やはり星は幻想的だった。


 慎也も、今度は暗くても寝てはいなかった。

 途中、暗闇の中で、そっと私の手を握ってきたのが思い出される。





 そろそろ良い時間なので、飲みに行くことになった。


 大遅刻のお詫びに、今日の飲み代は全部慎也が出すと言ってくれている。

 ただ、23歳の収入では、高いお店では辛いはずだ。

 糸偏の企業は、円安の今は、あまり景気が良いとは言えないようだし。

 私は経理課にいるので、その辺の事情には賢い。


「あそこにしよう」

そう言って私が指さしたのは、センター街の中頃にある、焼き鳥のチェーン店だった。

 私は、焼き鳥なら大抵なんでも満足だし、焼鳥屋で高くつくことは滅多にないから。


「千秋さんって、本当に焼き鳥が好きですね」

「そうよ。小さい頃からそうなんだから」

「でも、実は、気を遣ってくれてません? 僕に」

「……、……」

「今日は本当に僕が悪かったんですから、もっと高いところでも良いんですよ」

「……、……」

ちょっと胸が熱くなった。

 私が気を遣っていることに気がついてくれたことが嬉しいし、本当に反省しているみたいだから。


 しかし、私のリアクションは相変わらず遅かった。

 気持ちは、

「全然怒ってなんかないよ」

って、言ってあげたかったのに、やはり、言葉が出てこない。

 私は黙って慎也の目を見つめるだけだった。





「おっ? 慎也じゃないか。どうした? 土曜なのに」

「あ、三沢さん……。マルキューですか?」

「ああ、セール品が足りないって連絡が入って、急遽、届けてきたところさ」

「土曜出勤は勘弁ですけど、売ってくれるのは有り難いことですね」

「そうだな。顧客あっての商売だからな」

「ですね。有り難いです」

せっかく良いムードだったのに……。

 突然、声をかけてきたのは、先日の合コンにもいた慎也の上司だった。

 合コンのときと同じく、三沢はスーツにネクタイ姿だ。


「そうか、千秋さんと一緒か。なるほど、それで昨日は早く帰ったのか」

「いえ、それは……」

「まあ、何にしても、旨く行ってそうで良かった」

「……、……」

「千秋さん……。こいつ、良い奴なんでよろしく頼みます」

「……、……」

三沢は、お邪魔だと悟ったのか、言うことだけ言うと、軽く手を振って去って行った。

 邪魔だと思うのなら、最初から話しかけなくても良かったと思うけど……。





 焼鳥屋に入り、お酒をいくら飲んでも、私の中には引っ掛かるものがあった。

 慎也には分らないように普通に接しているけど……。

 それは、三沢の一言が原因だった。


 あのとき、三沢は確かに言った。

「昨日は早く帰った……」

と……。

 では、慎也は昨日、朝まで誰と飲んでいたのだろう?

 私は、仕事の関係の人だとしか思えなかったが、三沢の言葉が正しいのなら、それ以外の人間関係だと言うことになる。


 それに、慎也も言っていたではないか。

「いえ、それは……」

と……。


 あれほど何でも素直に話してくれていると思ったのに、慎也は私に隠していることがあるようだ。

 あれほど必死に謝ってくれたのも、後ろめたい気持ちがあったからなのだろうか?


 騒がしい焼鳥屋の中で、私だけが何だか置き去りにされているような気がした。


 慎也……。

 ごめん……。

 今は、私、あなたの目を見られない。


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