最終話
両者は相手をマットへ平伏させる為に、厳しい鍛錬によって培った肉体と技を惜しみなくぶつけ合った。来生が殴れば愛果も負けじと殴り返し、愛果が蹴れば来生もまた蹴り返す。肉体同士がぶつかり合う音とふたりの叫び声だけがリングの中に響き渡るが、観客たちはもっと内面的な――《レスリング》という言語による彼女たちの会話を心で感じ想像し、己が信奉する選手たちを力一杯応援した。
愛果の身体が、捻りながら弧を描きマットに突き刺さった。来生が必殺技として好んで使用する
それまで来生を支えていた絶対の自信とプライドが揺らぎ始めた。これまでも何度か他団体選手と試合をした事はあっても負けた事は一度も無かった。「もしかしたら……」とネガティブな思考に憑りつかれた瞬間、それまで感じた事の無い恐怖感が湧き上がり、意識と身体とが正常にリンクせず対戦相手に隙を見せてしまう。
相手をテイクダウンさせてマットへ寝かせ、力一杯締め上げてこの試合を一秒でも早く終わらせよう――余裕を失った来生の頭にはそれしかなかった。膝を小刻みに震わせるも、目だけは闘志を失う事なく輝かせている愛果に向かって来生は叫びながら突進する。だが愛果との距離があと数歩と迫った時、彼女の膝の揺れがぴたりと止まった。勢いが付き過ぎて最早止まる事も出来ない来生は、愛果の懐へ吸い込まれたかと思うと素早く身体を横へ一回転させられ、彼女の膝頭で腰周りを激しく打ち付けられた――カウンター技である
痛打した腰を押さえマットの上で激しく悶絶する来生に対し、愛果はさらに追い打ちをかける。相手の脚を掴み身体をエビのように反らせると、自分の首に来生の脚をマフラーのように掛ける一方で片腕に足を絡め動けないよう固定する。背中から腰にかけて言葉に出来ない程の痛みが走り「ロープへ逃げる」という選択肢すら浮かぶ余裕が無くなった彼女は、痛恨の思いでマットを激しくタップし、レフェリーへギブアップの意思表示をするのだった。大会数日前の道場での練習で、さゆりから直々に教わった変形ストレッチマフラーホールド《
がっくりと肩を落とし、敗北の悔しさを隠しきれない来生の元へ、“勝者”である愛果が近寄ってきた。辛うじて勝ちを治めたものの愛果とて無事ではなかった。相手の厳しい打撃技や投げ技を受け続けた彼女も、コスチュームから露出している肌には赤や青のアザが浮かび上がり、身体の至る場所がズキズキと鈍く痛んでいた。
愛果は真っ直ぐ手を差し出し、来生に握手を求める。
彼女の瞳からは憎しみは既に消え、互いに全力を出し切って闘った者としての
試合が終り、愛果は痛む身体を押して控室に続く通路を駆けていく。メイイエベントに登場する神園さゆりのセコンドとして同行するためだ。さゆりからは「付かなくてもいい」と言われていたが、どうしても彼女の闘う姿を、レスラーとしての生き様を間近で感じたいと半ば強引に志願したのだ。
控室のドアを開けると、既に身支度を終え出番を待っているさゆりの姿があった。派手な色彩の和柄が刺繍された着物風のロングガウンに身を包む、彼女の姿はまるで約15年前の全盛期当時を思わせた。
「さゆりさん……」
「モニターで観てた――凄くいい試合だったわ。さて、今度はわたしが頑張らなくちゃ」
さゆりから声を掛けられた途端、それまで張り詰めていた緊張の糸が解け瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。有り得ない程の重圧と恐怖を自分ひとりで必死に堪え闘ってきたが、控室に入り彼女の顔を見て安心すると、それまで閉じ込めていた感情全てが一気に流れ出たのだ。感極まってしがみ付き嗚咽を上げる愛果に、さゆりは微笑みを浮かべやさしく背中を撫でてなだめるのだった。
坊主頭をしたこだまプロレス練習生が、入場の時間が来た事を告げにやって来ると、さゆりの表情は優しげな大人の女性から目付きも厳しい戦闘モードへと一変した。
水澤……お望み通り見せてやるよ、元アイドルレスラーの本気ってやつを。
団体ロゴの入ったTシャツを被った愛果を隣に従え、さゆりは大型照明に照らされ白く輝くリングへと向かい、颯爽と歩みだす――
カーテンで仕切られた入場口の手前では、ゴー☆ジャス譲治が今日の主役の登場を待っていた。さゆりが一番好きな、少し照れたような笑顔で。
譲治は無言で彼女の肩を軽くぽんと叩き「頑張れよ」と激励すると、さゆりも軽く彼の腹に肘鉄を喰らわせ、分厚い胸板に顔を摺り寄せてハグをした。ふたりに言葉は不要だった。スキンシップだけで互いの想いが、肌を通して十分に伝わってくる。
――青コーナー側より、こだまガールズレスリング・神園さゆり選手の入場ですっ!
カーテンの向こう側より、リングアナウンサーによる紹介アナウンスが聞こえてきた。さゆりと愛果、そして譲治は互いに顔を見合わせると、観客たちが期待に胸膨らませて待ち構えている大ホールへと飛び出していった。爆音で流される入場曲をものともしない大歓声が、彼女たちこだまプロレス勢に浴びせられる。特に知名度という点ではどの選手よりも高いさゆりには8割方の観客たちから声援が飛んでいた。こだまプロレスや動画サイトにアップロードされてる過去の試合映像を観て知った若いファンや、かつてテレビ中継や実際に生で試合観戦した事のあるオールドファンに至るまで、年齢・世代を超えて《神園さゆり》を応援するこの状況にさゆりは感激に打ち震える。試合の始まる前から黙々と燃やし続けた闘志が、大歓声によって更に大きく、熱く燃え上がった。
スチール製のステップを一気に駆け上がりロープを潜って、リングの中央に立ったさゆりは両手を広げると、会場より生まれる歓声を全て独り占めするかの如く、ぎゅっと抱き抱えるような仕草を見せる。ファン心理を刺激する心憎い彼女のポーズに観客たちはまた唸った。
館内の照明が一旦落とされ、今度は赤コーナー側の入場ゲートより今宵の“もうひとりの主役”である水澤茜が現れた。エナメル加工された銀色のロングベストを羽織った水澤は、リング上に立つさゆりの方を向き右腕を高々と掲げた後、ゆっくりと指を
あいつ、格好いいなぁ――さゆりは熱狂するファン達とスキンシップを取りながら、こちらへ向かう水澤を見て素直にそう思った。内面に秘めているモノが違うと言えばそれまでだが、最後まで「可愛い」と持て囃されていた現役時代の自分が、年齢を重ねても遂に辿り着かなかった「格好いい」を、あの若さで既に備え持っている事を同時に嫉妬もした。
遂に相まみえた因縁の両者。レフェリーからボディチェックを受ける間も決して相手から目を離さない――いや、彼女たちが「獲物」としてあまりにも魅力的で目が離せないのだ。特に水澤は待ちに待った「自分を更なる高見へ上げてくれる」相手と直に対峙して、顔には出さないものの嬉しくて仕方がなかった。さゆりも同様で現在の女子プロレスの
体育館の柱に掲げられている大時計が、午後7時45分を指した瞬間――30分1本勝負で争われる両者の、闘いの始まりを告げるゴングが遂に打ち鳴らされた。
観客たちは序盤のセオリーとして、
痛む顎骨を手で押さえさゆりは立ち上がり、更なる攻撃を加えんと足を振り上げた水澤に対し今度は中国武術の後掃腿――プロレス風に言えば水面蹴りで彼女の軸足を刈り取ってダウンさせ、お返しとばかりに腹部へ
患部を押さえ、睨み合って停止する彼女たちに場内からは拍手と歓声が沸き起こる。多くの観客たちはこれまでの闘いに無かった、「殺るか、殺られるか」の緊張感溢れるふたりの攻防を全面的に支持したのだ。
水澤は立ち上がると、這うような低いタックルでさゆりの胴へ腕を絡み付け、そのまま背後へと回り間髪入れずに投げっ放しのジャーマンスープレックスで後方へ遠く投げ捨てる。だが持ち前の反射神経で危険を察知したさゆりは、自らバック宙をして頭部へのダメージを回避させると今度は、彼女の長い脚へ低空のドロップキックを放ちマットに跪かせると、腕を取って
約5センチばかり水澤の方が背が高いとはいえ、ほぼ同サイズの両者の攻防はスピーディーかつスリリングに富んだものとなり、秒単位で攻守が入れ替わってしまうので観客たちは一瞬たりとも目が離せない――もちろん闘う選手たちの方も。
一転して今度はマットレスリングでのせめぎ合いとなった。隙あらば相手の首や腕、そして足首に至るまで掴める箇所は全て掴み、締め、拉いだ。だが技が完全に極められてしまえばそこでジ・エンドとなってしまうので、 ふたりは持てる力を振り絞って
――これっ、これよ。私が求めていたものは! 互いが持つプロレスラーの“格”を奪い喰らい合う、果し合いのような試合をずっと待ち望んでいた。
上昇志向の塊のような水澤は目をぎらぎらと輝かせて、標的であるさゆりに向かって再び迫っていく。だがさゆりだって簡単に負ける気などさらさら無い。スタンド技やグラウンド技など、どれも一発でも喰らえば即負けが決定してしまう危険な攻撃を、寸前のところで躱し、往なし、防いでいった。彼女の気が休まる暇も無い。
――さすが、現在の女子プロレス界のトップを走っているだけはあるわ。攻撃力に防御力、それに備え持ってるカリスマ性……正直厳しいけど相手にとって申し分ない。絶対に喰われてなるものかっ!
リングアナウンサーが観客たちに試合開始から15分が経った事を告げると、皆はえっ? と驚いた。過去にアナウンスされたはずの5分目、10分目の経過報告が全く記憶にないからだ。それだけ観客たちはリング上で繰り広げられる、おんなふたりの息詰まる闘いに魅了されているに他ならない。しかし試合時間が残り半分を切ったものの一進一退の闘いが続き、誰もがクライマックスを未だ予想出来ずにいた。
「ごれが一流同士の闘い……凄いけれど、この先どうなるんでしょう代表?」
リング下でずっと試合を見守っていた愛果が、鉄柱を挟んで隣にいる譲治に尋ねてみた。もちろん明確な答えは期待していないが「さゆりの一番近くにいる人」の意見をふと聞いてみたくなったのだ。
「さあな。プロレスの女神様だって
愛果の顔を見る事なく、譲治はまるで独り言のように彼女に返事をした。実際、さゆりと水澤の間には身体的な差も世代的な差も、試合中のふたりからは今の所感じられない。しかし長丁場となれば、肉体年齢の若い水澤に分があるのは誰の目から見ても明らかで、どこで勝敗を分ける
水澤がコーナーポスト下でダウンしている――直前の展開で彼女は、ロープに振られ戻って来たさゆりから
――?!
ぐらりとほんの一瞬、目下に寝そべる水澤の姿が歪む。それと同時に疲労感が身体に圧し掛かり、どっと冷汗が流れた――スタミナが切れ始めたのだ。
――冗談じゃない、こんな時にっ
自己否定と焦りで心拍数も上昇、コーナー上でさゆりはロープを掴んで停止したままで、水澤がその間に回復しその場からいなくなった事も気が付かない。
がつっ!
頭部に走る激痛と共に、彼女の網膜に映る景色はぐるぐると回転し、やがて全てが真っ暗となった。コーナー上から動かないさゆりの死角に素早く廻った水澤が、ロープを利したジャンピングハイキックで蹴り墜としたのだ。ほんの一瞬の隙を突かれ、ダメージを負ったさゆりは踏み留まる事も出来ず、コーナー上からセーフティマットの敷かれている場外へと抗いもせず落下していった。
大歓声に沸き上がる会場とは裏腹に、リングの周りにいる人間たちは言葉を失い、時が止まったかのように立ちすくんでいた――無論、仕掛けた水澤も含めて。
さゆりの落ち方があまりにも自然過ぎる、と水澤は思った。プロレスラーは「魅せる受身」を常日頃練習をしているが、それが発動されるのは何も技を受ける時だけでない。場外へ転落する際にも、遠方の席に座る観客にも分かるよう見た目は危なげに、且つダメージを最小限に留めるような受身を取るのだ。だが彼女の今の落ち方は明らかに
咄嗟に水澤は、本部席の緒方の方を見た。だが「プロレスラー」ではない彼は、アクシデントに関する解決策など持っている筈もない。彼に出来るのはストーリーを考える事と会社を運営させる事だけだ。彼女の悲痛な視線に緒方はどうする事も出来ず、ただ下を向くだけだ。予期せぬ事態に《キャラクター》という殻の内側にある、本来の水澤が顔を覗かせ顔面蒼白となる。
「さゆりさん! さゆりさんっ!」
愛果も自分の目の前で、倒れたまま動かないさゆりを見て、パニックに陥りかけていた。一刻でも早く側に寄って彼女を揺さぶり起こしたいと、一歩前に出かけたが譲治は腕を掴みそれを強引に引き留める。
「何でなんですかっ?! さゆりさんの事が心配じゃないんですか!」
ヒステリック気味に怒鳴る愛果の肩を掴み、落ち着いてと冷静に語りかける譲治。最初は感情的になり理解出来なかった愛果だったが、彼の真剣な眼差しと肩から伝わる体温で、次第に落ち着きを取り戻していく。
譲治は更にリング上で、自分のキャラクターを放棄して怯えてしまっている水澤にも、観客たちに気が付かれない様にアドバイスをした。
「心配要らないよ、茜ちゃん。ちょっと落ち方が悪かっただけだ。直に回復するからそのまま怖い顔して待ってて」
試合中そんなに怖い顔かな、私?――納得いかない表情の水澤を余所に、目を閉じて倒れたままのさゆりの側に寄り添うと譲治は、パンパンと手を叩き大声で語りかけた。決してさゆりの容態を全て把握しているわけではない、だが公私と共に大切なパートナーとなった譲治には、何故だか不安はなく根拠の無い自信だけはあった。
「さゆりさん、皆が待ってるよ。だから……辛いかも知れないけど起きてっ」
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、譲治は彼女の反応を見守る。
彼の呼び掛けからワンテンポ遅れて、さゆりの指がぴくりと動いた。やがて掌は拳へと形を変え彼女はゆっくりと上半身を起こす――さゆりは無事だ。
愛果は涙ぐんで彼女の名を叫ぶ。水澤も安堵の表情でほっと胸を撫で下ろす。
「……痛ててて、ちょっとミスったわ。本音を言えばこのまま寝ていたいけど、お客さんが――水澤が期待して待っている。だから行かなきゃ」
譲治の肩を借りてさゆりは、床から身を剥がすように立ち上がった。足元が若干ふら付いているが時間の経過と共に回復するだろう。譲治は念のため彼女の瞼を開けて、瞳孔を確認するが特に大きさに異常はない。
「うん、あと少し。悔いの残らないよう存分にシバき合って頂戴ね」
「ひどーい! それが“恋人”に言うセリフ?」
いい笑顔だ。これなら残り時間内は問題なく闘えるだろう。譲治はさゆりの背中を優しく擦りながら、闘いの舞台であるリングへと送り出す。
リング上で待っていた水澤が、ロープを開けてさゆりを招き入れる。彼女なりの最大限の敬意の表し方にさゆりは、にこりと笑みを浮かべ黙ってそれに従った。
リングへ無事に舞い戻った《フェアリーファイター》は再び宿敵と対峙した。だが以前のようなギスギスとした空気はなく、どこか落ち着いた
さゆりが水澤に握手を求め手を差し出した。彼女もそれに応じ手を握り返す。
「――残り時間、全力で突っ走るわよ」
「また途中で、ガス欠起こさないで下さいね。先輩?」
ふたりが手を離した瞬間、互いが背後のロープへ走り加速を付けると、合わせ鏡の如く同時にドロップキックを放ち、相手へ着弾し損ねたふたりはマットへと落下した。しかしまだ攻撃を諦めていないさゆりたちは、素早くヘッドスプリングで身体を起し次の展開に備えた。
相手をグラウンド戦へ持ち込もうと、さゆりがフライング・ヘッドシザーズを仕掛けた。だが既にこれを読んでいた水澤は側転で切り返し、マットに寝そべる事を拒否する。お返しに後方からさゆりに飛び付きくるりとエビに固めた水澤だったが、この技も相手がしっかり腰を落とす僅かな隙をついて、さゆりは身体を回転させフォールを狙う。ふたりの裏の読み合い、技の返し合いに観客たちはまた熱いエナジーを放出させる。一旦敗北へのフラグが立ったかと思われたこの試合だが、持ち直したさゆりの猛攻により再び勝敗の行方は分からなくなった。
水澤は素早く立ち上がると、まだ片膝を付いたままで体勢の整っていないさゆりに対し、強烈なミドルキックを撃った。踏ん張りの利かないさゆりは彼女の容赦ない蹴りをもろに受け、ロープを超えて場外まで転がっていった。
「よし、行くぞぉ!」
この試合、初めて水澤が観客たちに声を出してアピールした。彼女は反対側のロープへ飛び助走のスピードを上げると、場外で胸を押さえ呼吸を整えているさゆり目掛け駆けていき、セカンドロープを踏み込んで高く上に飛び上がった後、全身を捻って相手に体当たりを喰らわせた。旋回式ボディアタック――《
一足先にリングへ帰還した水澤は、ダメージを蓄積させたまま戻って来たさゆりの腕を担ぐとロープ越しのブレーンバスターを狙い持ち上げた。だがこれを嫌がったさゆりは足をばたつかせ、重心を下げてこれを回避すると彼女の横っ面へ強烈な張り手をぶちかます。目の奥がぐらりと揺れ意識が一瞬遠退いた次の瞬間、水澤の首を両手で固定したさゆりは、エプロンサイドへ尻餅をついてトップロープを相手の喉元へ押し当てた。さゆりの体重が乗掛かった自分の首をロープで激しく打ち付けた水澤は、強い衝撃と共にロープの反動で大きく後ろへ飛ばされてれてしまう。
マットに寝そべった水澤を確認したさゆりは、自分もトップロープへ飛び乗りバウンドさせて跳躍力を蓄えると、くるりと後ろ向きになり大きな弧を描いて空間を舞い水澤の身体へ全身を叩き付けた――スワンダイブ式のムーンサルト・プレスが決まった。しかしレフェリーのカウントはツー止まりで試合はまだ続いていく。
試合時間が残り5分を切った。これまでにも普通の試合では、十分にフィニッシュになり得た場面は幾つもあった。だが、そうはならなかったのはさゆりと水澤の、勝利に懸ける執念と相手に対する意地や見栄、そしてどの選手よりも防御力・耐久力が優れていたからに他ならない。水澤は生まれ持った天賦の才能で、さゆりは練習と過去の試合から得た経験で相手の攻撃を凌ぎ、躱し、往なしてきたのだ。
あぁぁぁぁぁっ!
水澤が激痛に喘ぐ。さゆりの関節技でのフィニッシュホールドである、
再び両者がスタンドの状態になると、真っ先に水澤はさゆり目掛けて鋭角な肘打ちを喰らわせた。被弾した箇所が赤く染まる中、さゆりも負けじと同じ技で反撃しごつごつとした肉弾戦がふたりの間で繰り広げられる。二発、三発と打つ度に戻ってくる打撃は自分の力以上のものを感じ、既に疲労している身体にますますダメージが蓄積されていき遂に、水澤はさゆりとのエルボー合戦に力尽き前屈みになってしまう。この千載一遇のチャンスを逃してはなるものか、とさゆりは止めの一撃を喰らわすべく大きく腕を振りかぶった。
――よし来たっ!
この時を待ち構えていた水澤はにやりと笑うと、さゆりの攻撃を流し自分の方へ彼女の身体を引き込んで回転し腕を取った。飛びつき腕十字固めが電光石火の如く極まり、さゆりの肘が伸ばされ今度は彼女が悲鳴を上げる番だ。痛みから逃れようと、曲げられている方の手を掴み上体を起こそうと必死になる。己の背筋力をフルに駆使して立ち上り、腕十字固めを何とか防ぐ事はできたが、水澤はそれを察知していたのか今度はグラウンドの状態から三角締めへと移行し、頚動脈を自分の肩と相手の大腿部で締め付けられたさゆりの顔には苦悶の色が浮かぶ。逃げれば逃げるほど太腿が喉へ食い込み、血液中の酸素が遮断されますます意識が遠退いていく。そして――さゆりは脱力し動かなくなった。
涙を流しながら、さゆりの名を何度も叫ぶ愛果。だが目を閉じ、ぐったりと寝そべったままの彼女からは何の反応もない。水澤はそんな彼女の姿に安堵と喜びとが入り混じった表情を見せ、コーナーポストの金具に足を掛け最上段へと昇っていく。いよいよ彼女一番の必殺空中弾《メエルシュトレエム》を放つ時が来た。残り試合時間がいよいよ3分を切った頃に訪れた最高の、そして最後のチャンス――コーナーの真下で最後の時を迎えるさゆりに、しっかりと狙いを定め自分の中でゴーサインを出すと複雑な捻りを身体に加えながら落下していった。水澤の体重プラス空中回転により発生した圧力をまともに喰らったさゆりは、目をひん剥いて悶絶する。
ワン、ツー……とレフェリーがマットを叩きフォールカウントを取る。あとひとつ数えられれば水澤の勝利が確定する――だが三つ目を叩き入れようとした時、急にレフェリーは振り上げた手を止めカウントを停止した。全身全霊を込め、立ちはだかる最強の敵に放った最高の一発が返された? 勝利を確信していた水澤は食って掛かるがレフェリーが指した指の先を見て愕然とした。さゆりの足がサードロープに触れているのだ。気が逸りすぎてフォールする際に、ロープとの距離など位置確認を怠ってしまった事に水澤は顔を手で覆い天を仰いで悔しがる。
頭皮に痛みが走った。背後から誰かが髪を掴んでいる――さゆりだ。呼吸も荒く目は虚ろだが、それでもしっかり立っている。
「――落ち込む暇があったら、とどめを刺しに来いよバカ」
生気の無い顔で笑うさゆりを見て、水澤は得も言われぬ恐怖を感じ背筋が凍った。
どんっ!
水澤の腹に一発、さゆりは頭突きを喰らわし足元をふらつかせると続いて左右の張り手を顔面へ、最後にハイキックを首筋に叩き込み精神的ダメージから未だ立ち直っていない彼女の肉体に大打撃を与えた。全身の力が抜け落ち、膝から崩れ落ちる水澤の身体をさゆりは背後へ回り抱きかかえると、両腕を羽交い絞めで固定し、ひと呼吸で一気に彼女もろ共ブリッジをした。腕が固定され肩が上がらない水澤は、受身を取る事も出来ずそのままマットに後頭部を痛打した。一時現役を退いてから十数年、ずっと封印していた神園さゆり最強の必殺技《ウイングロック・スープレックス・ホールド》が炸裂する。羽根をもがれた《天使》は成す術も無く奈落の底へ墜ちていく――
だが燃えたぎる闘志を打ち消すかのように、突如ゴングの音が場内に鳴り響いた。30分間の試合時間が終了したのだ。リング上の熱い闘いに息を飲んで見守ってきた観客たちはゴングの鈍い金属音を聞き、ようやく我を取り戻す。
パチパチパチパチ……!
何処からともなく自然発生的に、ふたりの闘いに敬意を表し拍手が沸き起こった。正直もう少し――出来れば決着が付くまで観ていたいというのが本音だが、死力を尽くし精根尽き果てるまで闘った彼女らに、「これ以上」を求めるのは酷というものだ。さゆりが羽交い絞めのロックを外し力無く座り込んでいる。その表情からも疲労の色が見て取れた。そのすぐ隣では水澤が仰向けになって、胸を大きく上下させ深呼吸をしている。彼女も同じく疲労困憊ですぐにマットから立ち上がれずにいた。
「さゆりさんっ!」
愛果と譲治が試合終了と同時に駆け寄ってきた。仲間の存在に気が付いたさゆりは残っていた力を振り絞り腰を上げると、ふたりの元へふらふらと歩いていき辿り着いた譲治の懐へ自身の身体を預けた。彼の体温を感じようやく彼女の顔に笑顔が戻る。対する水澤も若手選手による懸命のアイシングで、身体の痛みを緩和してもらいどうにか立ち上がれるまでに回復した。
レフェリーがふたりの腕を上げて、観客たちに
「――水澤、あなた本当に最高の選手よ。時代の潮流ってやつを自分の身体で感じてつくづくわたしは“昔の人間”だって事を痛感した。だから、もうわたしに構わないで頂戴。あなたは既に現在の女子プロレス界の
さゆりの話が終った瞬間、水澤は目に涙を浮かべて彼女にハグをした。その身体はどこか震えていて、孤高の存在で居続ける事への不安と重責に必死になって耐えてきた事はさゆりにも十分伝わってきた。だからこそ自分よりも格上の選手を求め、闘う事で心の平穏を得ていたのかもしれない――無敵であるが故に守備に入るのではなく、常に攻め続ける
過去と現在、異なる世代同士が衝突した《
この試合に対し、水澤はコメントを求められても一切語る事は無く彼女のファンや、ゴシップ好きのプロレスマニアからはさまざまな憶測が飛び交ったが、彼女は別にそれでもいいと思った。さゆりも同様で、試合後の会見でこの一戦について聞かれた際に「どっちが勝者かって? それは観た人が決めてください」と短いコメントを残したきり二度と口を開く事は無かった。だが後日、親しい人たちの前ではこんな事を語っている。
――勝った負けたで言えば「勝った」って言えるわね。水澤との? いや違うわ、団体としてよ。だってあんな大きな団体から喧嘩を売られたけど、借金までして舞台をセッティングし、必死でチケット売り捌いてその結果、大入り超満員だったんだから太平洋女子に「勝った」って胸張って言えるわよ。それまでどこの女子プロレス団体もやった事が無いんだから当然よ。
その時のさゆりの表情は、満面の笑みだったという――
そして季節はいくつも流れ、また春が訪れる。
市民の憩いの場である大公園には桜の花が満開に咲き誇り、しばらくの間雪で覆われていたこの地域の景色をまた違った、明るい雰囲気へと変えてくれる。まだ朝晩は身を切る寒さが残るものの、日中は陽気に包まれて暖かく冬場は外出を躊躇していたような人々も、今では何の気兼ねも無く、思い思いの場所へ足を運んでいる。
そんな中、《こだまプロレス》は今年最初の野外興行を、この大公園で開催していた。
大勢のギャラリーが見守る中、肌の露出が多いセパレートスタイルのリングコスチュームで登場した神園さゆりは、暖かな日の光を全身に受け大きく背伸びをした。
――気持ちいいな。やっぱり天気のいい日は外でのプロレスよね。
どこかまったりとした空気感を醸し出しているさゆりに対し、簡素なリングコスチュームでまだあどけなさが残る先月デビューしたばかりの新人選手は、がちがちに身を固くし緊張している。そんな彼女にさゆりは肩を抱いて気持ちを落ち着かせると、目の前にいる対戦相手へちらりと視線を送るとこう語りだした。
「見てごらん、白いコスチュームを着た彼女……愛果ちゃんねぇ、あなたと同じ歳の頃にここに来たんだけどね、いっぱい負けていっぱい泣いてそれでもいっぱい練習して――今じゃ太平洋女子のタッグチャンピオンにまで成長したのよ。だからあなたも負ける事を恐れちゃ駄目。敗北を次の勝利への糧としなさい」
新人選手はかつてのさゆりの弟子――つまり自分の姉弟子である愛果ゆうへ目を向けると深く一礼する。自分の後輩である彼女の、微笑ましい行動に愛果はふと目を細めた。
愛果はあの対抗戦の後、さゆりの斡旋によって太平洋女子へ定期参戦するようになり、そこで練習と実戦経験を重ね大学卒業後に太平洋女子へと籍を移したのだ。“レジェンド”神園さゆりの寵愛を受け、エース・水澤茜にも目を掛けられる存在である愛果には同世代の選手から嫉妬されたが、それをひとりずつ己の実力で黙らせていったのは流石としか言うほかは無い。
そして現在ではその水澤とタッグを組み、何と太平洋女子認定のタッグ王座を保持するまでに成長したのだった――本日の試合の隣りにも、あたり前のように水澤が傍に寄り添っている。
「さゆりさん、今の愛果はアンタが知っているかつての愛果じゃないよ。かつての愛弟子から倒される覚悟、出来ている?」
水澤が挑発する。かつてのように自分自身にプレッシャーを掛け続けトップの重責をひとりで担っていた、狂気に近い雰囲気を纏う水澤茜はそこにはいなかった。余分な力が抜けさゆりと同様に、プロレスをエンジョイしようとする彼女は前以上に魅力的に映る。事実さゆりとの一戦をきっかけにファンになったという者も多いと聞く。やはり生まれ持ったカリスマ性は偉大である。
「さゆりさん、さっさと負けて早く譲治代表と式を挙げたらどうですか? 待ってますってきっと」
愛果もさゆりに向かい口撃するが、逆にそれが怒りに火を付けたようで彼女は愛果の髪を掴むと刺すような視線で睨み返す。
「うるせーバカ! もうちゃんと決まってるよ……今年の6月だよ。だから愛果ちゃんたち、ご祝儀よろしくお願いね♡」
ちょっぴり恥ずかしげに、しかし喜びに満ちた表情で態度とは裏腹に結婚式の報告をするさゆりだが、愛果のトンチンカンな発言にますます怒りの火が燃え広がった。
「勝利で恩返し……ってのはダメですか?」
「物理的なもんに決まってるだろ! おいレフェリー、さっさとゴング鳴らせ! 絶対愛果から一本取ってやる」
「と、いう事だから愛果。後はよろしくね」
いきり立つさゆりを見てこりゃ手が付けられない、と思った水澤はリング内に愛果ひとりを置いて、早急にロープの外へと逃げ出した。危険察知能力は相変わらず早い模様だ。
「そんなぁ~。さゆりさんも水澤さんもヒドイよぉ」
涙目の愛果をよそに、おんなたちの大混戦はゴングの音と共に開始された――
終
天気のいい日はプロレスでも―― ミッチー @kazu1972
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