第3話

 ――はぁ、もうつまんない。

 スマートフォンを耳に当てるのも面倒になり、シーツに置いてスピーカー機能にして会話を続けたが、いつ終わるとも知れない緒方の話にさゆりは辟易としていた。何でそんなに話す事があるの? というくらい、彼が口にする話題はいろいろな方面に広がっていて、話の内容が核心に迫って来たかと思うと別の所へ飛んでいったり、またはその逆だったりして聞く者の気持ちを惑わせる。気の短い相手だったら怒って途中で電話を切ってしまうか、言い分をさっさと聞き入れて話を終わらせようとするかどちらかだろう。

 緒方の話の八割は近況報告で、自分の団体の経営状況や現在推している自選手の紹介など、旧知の仲である彼女が話相手だからかいい事や悪い事、包み隠さず全てさゆりに聞かせた。団体経営という激務からくるストレスを彼女に吐き出す事で解消するかのように。

 いきなりシビアな問題を突きつけられるのか? と最初、強く警戒していたさゆりは終始、こんな調子での電話に正直拍子抜けしてしまった。

「ニュースで観たけどさ、さゆりちゃんあんまり体型変わってないよね? よかったよかった」

「そりゃあ……まぁ、適度にトレーニングはしてますもんで」

 そうなのだ。フルタイムのプロレスラーとしての活動はとうに停止しているが、ほぼ月イチでリングに上がっているさゆりは、現役時代とはその内容も所要時間も比較にならないが、それでも怪我をしない身体作りのためのトレーニングは欠かしていない。

「以前ウチにいた《天空闘姫てんくうとうき樋野ひのすばるみたいに倍近く肥えちゃったら、もう見る影ないからね」

 その全盛期には、モデルを思わせるような顔立ちの良さとスレンダーな身体で、長い黒髪をなびかせながら空中殺法と、各種スープレックスで男性ファンたちを魅了していた、さゆりにとっては直近の先輩である樋野の話題に、自分でも「その通り」だとは思っていてもさすがに声を出して笑えない。

「――それで結局わたしに何の用なんです? 太平洋女子たいじょ時代の話を久々に出来て楽しかったけど、まさかそれだけじゃないでしょうね……緒方さん?」

 とうとう痺れを切らしたさゆりは核心に迫った。

「大方の内容はゴー☆ジャスくんから聞いた通り、いまウチは大変なに悩んでいるんだ。今いるエース級の選手たちが全く駄目というわけじゃないが、太女ファン以外のプロレスファンたちにもその名が届いているか?と言えば首を傾げざるを得ない。もっと団体という枠を突き抜けて、業界全体にその名を轟かせるような|選手が欲しいんだよ」

 彼が口にする救世主スター願望は、どこの団体経営者も一度は思うはずだ。仮にひとりでもそんながいれば、自分の所はもちろん、この業界全体に注目が集まりそれによって市場は活気付き懐具合も潤うだろう。だが実際は《プロレス》という特殊な競技の中において、現在《女子プロレス》は更に狭いファン層からしか。そんなミニマムな市場の中で、大小様々な団体が数少ない観客たちを奪い合っているのが現状である。だからこそ――この閉塞的な状況を打破できるようなスター選手を緒方は誕生させ、老舗・太平洋女子プロレス此処に有り! という事を知らしめたいのだ。

「スター不足って……随分贅沢な悩みね。今太女でメインを張っている水澤茜みずさわあかねちゃんじゃ不満なの? あの娘、結構いいセンスしてると思うけど」

 さゆりは現在太平洋女子でトップの座に君臨する、《マーメイド・スプラッシュ》と呼ばれ男女問わず人気のある水澤の名を口にした。まるでティーンズ向けファッション誌に登場するモデルのようなビジュアルや、他の所属選手と比べ頭ひとつ抜けたテクニックは、全盛期のさゆりや過去に太女マットを彩ったスターたちと比べても何の遜色もない、まさに《スター》と呼ばれるに相応しい逸材である。

 だがそんな彼女でも、緒方にはまだ「何か足りない」と感じているようだ。

「僕が“一番いい時代”に“凄い選手”たちと共に過ごしたからかも知れないけれど、スケール感っていうのかな? 輝き方が足らないように思うんだ。カリスマ性、人間力、運動能力、舞台映え……それが何だか分からないけど、とにかく僕にはそう感じる」

「それで――わたしにどうして欲しいのよ? 」

「その“スターの原石”である茜を、プロレス界に“電撃復帰”した元スター・神園さゆりが、対戦なりタッグを組むなどして、彼女を本物のスターへレベルアップさせるために手を貸して欲しいんだ。もちろんそれなりの待遇はする」

 ついに本題に入ったか――さゆりは身を固くする。だけど歳も重ねて今のとしての生活もある現在、近隣会場へのスポット参戦ならともかく、おいそれとをするために中央へ戻る事なんて簡単には出来ない。彼女はその旨を緒方に伝えたが、グッドアイデアと信じている彼はなかなか引き下がらない 

「とにかく一度会場に来てくれないか? 近々だと……今月中頃に君の住む街にある市民ホールで興行がある。だから絶対に来てくれ、歓迎するよ」

 そういうと長かった緒方との電話はやっと幕を引いた。静かになったスマートフォンを見て気が抜けたさゆりは、ふわりと脱力しそのままベッドへ横になった。

 ――変な感じ……物事が急に動き出して現実感がまるで無いわ。今までの生活が壊されそうで何だか怖い。

 強く目を瞑って、強引に眠りに付こうとするさゆり。全てが夢なのだと自分自身に思い込ませるように。


「あれっ、今日は譲治くん来てないの?」

 天井の照明に照らされそのボディを鈍く輝かせる、ウェイトトレーニング用マシンに腰を掛け、上半身を捻ってストレッチをしている《こだまガールズレスリング》での“教え子”愛果ゆうにさゆりは尋ねた。彼女は今日、仕事が休日でまる一日空いているので、トレーニングをするために朝から道場へ顔を出していたのだった。

「はい、朝からまだ一度も顔を見てませんが」

「何やってんだか……まったく弛んでるわね」

 怒っているような口調でひとり文句を垂れた後、さゆりは備え付けのシートに座りマシンのハンドルを握ると力を込めて上下に動かした。外気の寒さに触れ縮んでいた筋肉と血管がみるみるうちに拡張していき、ボディラインがはっきりと出るノースリーブ型フィットネスウェアの胸元や顔からじわりと汗が滲みだした。呼吸をリズミカルに出し吐きし、鍛えたい部分を重点的に負荷を掛け徹底的に身体を虐め抜いていく。

「サユリーナさん。代表、昨夜も夜遅くまで商工会のおエライ様と会食していて、最近お疲れ気味なんすよ」

 トレーニングに励むさゆりたちの前を、シャワー室で汗を流し終えさっぱりした顔で通りすぎようとしていた、同僚の男性レスラーが彼女の存在に気付き譲治の近況を知らせた。いつもなら必ず道場に居て、顔を合わせればバカな事を言い合う「居て当たり前」な存在である譲治の姿が無いという、得も言われぬ寂しさといったらない。

「そう……また何かでっかい事企んでいるのかしらね。身体壊さなきゃいいけど」

 そう呟くと、さゆりは再びマシンとの格闘を再開しはじめた。一定の拍子を刻んでいく器具の可動音に意識を没頭させ、まるで雑念を追い払うかの如く一心不乱にトレーニングに励んでいく。彼女の隣りで同じマシンを用い練習をする愛果は、そんなさゆりの姿に何処か痛々しさを感じるのであった。


 数種類のマシンを使用した本日のトレーニングも終了し、道場を後にし目抜き通りにくり出したふたりは、さゆり行き付けのカフェでティータイムを楽しんでいた。道路沿いに面する、開放感のある大きな窓の側の席に座った彼女らは、暖かいダージリンティーと甘ったるい香りのするシフォンケーキを交互に口へ運びつつ、多種多様な内容の会話ガールズトークに花を咲かせる。時には真剣な眼差しを向け、または周りに憚らず大爆笑したりと、彼女たちは一秒たりとも同じ表情には留まらない。

「そうかぁ、大学生もいろいろ大変だね。わたしなんて頭が全然良くなかったから、高校中退してプロレスの道に入っちゃったけど」

 愛果が楽しそうに話すキャンパスライフに、さゆりは自ら途中で高校生活を辞めてしまった事をちょっぴり後悔する。愛果は愛果でさゆりの話す過去のプロレスラー生活に興味があり、彼女に対しいろいろと質問をぶつけてみた。新人時代の合宿所生活や地方巡業、そして他のスター選手の裏話など――さゆりは隠す事もぼかす事もせず、自分が直接体験、見聞きした事を笑いも交えて愛果に聞かせるのだった。

「……まぁ、それなりに大変な事もあったけど、そんな“時代”があったからこそ今の《神園さゆり》があるって自信を持って言えるの」

 愛果の瞳はきらきらと輝いていた。これまでにも何度かさゆりから同様の話は聞いているが、自分の知らない、華やかな彼女の現役時代の思い出話は、いつ聞いても愛果の想像力を刺激させ――未来への夢をかき立てる。

「愛果ちゃんは――プロレスラー志望だったっけ?」

「はい。今もここで月に一~二回上がらせてもらったり、大学のプロレスサークルでをしてますけど、やっぱり将来はフルタイムで活動したいです」

 一点の曇りも躊躇もなく、自分が抱いているを嬉しそうに語る彼女を見ていると、さゆりは若者だけの特権である「根拠のない自信」を羨ましく思うと同時に、ここでのプロレス活動で何かひとつを残せたのではないか、という気分にさせてくれる。

「それじゃあ……さ、今度ここに来る太平洋女子の大会、一緒にいかない?」

「さゆりさんチケット持ってるんですか? 是非お供させてください!」

 思わずテーブルに手を突き、身を乗り出す愛果。いくら緒方が「人気低迷」だの何だのと言っても、やはり地方においては太女のブランドの威力は絶大である。

「偶然知り合いから招待席のチケットをいただいたの。でもよかった……愛果ちゃんが喜んでくれて」

「当然ですよ、何てったって生で水澤茜の試合が観られるんですよ? 雑誌や動画でなく実際に目の前で!」

 ――ほぉ、やっぱり水澤の人気って凄いじゃない。

 元選手やマスコミからの評価でなく、実際にファンの意見を直接聞いたさゆりは、やはり水澤茜は自分や、同時期を生きた選手たちに続く、《スター》と呼ぶに相応しい逸材である事を認識するのだった。

からの質問だけど、水澤のどこに魅力を感じるの?」

「そうですねぇ……ビジュアルや空中殺法ももちろん魅力ですけど、どんな相手でも一歩も引かない度胸の強さや、エースとして団体を引っ張っているリーダーシップでしょうか」

 なるほど、と感心しながら愛果の語る水澤評を、黙って聞くさゆり。実際には雑誌の記事や人伝てで彼女の噂を聞くだけで、見た事も会った事も無い。彼女の話を聞いている内にだんだんと水澤に興味が沸いてきた。

「もし……もしもの話よ? わたしと水澤とが闘う事になったら、愛果ちゃんどう思う?」

 一瞬びっくりした表情になる愛果だが、すぐに冷静さを取り戻し顎の下に指を当て、少しの間熟考する。

「うーん、“知り合い”が闘う事については素直に嬉しいと思いますけど、女子プロレスファンの目で見れば……新旧スター同士の対決は一度きりで十分かな? 仮にその試合でインパクトを残すようだったら、次もその次も見たくなるかも知れないですが」

 純粋なファン目線からの意見に、さゆりは黙って耳を傾ける。やはり《名前》があれども体力的に旬の過ぎたに、太平洋女子の現エース様のライバル役には無理があろうというものだ。その辺は自分も、緒方から話を聞いた当初からの意見と同様である。一番身近なファンからの意見――それが大多数の意見だと仮定しても、自分と水澤との「世代間ライバル抗争」があまりにも事が分かり切っているのに何故、緒方は自分を必要とするのか? やはり当日会場で直接確かめなければならないようだ。


 店を出たその後に「大会当日に現地集合」と愛果に告げ、ふたりは最寄のバス停で別れると、さゆりは自宅までの道程を徒歩で帰る事に決め、軽やかな足取りでぶらぶらと散策しながら繁華街を歩く。今日は天気も良く、朝晩と比べれば幾分過ごしやすい気温ではあるが、それでも街を歩く人たちの服装は暖かいものへと変わっているし、コンビニエンスストアやドラックストアに設置されているチラシは、クリスマスケーキやおせち料理の予約を謳い、季節の移ろいを視覚的に実感させた。さゆりは街に立つアルバイト学生から、金融業者の広告が入ったポケットティッシュを受け取っている最中、信号待ちしている沢山ある車の中に見覚えのある顔を発見する。

 ――あれ……譲治くん?

 目の部分が大きく開いたマスクを被り、落ち着いた色のスーツに身を包んだ譲治が、何か考え事をしているのか両腕をハンドルに、そのまた上に顎を乗せてぼおっとしていた。車内の彼の姿から察するに少々お疲れ気味の様子だ。信号が赤から青へと移り変わったがしばらく気も付かず、停車させたままの譲治へ後続車からクラクションを鳴らされて、はっと我に返り慌てて発進させる彼の姿を見ていると、さゆりはかれこれ数日間も自分と顔を合わせない譲治への苛立ちと、オーバーワークによる健康面の心配で、何だか胸が締め付けられるような思いになるのだった。



 白い塗装がまぶしく輝く、近代的な風合の市民センターの中では本日興行を行う太平洋女子プロレスの若手選手らが、自分たちが試合をするリングやグッズ販売をする売店などの会場設営に追われていた。そんな慌ただしい最中にさゆりと愛果は、緒方の厚意で設営途中の会場へ入れてもらっていた。特に見る物全てが新鮮な愛果は終始興奮し放しで、グレーのスーツを着たさゆりに対し逐一質問をし苦笑させた。

「――紹介するよ。これがうちを代表する選手、水澤だ」

 緒方に連れられ団体支給のジャージ姿で現われた、現在の太女のトップエベンター・水澤茜はやはり他の人間とはレベルが違う。会場ですれ違う幾多の選手たちからはないオーラというものがびんびんと感じられる――さゆりは水澤を目の当たりにしてそう思った。

 緒方の隣で水澤は、ぶっきらぼうな表情で視線を下から上へと動かし、さゆりをじっくり観察するとふん、と鼻で笑いつまらなそうにを述べた。

「へぇ……随分となんスね、神園さゆりさんって。以前にウチん所のスター選手だったと聞いていたから、凄く期待してたんスけどね。ちょっとがっかり」

 横柄な口の利き方に困惑する緒方を余所に、自分はメジャー団体・太平洋女子プロレスのトップを取っている、という自信の表れなのか、さゆりに対し先輩を先輩とも思わぬ見下したような態度を取る水澤。これにはさゆり当人よりも“愛弟子”である愛果が反応した。

「ちょっと! 失礼じゃないですか、大先輩に向かってその口の利き方はないじゃないですか?!」

「ん? 誰よあなたは。くっ付いてきただけの“お味噌”は黙っててよ」

 新人女子プロレスラーだとは事前に、緒方からは簡単に聞かされていたが、正直彼女の事など1ミリも知らない水澤は、「お前なんて眼中にない」とばかりに鬱陶しそうに愛果を邪険に扱った。顔色がみるみる変わっていく彼女を見てこのままではまずいと判断したさゆりは、怒り心頭で今にも殴りかからんばかりの愛果の首根っこを掴み、無理矢理自分の後ろに下げるといいから落ち着けと叱った。緒方は緒方でこのちょっとした“衝突”で、さゆりとの“交渉”が破談になるのではないかと気が気でならない。

「水澤、お前いい加減に――」

 そう言いかけた途中、水澤は緒方の顔を手で遮って気を逸らした。喉元まで出掛かった彼女への注意を遮られた緒方は、その傍若無人さに空いた口が塞がらない。

「わかってますよ、社長。それじゃあ私はこれで――」

 水澤は憮然とした表情のまま、ほんの一瞬さゆりに一瞥をくれた後、くるりと踵を返し早足で控室の方へ戻っていく。最後まで礼節を弁ない横暴な態度でさゆりに接した、彼女の我儘さに怒り心頭の愛果とは対照的に、当の本人はそんな彼女を「面白い奴」とばかりに不敵な笑みを浮かべていた。

「――まぁ仮にもトップを張ってるんだし、あれくらい我が強くなけりゃやっていけないわよね」

 すっかり白けきったこの場の空気を一変させようと、さゆりはわざと大きな声でこう言って笑った――もちろんここにいない、水澤にもしっかり届くように。


 腹の底まで振動が伝わってくる音響効果に目映いばかりの華やかな照明。高性能・最新鋭の舞台装置に彩られ、まるでコンサート会場と間違わんばかりの会場の雰囲気にさゆりは、資本の豊富なメジャー団体とそうでないローカル団体との圧倒的な差を、自分の眼や耳そして肌で直接感じた。野外オープンでの興行の多い《こだまプロレス》は全年齢を対象とし、分かりやすいキャラクター作りやレスリングの内容で、誰がいつ観ても楽しむ事が出来るドサ廻りの大衆演劇的な感じだが、今観ている太平洋女子プロレスはさゆりの活躍していた時代から、経営陣が世代交代したのか“娯楽”という日本語よりも、“エンターテインメント”というカタカナ語がピタリとはまるくらい洗練されており、周りの観客たちも自分よりも高年齢の客は招待客以外はあまり見られず、むしろ愛果くらいのハイティーンから三十代前後までの若い層で占められていた。

 それよりも、さゆりが気になっているのが記者の多さだ。単なる地方巡業のひとつであるにもかかわらず、専門誌をはじめスポーツ紙やWebメディアなど、知っている名前から初めて目にする会社まで様々な場所からこの地に集まっていたのだ。

 ――緒方の奴、わたしが、水澤あいつの挑発から取り囲んだわね。

 外堀を埋めていくような緒方の狡猾な手口に、さゆりは思わず渋い顔を見せる――既に全て手配済み、というわけだ。昔から自分の「商品価値」には全く無頓着だったさゆりであるが、この大袈裟に思える程のお膳立てには、さすがに自分が元・人気アイドルレスラー……約十五年前の人気絶頂時、ブロマイドやビデオなど関連グッズの売り上げが他のどのレスラーよりも多く、またテレビのバラエティ番組に何度も顔を出し一般層にもその名が知れた《奇蹟の女子プロレスラー》神園さゆりである事を自覚せずにはいられなかった。

「――本日のメインエベント、三十分一本勝負を行います。青コーナーよりビアンカ・レヴィン選手の入場ですっ!」

 モデル然とした容姿の、美人リングアナウンサーがリングの中央でコールすると、入場ゲートに設置された炭酸ガス噴射装置が作動し、勢いよく白いガスが吐き出される中、青い光を浴びてモヒカン気味の金髪を振り乱し、鍛え上げられた筋肉の装甲に固められた《装鋼麗女》《北欧の核弾頭》ビアンカ・レヴィンが雄叫びを上げて登場する。彼女は持ち前のパワー殺法でいろいろな団体や国を渡り歩き、その活動はプロレスだけに留まらず、度々総合格闘技のリングにまで上がる強者である。

 ビアンカがリングに上がり、ぐるぐると周りを旋回し観客を威嚇している最中、急に会場の照明が落とされ漆黒の闇に包まれる。そしてピンスポットが移動しリングアナウンサーに当てられ――観客たちが待ちに待った《マーメイド・スプラッシュ》水澤茜がコールされた。

 彼女の熱く燃える情熱パッションを表現するかのような赤色のスポットライトが、ファンたちの声援に応えながら入場通路を歩いている水澤を追っていく様は、まるで活火山の溶岩のように見えた。スピーカーで大増幅された、入場曲の激しいビートを己の体内に共鳴させ彼女のテンションは会場の興奮と比例するようにますます上がっていく。

 これが太平洋女子プロレスの、新世代メインエベンターなのか――彼女の内から湧き上がるカリスマ性と舞台装置の効果が相まって、持っている以上の輝きを放つ水澤の姿に、さゆりは思わず立ち上がりつい見惚れてしまっていた。そして同時にこうも思った。

 すっかり緒方に、スター不足なんて全くのデタラメだったんだ――と。

 水澤がリングサイドを周回しリングインする直前、フェンスを間に挟んだ僅か数メートルの距離でさゆりと一瞬目が合った。視線を感じ我に返ったさゆりは、口を一文字に固く結び背筋を伸ばして彼女を見つめると、にやりと口角を上げて笑っただけでそれ以上の展開は無く、再びリングサイドの観客たちとハイタッチを行いながら、闘いの舞台へと歩みを進めた。

 両者へのコールも終わり、レフェリーによるボディチェックも済んだ後、理性という鎖で縛られていた闘争心を解き放つように、試合開始のゴングが鳴らされた。

 まずはビアンカが、トップギアで水澤にめがけて一直線に突進する。槍のようなタックルをスピアー放ち彼女を一瞬宙に浮かせるとそのままマットへと叩き付けた。決して気を抜いていたわけではないが、それ以上にビアンカのスピードは速く水澤は対応が遅れてしまったのだ。頭を強く打ち付け苦悶の表情を浮かべる。

 フィニッシュへの序章的な技で使用されるスピアーを、試合開始早々に繰り出したビアンカは明らかに早期決着を狙っていた。彼女は日本での巡業の直後に米国で開催される、MMA総合格闘技のビッグイベントに出場するために数か月も前から、格闘技仕様のファイトスタイルへとチェンジすべく猛特訓を積んでいた。それ故にプロレスでなく、相手の攻撃になるべく付き合わず「倒して殴る」総合格闘技に近いファイトとなり一気に試合の緊張感が高まった。

 ダウンした水澤の身体へ馬乗りになり、ビアンカはグローブのような大きな掌を左右の腕から彼女の顔を狙って振り下ろす。パンチではなく掌打なので反則のカウントは取られないが、それでもヒットすれば頭部への衝撃は相当なもので、水澤は前腕を前に出しガードするのが精一杯でビアンカの攻撃に成すがままとなっていた。リング上の惨劇に、ファンの女の子たちの悲鳴が客席から飛んだ。

 このまま圧倒的なパワーの前に水澤は屈してしまうのか……? さゆりはじっと目を凝らし試合の成り行きを見守った。ビアンカの非プロレス的な動きに何も対応出来ず、負けてしまうのであれば「それだけの選手」だったとファンは思うだろうし、逆に負けたとしても何かひとつ、相手に爪痕のひとつでも残す事が出来たら彼女の商品価値は今より更に上がるはずだ。

 ――さぁ、ここが正念場よ水澤。

 悲鳴と声援が混じり合う、会場の喧騒にこのさゆりの呟きは、隣りにいる愛果はもちろん、他の誰にも気付かれる事なくかき消されてしまう。

 何度となく重量級の掌打を放つものの、懸命なガードによって頭部への攻撃がままならないビアンカは次第に焦りだした。そして攻撃の精度も落ち始めたその時、水澤は不意に放った掌打のひとつをキャッチすると、自分の脚を彼女の首に絡め一気に締め上げる――三角締めの体勢に入った。普段は派手な空中殺法ばかりが目について少々水澤の事を舐めていたビアンカだったが、総合格闘技の素養もある事に驚きパニックを起こし暴れ出した。だが動けば動くほど彼女の脚や自分の腕が、首を締め付け意識はどんどん薄くなっていく。

 この危機的状況に抗うため、そして自分自身に活を入れるため奥歯を強く噛み締めビアンカが叫ぶ。

「ウガァァァッ!」

 見えないエンジンをフル稼働させて身体中にエネルギーを送り込み、何と水澤をぶら下げたまま持ち上げ立ちあがったビアンカ。この信じられない光景に会場中にどよめきが走った。ウザったい水澤を自分の身体から引き剥がすべく、《装鋼麗女》は彼女を掴み高く持ち上げマットに叩き付けようとするが、身体が最高地点まで達したその瞬間、水澤は自ら技を解きくるりと後方回転して着地すると、間髪入れずに顎狙いのドロップキックを敢行した。下から突き上げるような彼女の飛び蹴りは見事顎にヒットし、ビアンカの巨躯が音を立ててマットに沈んだ。

「よっしゃ、いくぞぉーっ!」

 水澤は喉が張り裂けんばかりの大声で、会場の隅々まで自分の優位性をアピールするとまだ足元のおぼつかない、《装鋼麗女》の髪を掴んで無理矢理立たせフルスイングで彼女の頬を張った。どこにこの細い身体に力が宿っているのか、頬を張られたビアンカの顔は圧力で歪み大きく首を反らせる。

 この一発で目の覚めた北欧の女巨人は拳を握り、反則のパンチを右へ左へと繰り出すがすっかり覚醒してしまった天才・水澤茜の敵ではなかった。面白いように彼女の打撃は全てスルーされ逆に掌打のコンビネーションを喰らう羽目になってしまう。水澤はビアンカの腕を掴むと対角線上のコーナーマットに目掛け、彼女の身体をハンマー投げのように振り飛ばすと、がしゃん! という金属音が聞こえたかと思うと背中をコーナーマットに強打したビアンカはゆっくりと腰を下ろしていき、顔を痛みで歪めマットへ仰向けに寝そべった。

 この場にいる、全ての人たちの視線は鉄柱に昇る水澤を追っていた。これから何が起きるのか、さゆり以外の観客たちは既に分かっているが、それでも皆期待せずにはいられない。最頂点まで登り終えた彼女は不安定な足場にも拘わらず、バランスを保ったまま直立し目下の標的ターゲットを確認すると指で拳銃の形を作り、自分のこめかみに当て発砲する仕草を見せた後、背を後ろに向け宙へ舞った。身体を伸ばした状態で二回転捻りして落下する水澤は、目測を誤る事無く正確にビアンカの身体へ胸から着地をした。エドガー・アラン・ポーの小説の名を拝借した、後方伸身二回宙返り二回ひねりの高難度の必殺技フィニッシャー《メエルシュトレエム》がずばりと決まった瞬間、頂点マックスまで登りつめた観客ひとりひとりの興奮が遂に爆発し、大歓声となって会場全体が激しく揺れたような感覚に陥った。

 レフェリーはすかさずマットを三度叩き、水澤のピンフォール勝ちを高らかと宣言した――試合時間は10分にも満たなかったが、それでも序盤の総合格闘技のような緊張感のある攻防や、誰もが待ち望んでいた必殺技の《メエルシュトレエム》が見れた事で気にもならなかった。コーナーポストに昇り、全身を使って勝利の歓びアピールする水澤に皆、賞賛の拍手を惜しみなく贈り続けた。

「すごい!凄いですよね、やっぱり水澤茜は」

 目は潤み顔を紅潮させて、興奮した様子でさゆりに話しかける愛果。開場前に起きた水澤との悶着などすっかり忘れ、いち女子プロレスファンに戻っている彼女にさゆりは只々苦笑するしかなかった。水澤茜の実力を目の当たりにしたさゆりは、彼女こそが新世代のスター候補であるという確信を得たと同時に、何故旬の過ぎた自分がそんな彼女の“ライバル候補”として太女からピックアップされたのか? という疑問が頭の中で渦巻いていた。

 リング下からマイクロフォンが、スタッフによって水澤に手渡された――さゆりの胸の鼓動が急に速度を上げ始める。いよいよここからが“本番”だ。

「愛果ちゃん――」

「はい?」

 ふいに自分の名を呼ばれた愛果はさゆりの方を向くが、彼女はリング上を見据えたまま動かない。

「これから――何が起きても、決して慌てないでね?」

 静かにそう言い放ったさゆりに愛果は、どういう意味なのか理解できず、イエスもノーも返せないまま彼女の姿を見つめる他は出来なかった。

「――ご来場の皆様。本日はお忙しい中太平洋女子プロレスに足を運んでくださいまして、まことにありがとうございました。こうして皆様の声援のおかげで勝利する事が出来たわけでありますが、まだ自分には足りない要素がある事がわかりました。それは――この団体以外、女子プロレスファン以外の人々にも自分の名を広く知らしめる事が出来る“知名度ポピュラリティ”です!」

 観客たちからはおおーっと、重低音のどよめきが起こる。

「本日対戦したビアンカは、地上波のテレビでも放映されている、総合格闘技の試合に度々出場していて「プロレス」という枠を超えてその名前が知られていますが、私がいくら数千人の観客を会場に呼べても、結局その数千人しか私の凄さを知らないのが悔しいのです。だから今回、この会場に私の名を更に高めてくれるであろう人物をお招きしました――のアイドルレスラー……《フェアリー・ファイター》神園さゆり、出てこいっ!」

 水澤が名を叫んだ瞬間、さゆりの座っているリングサイド席にスポットライトが照射され、彼女の姿は白い光に包まれる。同時に各マスコミが派遣したカメラマンから一斉にフラッシュが焚かれ、それはまるで青白い花火のように見えた。

 思いがけない突然の“ビッグネーム”の登場に、《こだまプロレス》でその名を知っている地元民や、近隣の土地からこの会場に駆け付けた女子プロレスファンたちは、大きな歓声と拍手で歓迎の意志を表わす。

 一体何が起こったのか、まったく思考が追い付かず目を白黒とさせる愛果をよそに、さゆりは手渡されたマイクを持ち静かに立ち上がり――リング上の水澤に向かい叫んだ。

「それが……それがわたしをここに呼んだ理由なのか? 水澤ぁ!!」

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