第4話

 自分の挑発にまんまと乗ってきた、さゆりの姿を見て水澤はほくそ笑んだ。相手を同じ壇上に立たせただけでもひとまず成功と言えよう。だがそれでもまださゆりの“意志”は固く、次の段階へ進むには難しそうだった。

「わたしはね、一度プロレスを引退して自分の故郷であるこの街に戻ってきたなの。こんな年増女に、眩いばかりのオーラを放つ若い貴女の“引き立て役”が務まると思って?……止めておきなさい。貴女の輝かしいキャリアに傷が付くだけだから」

 先程とは違い、静かな口調で諭すように語りかけるさゆり。しかし無礼千万な水澤の“口撃”は更に続いた。

「年増女ねぇ。その事については否定はしないけど、じゃあどうしてそのがこんな現役バリバリの私よりもカメラのフラッシュを浴びているのか? それは今なお、アンタがスターの輝きを放っている他無いじゃない!」

「水澤。《スター》っていうのはね、本人の持っている能力もそうだけど、それ以上に周囲の人間の思惑と世に出るタイミング、それに運が奇跡的に合致した時に生まれるものだと思うの。わたしは貴女ほど身体能力は高くない、だけどスター選手としてたり得たのはその“方程式”が上手い事作用したからよ。時代がわたしを求めていた――ただそれだけの事」

 さゆりがそう言った直後、突然水澤はマットを片足を振り上げ、ばぁん!と白いキャンバスを力一杯に踏みつけ不快感を表した。顔には焦りの色が浮かんでいて後にこの日取材に来た記者の話によれば、リング上であれほど感情を露わにした水澤はこれまで見た事が無かったという。これが只の試合後のマイクアピールなどではなく、言葉を武器としたおんな同士による真剣勝負シュートだった事が窺い知れよう。

「 時代? タイミング? そんなもの糞喰らえよ。私はもっと今以上の存在になりたいっ! そのためにはどうしてもアンタ――《神園さゆり》という最高の相手が必要なんだ」

「貴女……言っている事が無茶苦茶ね。太平洋女子OGで未だに現役を続けている《スター選手》は他にもいるでしょ? 《天空闘姫》樋野すばる先輩や《アジアの重鎮》ガムラン獅子尾ししお、《トリックスター》喜屋武恭子きゃんきょうことかね。彼女らには対戦要望したの?」

 空中戦と変幻自在のスープレックスが売りだった樋野、巨体から繰り出すパワー殺法で対戦相手を圧殺してきた獅子尾、そして天性の明るさで幅広い層から人気のあった喜屋武……太平洋女子の《黄金時代》を彩ったスター選手たちの名前がさゆりの口から飛び出ると、直接は彼女らの全盛期を目撃していないが、ネット上に転がっている試合動画や回顧録などで見聞きし、“知識”としてその名を知る、若い観客たちから大きなどよめきが湧きあがった。だが彼女たち《レジェンド》の名を聞いても水澤の反応は薄いものだった。

「……興味が無いね。一度も表舞台から姿も消さず“昔の名前”にしがみ付き、のうのうと現役生活を送っている先輩方には失礼だけど、以前ほどの輝きが感じられない。仮に闘って勝ったところで「峠の過ぎた選手に勝利した」だけで自分の価値が上がるわけじゃない――幸いアンタは、選手として一番いい時期にこの業界から姿を消し、誰に知られる事も無く何年も音信不通だった。そしてつい最近……細々ながらも現役を再開させている事が全国の茶の間に知れ渡った。見た目も体型も、そして技の切れも当時に近いの神園さゆりが。私はそんなアンタと是非一戦交えて……勝ちたいんだ、よろしくお願いします!」

 最後はきっと素の自分なのだろう、きわめて真摯に深々と頭を下げる水澤。こんな自分にここまで礼を尽くしてくれている――彼女の想いが、痛いほどさゆりの胸に突き刺さる。女子プロレスの一線級から離れて幾年月、こんなに闘志が熱く滾るのはいつ以来だろうか? さゆりの心の中は、水澤と持てる力を駆使して闘いたい気持ちと、いち地方の兼業レスラーのまま力尽きるまでプロレス人生を過ごすかとで大きく揺れ動いていた。眉間にしわを寄せさゆりは大きく悩む。

「――ただし、水澤との対戦はあなたが太平洋女子うちに入団しないと出来ませんよ? 前にも言いましたが当団体へ入団の暁には、それ相当の権限をあなたに与えましょう。どうです? 神園さん」

 せっかくいい流れになって来た所で、“助け舟”を出すべく気の逸った緒方がリングインし、をするのだが観客たちからは本気のブーイングが自然発生する。《夢の一戦》に向けて、両者の間で繰り広げられていた熱い討論ディスカッションを社長・緒方が《企業の論理》を持ち出した事により、完全に水を差す格好となってしまった。

 リングの上では怒る水澤と緒方が激しく言い争い、そのリングの中へは不快感を露わにした観客たちから物が次々と投げ込まれる――完全に修羅場と化した試合会場を、鎮静化するにはかなりの時間を要すと思われた。

 ――わたしがここで「イエス」と言わなければこの混乱は収拾しない、しょうがないか……

 物と怒号が飛び交う客席の中、ついに覚悟を決めたさゆりはマイクを口に近付け、話し始めようとしたその時――雑音混じりの、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。

「ちょっと待ったぁぁぁ!」

 会場の一番奥から、選挙活動で使うような大きなワイヤレスメガホンを肩に掛け、付属のマイクでがなり立てながら一人の大男が威風堂々と歩いてくる

「ゴー☆ジャス譲治だ!」

「ゴー☆ジャス! ゴー☆ジャス!!」

 観客の一人がおなじみの赤い覆面を被った彼に気が付くと、今度は《ホームタウン・ヒーロー》ゴー☆ジャス譲治に対し会場の、彼を知る全ての人たちから盛大なコールが贈られた。

「ご、ゴー☆ジャスだぁ? どうやってここに入った?!」

 驚きと怒りで、顔を真っ赤にした緒方が叫ぶ。

「心配なさんな。ちゃんとチケット買って入場してるよ! しかも。そんでもっていろいろグッズも買わせてもらったし、いい客だろ俺って!」

 そう言うとリングにいる水澤をはじめ、可愛い娘揃いの太平洋女子の選手たちのポートレートを高々と掲げ見せびらかした。団体社長兼プロレスラーであると同時に、筋金入りの女子プロレスマニアでもある譲治の面目躍如だ。

 彼がリングにほど近い、さゆりの居るリングサイドの招待席までやってきた。さゆりは久々に間近で見る譲治の勇姿に、団体の主として、また男性として頼もしさを感じ胸がきゅんとときめいた。何を話しかけて良いものかと戸惑っていると、何と譲治の方から声を掛けてきたではないか。

「……待たせてごめん、さゆりさん」

 声を聞いただけで鼻の奥がつんとし、涙が出そうになるのを必死で堪え、彼の脇腹を肘で小突く。

「もう、公の前では《サユリーナ》でしょ」

 お互いが顔を見合わせ笑いあうふたりに、緒方のイライラは最高潮に達していた。気が付けばゴー☆ジャスと《こだまプロレス》に会場を乗っ取られた格好となり、支配欲が強い緒方にとって非常に許し難い状況だ。

「まだ分かんねぇかな? アンタの一言が全てを台無しにしてしまったんだよ、このハゲっ!……かといってサユリーナはウチにとっても大事な看板選手。茜ちゃんがどーこー言っても「はい、そうですか」といって簡単に移籍ジャンプさせる事なんて出来ない」

 「茜ちゃん」と軽々しく下の名で呼ばれ、ビックリする水澤へ譲治の話はまだ続く。

「だけど水澤茜とサユリーナの新旧スターの対決、みんな観たくないか? なぁ観たいだろ! そして闘ってみたいだろ? 茜ちゃんもサユリーナも!」

 ノイズ混じりで不明瞭なワイヤレスメガホンから発信される、譲治の熱い魂の叫びは、確実に観客たちの心を捉えていた。会場の至る所で「観たい!」と彼女らの一騎打ちを要望する声が上がり出し、それはいつしか「水澤」「サユリーナ」コールへと形を変え、声を枯らさんばかりの大声でそれぞれがリング上の、そしてリングサイドのふたりに浴びせかけた。

「そこでだ。おい、緒方! 次の巡業ロードで太平洋女子、ここの隣りの街へ興行に来るだろ?」

「あ、あぁ」

「その興行権、興行主プロモーターさんから無理を言って譲ってもらった。もちろん多少の金額も払ったがな。そこで《こだまプロレス》プレゼンツとして、水澤茜 vs サユリーナ……いや、の夢の一騎討ちを行う事にした! どーだ、参ったかこのヤロー!!」

 この朗報に観客たちは、会場が壊れんばかりの大絶叫で歓喜した。水澤もさゆりも少々強引だが、問題の着地点を見出だせた事にほっとし、笑顔が自然と浮かぶ。だが面白くないのは緒方だ。自分の知らない所で話が進められ、あと一歩と迫った「神園さゆり引抜き計画」も、ゴー☆ジャスの登場でおじゃんとなってしまったからだ。

「なぁに、何も心配しなさんな。あんたの所の懐は何も痛まないから、緒方。会場費用から移動費に宿泊費、選手のギャランティまでぜーんぶウチが支払ってやるんだ。文句ないだろ?」

 得意気に笑うゴー☆ジャス。だが素人目に見ても莫大な金額が発生する事は、容易に想像できる。果たしていち地方の零細企業である《こだまプロレス》に支払う能力があるのか? さゆりは心配で堪らず譲治の耳元で囁いた。

「ちょっと! 威勢のいい事言っちゃってるけどお金、本当にちゃんとあるの?」

 それに対し譲治は指で丸を作り、大丈夫とアピールするだけだった――実際の所、水澤茜ほか参加選手のギャランティに関しては太平洋女子のフロントに、かつて大学時代に譲治と《神園さゆりファンクラブ》を一緒に運営していた仲間がいて、その彼に掛け合い何とか最低ラインの金額に抑える事が出来た事。会場費や宿泊・移動に関する諸経費に関しては《こだまプロレス》に企業広告を出している協賛企業数社へ譲治自らが出向き、何度も頭を下げ協力してもらいどうにか調達する事が出来たのだという。逆にこの興行が成功しなければ《こだまプロレス》は解散クローズ、譲治も多額の借金を背負わなければならず、正に社命を賭けた大博打だ。

「と、言うわけだ。それじゃあ一月後また逢おう諸君!……帰ろうサユリーナ、愛果ちゃんっ!」

 ゴー☆ジャス譲治は得意満面の笑みで、観客からの「頑張って!」の声援に手を振って応えるさゆりと愛果を引き連れて、出入口に続く通路をファンたちの「こだまプロレス」コールを背に悠々と会場を引き上げていく。 しかし突然の譲治の乱入によって更にヒートアップした会場の大騒乱は、彼らが去った後も暫くは収まりそうになかった――

 

 エアコンの送風音が狭い車内に鳴り響く中、ふたりは無表情のままただ黙ってシートに身を委ね、灯りの消えた暗く寂しい道を走り過ぎていく。五分前に愛果を自宅前で降ろしそれからしばらく経つが、彼らの口からはひと言も発せられていなかった。

 時折咳払いや溜息が漏れるものの、会話の無いひどく重苦しい車内の雰囲気――だが見覚えのある家々の配置が譲治の目に飛び込んできた。もうすぐさゆりの住んでいるアパートに着く。彼女を無事送り届ければ、まるで心理戦でもしているかのような変な重圧から解放される、はずだった。

 アパートの手前で譲治は、エンジンを切り車を停める。

「着いたよさゆりさん。じゃあ今日はこれで」

 助手席に座っているさゆりに家に到着した事を告げるが、シートベルトも外さず顔を下に向けたまま彼女は動かない。譲治は恐る恐る肩を揺すってみたものの、それでも降りる気配は全く無く、彼は困惑の表情を浮かべる。

「ったく冗談がキツイなぁ、さゆりさんは。にしちゃいますよ俺――」

 冗談で言ったつもりの譲治の一言が、さゆりの心にスイッチを入れた。彼の肩を掴み、泣きそうな顔で頭を振って拒否反応を示したのだ。欲しい物が手に入らず駄々をこねている少女のような彼女の表情に、必死に保ってきた譲治の理性は崩壊寸前となる。

「いや……まだ一緒に居たい。連れてってよ、譲治くんの所へ」

 譲治がまだプロレスラーになる以前から応援し、憧れ、尊敬してきた女性から潤んだ瞳で「一緒に居たい」と懇願される。これを断る理由があるだろうか? 譲治は自分の肩に乗ったさゆりの手に、自分の大きく厚い掌で包み込むとエンジンをかけ、車を自宅の方へ向けて発進させる――備え付けの時計のデジタル表示を見れば既に午後十一時をとうに越えていた。


 典型的な男の子の部屋――自宅に到着し、真っ先に譲治の部屋に通されたさゆりは、男性経験はあるが「最後の砦」というべき部屋プライベートルームまで入った回数はさほど多くはない。だが雑然と置いてある衣服や無駄に飾り立てられたガラクタなど、目に飛び込む情報で直感的にそう思ったのだ。譲治はさゆりの歩く先頭で、床に散らばっている服を片付けながら空間を作っていく。

 未だ緊張が解けず固くなっていたさゆりだったが、家中に充満する譲治の匂いで安心したのか、次第に表情も和らぎ落ち着きを取り戻していく。彼女は側にあった譲治の本棚を適当に漁っていると恥ずかしくも懐かしい物が出てきた――十代最後の年に海外で撮影した最初の写真集だ。本を手に取り厚い表紙を開けると、白い表紙裏に記された自分のサインが目に入った。許可なしで勝手に自分の“宝物”を見ているさゆりを発見した譲治は、慌てて彼女の傍に飛び込んでくる。

「な、な、何勝手に俺の本見てんスか、さゆりさんっ!」

 尋常でない彼の慌てっぷりに、さゆりはとうとう笑い出した。

「いいじゃないっ!――でも懐かしいな。初めてサイパンかどこかの海外に連れて行ってもらって、しかもビキニ着せられて似合わない悩殺ポーズ取ってさ。いやぁ笑顔がぎこちないっ!」

 ベッドの縁に腰を掛け膝に写真集を置いて、ページを一枚一枚捲りながら譲治に、当時の思い出話を聞かせるさゆり。それを聞いた譲治は、この本を試合会場のグッズ売り場でサインの順番待ちを緊張しながら待っていた事を話すと、さゆりはまた笑った。

「あの時のファン層は、わたしと同じくらいか年齢高めのおじさまが多かったから、こういう写真集は需要があったのよねぇ……緒方も非常に乗り気でさ、どんどん写真の内容が過激になっていくのよ――という事はも家にあるのかしら?」

 と言われた瞬間、譲治は急におろおろと挙動不審となった。まるで突然部屋に踏み込まれた母親に、隠していた成人雑誌を捜索されるような苦々しい気分だ。至って反応をする譲治に満足したさゆりは再び立ち上がり、本棚を漁り出した。目的の品は数秒も掛からないうちに発見され白日の下に晒されてしまう。黒い表紙でアダルトチックな雰囲気の写真集――彼女が現役時代最後に出した写真集だ。タイトル文字の隙間からちらりと、彼女の裸体が見える表紙のレイアウトからも分かる通り、大胆にも全編フルヌードに挑戦した意欲作であった。掲載されている写真の多くは、人気が最高潮に達しとして一番脂の乗った状態であった、さゆりの豊かな乳房や尻、そして薄らとアンダーヘアの茂る下腹部まで全て曝け出していて、ファンはもちろん、普段女子プロレスなんて観ない一般層までもがこの写真集を買い求め、一部書店では品切れ状態になったほどだった。噂によるとさゆりの写真集で得た多額の印税で、太平洋女子は新たに移動用バスを一台購入したとも言われている。

「ねぇ、これ見て何回わたしをにした?」

 思いがけない質問に、譲治がぷっと吹きだした。

「な、何言ってるんスか? そんな事言えるわけ――」

 途中まで言いかけた譲治だったが、突然身体のバランスを崩しベッドの上に倒れ込んだ。仰ぎ見る視線の先にはさゆりの顔が――そう、彼女がわざと譲治をベッドに押し倒したのだ。これはどういう事なのか? 頭の中が混乱して思考が定まらない。

「こ・た・え・て?」

 悪戯っぽく微笑むさゆりの、吸い込まれそうなほどに黒く澄んだ瞳に見つめられ、催眠術にかかったように譲治の口が勝手に動き出す。

「5回、いや10回かな……もう勘弁してくださいよ」

 吐く息が頬に触れるほどに接近する彼女。戸惑う譲治に対しさゆりは強引に顔を重ね彼の唇に吸い付いた。舌は歯や歯茎を刺激しながら口内へと侵入、彼女の舌と譲治の舌とが絡み合い己の奥底に眠っていた官能が、舌先から脳に伝達される衝撃で覚醒される――譲治の思考は完全に停止した。

 永遠とも思える長い時間、互い同士貪りあっていた唇が離れ、つーっと一本唾液の糸がふたりの間を繋ぐ。室内照明に照らされ輝くそれは、まさに“蜘蛛の糸”のように映った。

 やがてふたりは、体内で燃え上がる欲情を解放させるかの如く、理性と共にそれを押え込んでいた衣服や下着を毟り取るように脱ぎ捨てた。目の前に現れた、印刷物でないさゆりの一糸纏わぬ姿に譲治は思わず言葉を失う。あれほど夢にまで見た彼女の真っ裸がいま目の前に存在する――これ以上の驚きがこの先あるだろうか? そう考えただけで緊張と感激で身体が震えだす。

 そんな譲治の心の内を見透かしたさゆりは、自ら譲治の分厚い胸に腕を巻き付け身体を密着させた。押し潰された乳房の柔らかさや、そこから伝達される人肌の温かみにリズム良く刻まれる心音、そして酸味がかった彼女の体臭が強張った彼の身と心を次第に解していく。「安心した?」と言葉でなく、表情で尋ねるさゆりに対し譲治は返事の代わりに口で唇を塞ぐと、そのままふたりはベッドの土台を軋ませて倒れ――夜が明けるまで互いの身体を貪り合ったのだった。


 ぶかぶかでサイズの合っていない部屋着用のロングTシャツを被り、下はショーツのままのさゆりがすぐ隣のキッチンで朝食の支度をしている――なんて光景が未だに譲治は信じられない。自分はまだ夢の中にいるのではないか? とベタな確認方法だが彼は自分の頬を思いっきり抓ってみる事にする……痛い。当然夢などではなかった。

「何してんのよ? 朝ごはん冷めちゃうわよ」

 そんなバカをやっている最中、さゆりが膳に乗せて味噌汁や焼いたアジの開き、それに出汁巻など朝食のおかずを運んできた。電気炊飯器から炊きたてのご飯が、大振りの茶碗によそられると譲治は慌てて姿勢を正し、着席したさゆりと共に「いただきます」と手を合わせ食事を開始した。まずは湯気の立った暖かい味噌汁から口にする。

 ――う、うめぇ!

 味噌汁は油揚げとワカメだけのシンプルな具であるが、何処にあったのか家主の譲治でさえ、その存在を忘れていた粉末の鰹出汁で仕立てられた味噌汁は、自分で時々思い出して作ったものより何倍も美味しかった。譲治の表情だけで、自分の作った料理の良し悪しを判断できたさゆりは「美味しい?」と感想を尋ねる事も無く、彼の幸せそうな顔を見てとても満足気だ。

 料理は女性が作るもの――と言う気はないが、さすがにさゆりの料理はどれも譲治を満足させてくれた。どれだけ今まで自分が適当に食事を作ってきたか痛感した。食材自体の旨みプラスそれを活かす調理方法、それに食してくれる人への愛情……とても彼女には敵わない。

 黙々と食事を進める譲治にさゆりが尋ねる。

「――これから、大変だね?」

「ああ。試合が行われる一月後まで、いろいろと雑務で追われる事になるなぁ」

 譲治は少し暗い顔をしたまま、味噌汁をずずっと啜った。とにかく融資してくれた方々にお金を返す為には、限られた時間の中でチケットを売って売って売りさばき、試合会場を満員フルハウスにしなければならない。それにはこの《水澤茜vs神園さゆり》を昨夜試合会場にいた観客たち、メディアを通じてこの試合を知る事になる女子プロレスファンの他、普段はプロレスを見ない、または過去にプロレスを見ていた一般層にも知ってもらい、会場に足を運んでもらう以外他はない。

「わたしも手伝うよ、譲治くん」

「いや、さゆりさんは茜ちゃんとの試合に向けて集中してもらわないと……」

 さゆりは譲治に協力を申し出るが、意固地になって拒む彼に対しとばかりに叱咤する。

「何遠慮してるの? ウチの団体が存続できるか無くなるかという一大事に、ただ練習だけして平気な顔していられるわけないでしょ! それに《ゴー☆ジャス譲治》という安定のブランドネームに加えて、全国区のアイドルレスラーだったわたしが一緒に付いて廻ればチケットもすぐに完売よ……きっと」

「本当にすみませんっ!俺の勝手なわがままのせいで」

 テーブルに顔を擦りつけるほど深く頭を下げ、涙声で感謝する譲治の姿に母性本能がきゅんと疼いた。いくら人前やカメラの前では強がっていても、自分の前だけでは弱い部分も全て見せてくれる――それがさゆりには嬉しくてたまらない。

「わたしの事を想っての行動でしょ? 責任の半分はわたしにあるんだし手伝うのが筋じゃない。それにあのまま会場の雰囲気に引き摺られて、緒方の所へ移籍した方がよかったかしら?」

 移籍と聞いて譲治は思わず、何度も首を横に振って拒否の意示を表わす。さゆりはお椀を口に付け「でしょ?」と言わんばかりの視線を彼に送り、残りの味噌汁を平らげた。


 顔を洗い着替え終えたふたりは、車に乗り込み《こだまプロレス》道場へと向かう。スポーツ紙や情報サイトでは既に発表されている《太女 vs こだま全面対抗戦》の件について、所属選手全員に自らの口で話しておかなければならないと思い、皆に召集をかけたのだ。

 道場に近付くにつれ、ネガティブな思考が譲治の頭の中に次々と湧いては消え、覆面で隠れて見えないが不安な面持ちでハンドルを握っていた。助手席のさゆりは彼の腿に掌を乗せて、不安でたまらない譲治の気持ちを落ち着かせると「大丈夫」と目配せをする――さゆりの後押しのおかげで、彼は自信を取り戻しつつあった。人前で《ゴー☆ジャス譲治》として振る舞えるだけの自信を。

 

 ――変だな? 集合時間はとうに過ぎているのに誰もいない。

 室内照明も灯っていない道場の中は薄暗く、普段であればこの時間でも選手の誰かがやって来ては練習に励んでいるはずなのに、どこを見渡しても人の気配が無い。

 この異常事態に、譲治とさゆりは顔を見合わせて不思議がった。

 道場の中で聞こえるのは、寂しく響く自分の靴音だけ。視線をあちこちに動かし誰かいないか捜してみるが見当たらない。

「ねぇ、集合時間を打ち間違えたんじゃない? 譲治くんたまにポカするから」

「なっ……! さゆりさんより俺の方が電子機器の扱い、上手いと思いますけどねぇ」

 告知の不備について互いが言い争う内に、エスカレートしたさゆりが譲治の口に手を入れ思いっきり頬肉を抓った。プロレスにおいても反則技であるこの攻撃に、あまりの痛さで彼の目から涙が滲む。

「どの口が言う、どの口が?」

「痛ててっ!く、口の中に指突っ込まないでくださいよ!」

 ……くすくすくす

 どこからか堪えるような笑い声が聞こえた。やはりこの中に誰かいる。ふたりはじっと目を凝らし、声が聞こえた方角に目をやった。練習器具の物陰に身を隠しこちらを見ている人物の姿が――それは昨晩一緒に会場にいた、団体最年少女子レスラーの愛果ゆうだった。

「おふたりさん、いつからそんなイチャイチャし出したんですかぁ?」 

 意地悪く笑う愛果に、ふたりはどろもどろになって言い訳を探すが、混乱した頭から無理矢理捻り出す言い訳はどれも決め手が無く、疑いはますます深まるばかりだ。

「ほら、ゴー☆ジャス代表もさゆりさんの腰に手なんて回しちゃって――もう、付き合っているのバレバレですよ? みんなにも」

「みんな……にも?」

 愛果がぱちんと指を鳴らすと室内の電気が灯され、それまで笑いを必死に堪えて隠れていた《こだまプロレス》所属の男子&女子レスラーたちが一斉に現れ、祝福の拍手や冷やかしの指笛をふたりに浴びせる。周りが自分たちを祝ってのは理解できるのだが、次から次へと湧いてくる疑問に笑う事も怒る事も出来ないふたり。

「ようやく引っ付いたか、おふたりさん」

「前の秋祭の時で決着けりが着くと思ったのにな、全く遅ぇよ代表」

「今度はいつふたりが結婚するか賭けよっか、みんな?」

 外野に散々好き放題言われ、ようやく怒りに火の付いた譲治は大きな声で怒鳴り散らした――はにかんだ笑顔で。

「お前ら! そんな事する暇があったらとっとと練習しやがれ、コノヤロー!」

 腕を振り上げて、笑いながら逃げる選手たちを追いかけ回す子供のような譲治に、さゆりはひとつ咳払いをして彼に「本来の目的」を遂行するよう促すと、ぴたりと足を止め真剣な表情で、自分の周りへ輪のように集まる選手たちに話しだした。

「みんなもスポーツ新聞やネットで目にしたと思うが、来たる一か月後にウチのサユリーナと太平洋女子の新世代エースの水澤茜との試合をメインとする《太女 vs こだまガールズ全面対抗戦》を、我が《こだまプロレス》の主催で行う事にした」

 道場内は譲治の発言に静まり返る。物事が突飛すぎて想像が追い付かないのだ。しかし対抗戦を行う事には誰も異を唱えない。

「図々しくも太平洋女子あちらさんは、我が団体の女子部の柱である彼女をヘッドハンティングするため接触し、挙句の果てにマスコミや観客を使って彼女を取り囲んで移籍を迫り、イエスと言わざるを得ない状況を作るに至った。これは非常に許し難い事態である」

 会場で一部始終を目の当たりにしていた愛果が、両方の拳を握り彼の話に頷いている。

「みんなにはギリギリまで秘密にしていて申し訳ない。どうしても俺ひとりでサユリーナ……さゆりさんを守ってやりたかったんだ」

「――ホント水臭ぇよ、代表」

 坊主頭の巨漢レスラー――団体で最年長の里中平蔵がぶっきら棒な口調で、譲治の話に割り込んできた。人生に於いても、またプロレスラーとしても大先輩の平蔵に譲治は深々と頭を下げ謝った。

「平蔵さん、本当にすみません」

「チケット――売るんだろ? 俺たちが頑張って捌いてきてやっからよ、代表とさゆりちゃんは興行の成功の為、時間ある限り宣伝活動してこいよ。頼んだぜおふたりさん!」

 選手たちからは、平蔵の意見に賛同する声が次々とあがった。《こだまプロレス》を守る事、そしてさゆりが代表となってメジャー団体のエースと闘う、この興行を成功に導くために皆一丸となって事を決めたのだ。彼らの心意気に譲治は感激で胸がいっぱいになった。こんなヘタレなリーダーでも黙って付いてきてくれる所属選手たちには感謝してもしきれない。

 譲治の隣りでは、彼の着ている濃紺のジャケットの裾を掴み感涙するさゆりの姿があった。既に譲治のパートナーとしてのを漂わせて。

 ――わたし、やっぱりここに残ってよかった 

 それは自分の判断が、決して間違っていなかった事を確信した瞬間であった。 

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