第5話

 「――それではお呼びしましょう。ゴー☆ジャス譲治さんとサユリーナ選手、どうぞ!」

 清潔感を漂わせる美貌の女子アナウンサーからの呼び出しと共に、合板丸出しな番組セットの裏で待機していた譲治とさゆりがADに促され、眼が眩むほどの大型照明とテレビカメラの待機するセット正面へ移動した。ふたりはいつも試合で着用している、おなじみのリングコスチュームでの登場だ――


 《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》がマスメディアで発表されてからというもの、譲治たちの身の回りが急に慌ただしくなった。団体事務所の電話にはチケットの問い合わせはもちろん、地元や県外マスコミからの取材依頼が引っ切り無しにかかってきて、彼や選手たちは休む暇なく対応に追われていた。

 目立ちたがりという本来の性分もあり、《こだまプロレス》旗揚げ時より譲治は「地元愛を謳う謎の覆面レスラー」という“色物枠”でローカル番組にたびたび出演、それが自身の存在と団体の認知度を上げるきっかけになった事もあってか、今回もテレビ出演を中心に宣伝活動を行う事を決めた。実際、テレビに出た後のチケットの売れ方は普段の倍以上で、普段プロレス中継や、専門誌を見ない一般層に向けて情報を届けられる最良の媒体は、圧倒的に地上波によるテレビ放送であろう。

 一方で活字媒体へのアプローチも忘れてはいない。プロレスの、見た目の面白さや凄さは映像媒体だけで伝わるが、そうでないもの――譲治のプロレスに対する視点や哲学など、自身の内面を表現するのには時間に限りのあるテレビよりも、腰を落ち着けて読者が目で活字が一番いい。だからテレビ出演の合間を縫って雑誌や新聞、それにWebメディアからのインタビュー依頼を出来る限り受け、時には面白おかしく、または真面目に大会のアピールと共に自身のプロレス観を大いに語ったのだった。

 

 小洒落たカフェをモチーフとした情報番組のセットの中では、メイン司会の女子アナウンサーと共にふたりは短く編集された、《こだまプロレス》の大会の様子やアイドルレスラーだった頃のさゆりの試合を見て、ときどき尋ねられる質問や疑問に答えていた。モニターには懸命に制止する若手選手たちをものともせず、熱狂的なファン達に揉みくちゃにされながら入場する彼女が映し出されていた。

「うわっ……この時怖くなかったですか?」

「画面では平気な顔してますけど、正直ほんと嫌でしたね。試合後に“胸を触られた”って下の子たちが泣き出したりするし……試合自体よりも入退場に神経使いました」

 眉を八の字にして若干引き気味のアナウンサーに、さゆりは笑顔で当時の“裏話”を語った。映像は次の場面に移り、フィニッシュ直前の様子へと切り替わる。コーナーポストからの落下技を狙う対戦相手に、セカンドロ-プへ足を掛け弾みを付けると、突き上げるようなドロップキックを放ち落下させたさゆりは、頭を押さえふらふらと不用心に立ち上がる相手の背後を素早く奪い、羽交い絞めフルネルソンで両腕の動きを封じそのまま後方へ、綺麗な弧を描いてブリッジしマットへ沈めた――全盛期のフィニッシャーであったウイングロック・スープレックス(ドラゴン・スープレックス)が決まると画面の中に映る十五年前の観客も、それを見ていたアナウンサーからも同時に驚愕の声が漏れた。

「凄いですね! 相手との体格差をものともせず投げちゃうなんて。今度行われる試合でも見せてくれるんでしょうか?」

「出来たらいいなーとは思っているんですけど、相手があの水澤茜ですから。でもチャンスがあれば狙っていきますよ、当時わたしの一番の必殺技でしたから」

「先ほどちらりと対戦相手の名が出ましたが、さゆりさんは水澤さんの事をどう評価されてますか?」

 さゆりはしばらく上を見て考えた後、はっきりとした口調で水澤について語りだした。

「ひと言で――凄い選手です。この間試合を生で観戦しましたけど、時代云々ではなくどの選手より身体能力が高く自己表現も素晴らしい、正に完璧に近い今の時代のスターだと思っています。だからこそ彼女には絶対勝ちたいですね」

 試合が決まった以上は、年齢や休止期間ブランクによるスタミナの衰えなどを言い訳にせず、持てる全ての力を相手にぶつけた上で勝利したい――水澤との対戦に消極的だった以前のさゆりとは違っていた。家族連れで観戦しに来るお客さんの前で見せる“楽しいプロレス”も好きだけど、勝ち負けに拘る純粋ピュアなプロレスもまた楽しい。闘争心が久しぶりに燃え上がったさゆりは活き活きとし、かつての絶頂期ピークにも似た《スター》の輝きを放っていた。 



 さゆりは今回の試合に専念するため、これまで住んでいたアパートを引き払って譲治の家に“押しかけ女房”よろしく転がり込んだ。そのほうが行動が楽だし何よりも、彼ともっと一緒に居たいというもあった。こうして大会のプロモーション活動と合間を縫って道場でのトレーニングというハードな日々を送るにつれ、今まで勤めていたアルバイト先へ時間が全く取れず、働きに出る事が難しくなった。さゆりは辞めるべきかどうか真剣に悩んだが、店長との話し合いで休業扱いにしてもらった上に、何と大会チケットを50枚ほどまとめて買ってくれたのだった。

「また試合が終ったら、店に顔を出してくださいね――なんて優しく言われちゃってさ、もう泣きそうになっちゃった」 

 今日もへとへとになり、夜遅く譲治宅へと戻ったさゆりと譲治は、彼女が手早く作った夜食のうどんを食べ、“仕事”から解放された、という実感がようやく湧きあがり、それまで身体を縛り付けていた無意識下の緊張が解ける。薄らと湯気の立つ、熱い麺汁がゆっくりと喉から流し込まれると溜息と共に、冷え切っていた身体も暖まり心も何だか穏やかになった気になる。

「いい人だね、その店長。そういう人格者と親しくなっておくと、後々にピンチになったとき助けてくれるもんね……大事にしなよ」

「そうね。また仕事を再開出来るように、大会が終わるまではに専念しなきゃ」

 食器棚の壁面に張り付けてある、残り一枚となったカレンダーの、日に日に迫る大会開催日に記された赤い丸印を見て、さゆりはぽつりと呟いた。

 うどんを完食して空きっ腹が満たされた譲治は、眠気に襲われ頬杖をついたまま首をこくりこくりと上下させている。それを見たさゆりは譲治の肩を叩きベットへ行くように促すと、彼は目を擦り「うん、うん」と彼女に返事をしベッドまで辿り着くと、着ている服も脱がずにそのままうつ伏せになって倒れた。

「――今日も一日ご苦労様。そしてありがとうね」

 既にいびきをかいて眠る譲治の頬に、彼女は軽くキスをする。そして自身も服を脱ぎ淡いピンク色の寝間着に着替えると、起こさないよう静かに彼の傍へ潜り込んで眠りについた。譲治と同じく疲労困憊なさゆりも、あれこれと考え事をする間もなく瞬時に深い闇へと堕ちていく――



 暦の上では祝日である今日は、ビッグマッチが決まる以前からスケジュールの入っていたイベント《商店街プロレス》が、多くの商店が軒を連ねるアーケードの中にリングを設置して行われていた。水澤との試合を数日後に控えているこの時期に、さゆりに試合をさせるのはどうか? との声もあったが、練習と宣伝活動だけでは当日、思った通りに身体が動くかどうか心配だったし、何よりも相手は自分と闘う前に各地を廻り、何試合も行ってコンディションを整えているはずだ。さゆりは久しぶりの野外での試合やリングの感触に胸を躍らせる。

 試合は譲治とサユリーナこと神園さゆりがコンビを組み、“謎の黒覆面”HEY-ZONE・愛果ゆうとが対決するミックスド・タッグマッチがマッチアップされ、リング上では男性レスラーふたりが序盤早々激しいバトルを繰り広げていた。口無し目無しの黒いマスクと、グレー&ブラックのワンショルダータイプのロングタイツという、昭和のレスラーを思わせるコスチュームのHEY-ZONEが巨躯を活かした連続ショルダータックルやパンチ・キックといった反則ギリギリの攻撃をする一方、袖の部分に切込みの入った紫のタンクトップに、マスクと同じ赤色で揃えたパンタロンという出で立ちの譲治は、真正面に飛んでのフライングラリアットやクロスボディなど空中殺法に勝機を見い出そうとする。

「ぬぉぉぉぉ!」

 HEY-ZONEの放つカウンターのクローズラインをかわし素早くバックを取った譲治が、抱え込み式のバックドロップで相手の頭をマットに叩きつけると、ふらふらになりながら自軍のコーナーへ戻り、サードロープに足を掛け待機していたパートナーのさゆりへとタッチした。一方のHEY-ZONEもミックスドマッチのとして相棒の愛果に交代する。近年では性別の垣根が取り払われ男性×女性の対戦も珍しくなくなったミックスドマッチだが、昔気質のHEY-ZONEはこういった基本的なルールだけは厳守する。

 大一番を間近に控え、最近では彼女の姿を見ない日が無いくらい各メディアに出ずっぱりなサユリーナと《こだまプロレス》いちのアイドルレスラー・愛果が対峙すると、リング周辺のギャラリーから一際大きな歓声が沸き起こった。ふたりは熱いエルボーバット合戦に始まり、手首リストの取り合いやドロップキックの相打ちなど互いに一歩も引かず見物客を大いに熱狂させる。絶好調のサユリーナはもちろんだが、地道に努力を重ねてきた愛果の成長は著しく、少し前まではその容姿だけで観客たちの興味を引いていた彼女が、以降精神的にも逞しくなり、そのファイトぶりにも注目が集まるようになった。愛果自身も「水澤効果」によりプロレスラーとしての自我に目覚めたのだ。

「HEYさん、お願いします!」

 何度も愛果の猛攻を凌ぎ、スタミナを大幅に削られ棒立ち状態のサユリーナに、彼女はフィニッシュを決めようとパートナーのHEY-ZONEへ、進入する譲治の足止めを指示すると素早くコーナーポストを駆け上がり、身体を捻って眼下のサユリーナへと体当たりした。ダイビング・クロスボディが見事に決まり、レフェリーがフォールカウントを取るが惜しくも三つ目がカウントされる前に、HEY-ZONEのガードを振り切った譲治によって阻止されてしまう。拳でマットを叩き悔しがる愛果。

 今度はサユリーナが反撃する番だ。愛果の腕を掴みロープへ投げ飛ばし戻って来た所へ、両足を綺麗に揃えバネの利いたドロップキックを胸板へ叩き込みダウンさせると、彼女の身体をうつ伏せにさせ脚で右腕を固め、残った左腕を自分の腕でしっかりと固定し力一杯弓形に反らせた。腕や肩はもちろん上半身も捻られ伸ばされ、しかも反対の腕も固定されていて、逃げる事が出来ない愛果は足をばたばたさせて激痛に喘ぐ。HEY-ZONEが慌ててカットに入るが、そうはさせまいと譲治は顎部狙いのトラースキックで彼の出足を挫いた。サユリーナの変形羽根折り固め《フェアリーズ・ボウ妖精の弓》が完全に極まり、愛果はもはやタップするしかなかった。レフェリーが彼女にギブアップの意志を確認し、20分近くも行われた激戦は譲治&サユリーナの勝利で幕を閉じたのだった。


「ねぇ愛果ちゃん、本当に大丈夫? 息できる?」

 さゆりが心配そうな表情で、愛果のピンクのニットセーターの上から脇腹を撫でる。コールドスプレーと湿布の匂いに覆われる彼女は少し顔をしかめたが「平気です」と言って笑顔をみせた。

 《商店街プロレス》終了後、四人は打ち上げとばかりに譲治なじみの焼き肉店で食事をしていた。座敷席もある個人経営の店で、店の壁にはこの店に食事に来た有名人のサイン色紙と並んで、譲治の勇姿が映る大きなポスターも貼られている。

「うんうん、よく頑張ったまなちゃん! じゃあ一緒に飲むか」

 早くも飲んでいい気分になっている、HEY-ZONEこと平蔵はビールをグラスに注ぎ愛果の前に差し出すが、慌ててさゆりがそれを奪い取った。

「ちょっと平さん……彼女、まだ未成年だから!」

 平蔵に注意したさゆりが、手にしたビールを喉を鳴らしてぐっと飲み干すと、その「男前」な飲みっぷりに男性陣一同がおおーっ! と歓声を上げる。

「――でも愛果ちゃん、今日の試合凄く良かった。俺たちが宣伝活動で飛び回ってしばらく見ないうちに成長してるね」

 ぱちぱちと脂が焼けて、いい頃合いとなった肉を口に頬張りながら、譲治が今日の愛果の試合ぶりを褒めた。彼曰く技と技との繋ぎがスムーズになっていて、以前は次の行動に移るまでの間の長さが気になっていたが、今日の試合では彼女が次に何をするかちゃんと理解していて、止まっている時間が短くなっているのだという。

「そう、わたしも思った! ちゃんと胸を突き出して攻撃を受けるし、技の仕掛けも段違いに速くなってるの。いっぱい練習してるんだね、愛果ちゃん」

プロレスの先輩たちから今日の試合を褒められ、照れ臭さと嬉しさで愛果は少し顔を赤らめた。しかし慢心はせず、現時点での評価として真摯に受け止める。

「さゆりさんと一緒に水澤さんの試合を間近で見て……やっぱりプロレスは素晴らしいんだな、この素晴らしさを伝えるにはもっと自分が頑張らなきゃ、って。今まで対戦相手任せの部分が大きかったですが、自分でも試合を引っ張っていかなきゃと思い時間がある日は道場で、さゆりさんから教わった事を何度も復習してました」

 愛果の優等生じみた回答だが、それを嫌味を感じる事なく聞けるのは彼女の人柄や真面目にプロレスに打込む姿勢を、ここにいる皆が知っているからだ。約十か月前に愛果が初めて《こだまプロレス》に来た時からずっと、練習や実践を通じてプロレスのイロハを指導してきたさゆりは、彼女の力強く頼もしい言葉を聞いて何か達成感みたいなものを感じた。

「あとは愛果ちゃんが自分の身体に合ったスタイルを見つけ、鍛錬して、“愛果ゆう”のプロレスを創り上げなさい。なーにキャリアが長ければいいってもんじゃないわよ。自分の持っているもの全てを使って、結果的に相手を倒せればそれに越した事はないわ――これで仮に、わたしがいつ退団しても大丈夫ね」

 “退団”という単語を聞いた途端、涙目となる譲治を見てさゆりたちは大笑いした。

「ダメですよさゆりさん! 代表が泣きそうになってるじゃないですか~」

「代表をちゃんとなぐさめてやってよ、さゆりちゃん」

 皆に囃し立てられたさゆりが、叱られてしょげた子供のように身を小さくさせて、ひとり寂しく焼肉を頬張る譲治の側へやってくると、自分の胸に彼を引き寄せてやさしく頭を撫でて安心させようとする。その奇妙な光景がまた、普段の譲治からあまりにもかけ離れて過ぎていて皆の笑いを誘うのであった。


『――来週は強い寒波がこの地方を覆い、場所によっては雪が降るかもしれません……』

 カーラジオから聞こえてくる天気予報に、帰路に就くため車を走らせていた譲治は少し顔を曇らせた。もしかしたら降雪の予報が大会当日と重なるかもしれない、いくら側にバス停もあり比較的立地条件の良い場所に建っている試合会場とはいえ、ここは冬に入れば降雪する割合の高い場所柄。そうなれば当然客足も鈍り最悪チケット代の払い戻しも考えなければならない。

 打ち上げ後酔いが回り、助手席で居眠りをしていたさゆりが目覚めた。

「――あれ? 寝てた。ごめんね譲治くん」

「いいって。もうちょっとで家に着くから」

 彼女は大きく欠伸をし、固まっていた身体の筋を伸ばす。窓の外を見れば家の窓からは既に灯が消え、等間隔で並ぶ街灯のオレンジ色の明かりだけが黒く塗り潰されたこの世界を照らしていた。

「――飲み会での話の続きだけど、わたしがもし《こだまプロレス》を退団する事になったら、譲治くん……泣いちゃうかな?」

 唐突かつ子供じみたさゆりの質問に、譲治は思わずぷっと吹き出してしまう。少し間を開けた後譲治が口を開いた。

「泣かないよ。だってさゆりさんが決めた事だもん、何があっても応援し続ける。何処に行っても」

「嘘、譲治くん痩せ我慢して見栄張っているだけ。本当は胸が張り裂けそうな位辛く悲しいはず――わたし分かるもん」

 譲治の胸の鼓動が大きく波を打つ――図星だったからだ。言葉で表わさなくても、態度や顔色ひとつで胸の内が相手に分かってしまう、自分の単純さを譲治は恨んだ。

 黙り込む彼の側へ、さゆりがシートから上半身を乗り出し耳元で小さく囁く。

 わたしもあなたと離れたくない。

 譲治の目からぽろりと一滴、涙の粒が零れ落ちた。ストレートなこの言葉だけでさゆりの、自分に対する想いが痛いほど伝わってくる。彼はわざと汗を拭うふりをして腕で目を擦った。そんな照れ隠しなど全てお見通しなさゆりだったが、何も言わず窓の外に映るモノクロームな世界を、微かな車の振動に身を委ね眺めた。



 そして大会当日――

 前日には今年初めてこの地方にも雪が降り、冬の寒さも一段と厳しくなったにも係わらず、コンサートや大相撲の地方巡業でも使用されている半円型の屋根をした、中規模クラスの公営体育館前には長蛇の列が並び、今回興行をプロモートする《こだまプロレス》所属の若手選手たちは来場客たちの誘導に追われていた。

 ゴー☆ジャス譲治がぶち上げた、メジャー団体・太平洋女子プロレスとの一騎打ちが各メディアで発表されるや新規ファンはもちろんの事、神園さゆりが活躍していた頃に観ていたオールドファンからの問い合わせも殺到し、全国にいる現在そして過去の女子プロレスファンたちからこの“世紀の一戦”に注目が集まった。そして《こだまプロレス》選手たちによる、連日にわたる各方面へのチケットの懸命な手売りやプロモーター・譲治と大会の主役のであるさゆりとの、テレビやラジオなどの公共電波を使用しての宣伝活動が功を奏したのか、プレイガイドなどの委託販売分を含め用意したチケットはほぼ完売する事が出来た。この客足だと若干数用意した当日券もすぐに売り切れるだろう。入口から本館ロビーに至るまで、ぎっしり埋まっている観客たち全てが客席に辿り着くまでには、もう少し時間が掛かりそうだ――


 ――凄いっ! こんなに入ってるなんて……信じられない

 関係者以外立ち入り禁止の通路の隅でさゆりは、リングサイドやホール席、それに二階席に至るまで続々と観客が埋まっていく光景に感動していた。太平洋女子に所属していた少女時代は、多ければ多いほど自分の雑務が増えて鬱陶しく思っていた客の入り具合だが、一度プロレスを辞め社会人も経験し自分が興行に関わるようになった時にやっと、客がの有難味が身に染みて理解できるようになった。

「これが俺たちのビジネス――ってやつさ。有り難いね、さゆりさん」

 後ろから声がしたので振り返ると、まだマスクも被っていないジャージ姿の譲治がさゆりの真後ろに立っている。彼の声もどこか感動に打ち震えていた。信じられないくらいの客の入り具合を目の当たりにして、今日までの苦労や努力が頭をよぎり柄にもなくセンチメンタルな気分になっていたのだった。

「頑張ったもんね……わたしたち」

「ああ。自分の試合が組まれている・いないに係わらず、みんなよくやってくれたよ」

 譲治は身を預けるように、さゆりの肩へ両腕を回し抱きしめた。彼の温もりを背中に感じ、さゆりの内に抱えていた心身的な重圧がすーっと消えて無くなっていく。

「そうね。後はわたしが最後――お客さんに納得してもらえるような試合を観せるだけ。でしょ?」 

「うん――勝っても負けても」

 “負けても”という言葉が気に入らなかったのか、さゆりは肩に乗った譲治の手の甲を軽くつねって威嚇する。大袈裟に手を降って痛がる仕草をする譲治を見て彼女は笑った。ちょうどそこへ体育館の中を駆け回り、譲治を探していた愛果が通りかかった。

「何してるんです、おふたりさん! そりゃ二人きりでいられる時間が少ないかも知れませんが――ってそうじゃなくて、テレビ局の方が代表を探しておられますよ? 一緒に来てください!」

 来場客の誘導で忙殺されテンパってしまい、言っている事も支離死滅になりかけている愛果に、譲治は手を合わせ「ごめん」と謝まると、彼女の誘導で通路の奥へと慌ただしく消えていく。ひとり残されたさゆりは一瞬寂しそうな表情をみせたが、すぐに気持ちを入れ替えて来たるべき大一番に備え、自分の両腿をぴしゃりと叩き気合を注入すると選手控室へと戻っていった

 体育館の中ではリングアナウンサーによる会場での禁止事項等のインフォメーションが放送され始め、否が応にも観客たちの期待は高まっていく。


 始まりを告げるゴングが打ち鳴らされる中、館内照明が急に消え一面が暗闇に包まれた次の瞬間、観客席の中央部に設置されたリングへど派手なBGMと照明による演出が飾りつけられ、体育館の中は我々が生活する日常から遠く離れ、此より争いし者たちが約6メートル四方の舞台リングへと集い、互いの優劣を決する異空間バトルフィールドへと変貌する――無事定刻通りに《太平洋女子vsこだまガールズ 全面対抗戦》の火蓋は切って落とされた。


 試合は全部で6試合組まれており、前半4試合は太平洋女子の選手同士、またはこだまプロレスの選手同士の試合を交互に披露した。それぞれの団体を贔屓にしているコアなファンたちは実際に生で観る、太平洋女子の若くキュートな選手たちによる感情剥き出しな白熱した攻防や、こだまプロレスの安定したコミカルかつストロングな男女混合マッチに徐々に引き込まれていき、観戦前は罵り合っていた両ファンも文句のひとつも頭に浮かばないぐらいに、双方の団体による提供試合を楽しんでいた。

「みんな、決・め・る・ぞぉ!」

 コーナーポストに昇ったゴー☆ジャス譲治が、人差し指を周りの観客たちに向けるとそれに呼応するように館内に大歓声が響き渡る。好反応に大変満足した彼は真上に飛び上がると、真下でダウンする対戦相手へ目掛けて身体を預けるように肘をボディへと突き刺した。譲治の全体重が乗っかったダイビング・エルボードロップを喰らった対戦相手は悶絶しそのまま果ててしまい、自分の耳元で敗北へのスリーカウントを聞く事となった――ゴー☆ジャス譲治の決まらない必殺技がずばりと決まり、特に地元・こだまプロレスのファンは、レア度が高いこの光景に大興奮するのであった。

 ――あとは任せたよ、おふたりさん!

 通路側にいる観客たちとハイタッチをして、勝利を共に祝い退場する譲治は、太平洋女子の若手選手たちがマットの掃除やリング調整をする姿を横目で見ながら、休憩明けに行われる大一番《太女 vs こだまガールズ全面対抗戦》に出場する愛果ゆうと神園さゆりへ思いを巡らせる。


 15分間の休憩の後に始まった《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》の第一ラウンドである“同世代アイドル対決”と銘打たれた、《最も危険な果実》愛果ゆう(こだまガールズレスリング)と《ラブキャッチャー》来生綾女きすぎあやめ(太平洋女子)の試合は壮絶を極めた「潰しあい」となった。

 現在も大学とプロレスとの二重生活を送っている愛果とは違い、高校を中退しプロレス界入りした来生は彼女よりも実戦経験が多く、年齢的にはとはいえ修羅場を潜ってきた数が全く違う。ゴングが鳴り試合が開始されるや来生は、《太平洋女子育ち》という誇りとプライドを相手の身体に叩き込まんばかりに、大舞台に場馴れしておらず浮き足立ってしまった愛果に対し一方的に殴る蹴る、もしくは寝技でガンガンと攻めたてる。対戦相手の力量も何も考えない我儘な攻撃に、出鼻を挫かれた格好となった愛果は反撃の糸口も掴めず、ただ悲鳴を上げ相手の為すがままになっているだけだった。愛果への、こだまプロレスファンからの応援よりもさらに多い、大多数の太女ファンからは来生への声援と共に、彼女を小馬鹿にしたような野次までが飛ぶ始末だ。

 愛果はロープを背にし、レフェリーからのブレークの指示で来生が離れていくのをみると、深く深呼吸して気持ちを落ち着かせる。飛んでくるの自分への野次を耳にした彼女は、今までに味わった事の無い敵地アウェイ感に背筋がぞくぞくと震え、絶望や恐怖よりも次第に己の気持ちが高揚していくのを感じていた。

 ――太平洋女子の誇りとプライド? そんなもん関係ねぇよ。こっちだって太女の元エース神園さゆりから指導を受けているんだ。お遊戯あそびでプロレスやってるんじゃねぇ!そっちがその気ならやってやるよ!

 覚悟を決め目の色の変わった愛果は、試合が再開されるや来生の胸板へ鋭い肘打ちを叩き込んだ。己の怒りや苛立ちを凝縮させ爆発させた彼女のエルボーバットの乱れ打ちは相手を怯ませるのに十分だった。打撃と打撃との間隔が短く来生は全く手が出せずにいたが、何も出来ないフラストレーションが頂点に達した瞬間、起死回生の張り手が破裂音と共に愛果の顔を抉る。

 しかし彼女は全く動じない。

 それどころか来生の髪の毛を乱暴に掴み、フルスイングの頭突きを何度も何度も喰らわせ、相手の意識と闘争心を徐々に削っていく。端へ端へと追い込まれコーナーを背に、来生がぺたりとマットに尻餅を付いた時レフェリーは、愛果にブレークの指示を出した――今度は愛果が嗤う番だ。

 

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