第2話
何の前触れもなく登場したミニサイズのHEY-ZONEに、会場は一瞬どよめいた。ケーブルテレビの告知CMでも見物客が手にしているチラシにも、巨漢のマスクマンとして紹介されているのでいきなりのサイズダウンに皆驚くばかりだ。
「誰だよ、お前は?!」
コーナー上のゴー☆ジャス譲治が激しい口調で、リング下の謎のマスクマンに質問をする。もちろん正体は分かっている――先程まで本人とテントの中で打ち合わせもしている。だが、それでも観衆の見ている前だと反射的に正体を尋ねてしまうのはプロレスラーとしての悲しい性、「伝統芸」といってもいい。
「うるせぇ! 誰だっていいんだよ。それよりお前、ぶっ倒れる覚悟は出来てるか?」
ミニHEY-ZONEが譲治へ自らが手にしているマイクを使い、わざと声色を変えた喋り方で応戦する。口元には穴が無く薄いメッシュ地で覆われているので、マスクのデザインと相まって喋る姿は一層不気味に感じる。短いマイクアピールを終えた途端謎のマスクマンは、オリエンタルな柄が刺繍された、当人とはサイズ違いなロングガウンをなびかせて、いきなりリングに向かって一直線に駆け出した。うろたえる譲治をよそに滑り込むようにリングイン、彼のタイツを掴みコーナーポストから無理矢理引き摺り落とすと、胸や腹へストンピングを何十発も叩き入れ一時的に戦闘不能にする。あまりに素早い行動と辛辣な攻撃に、見物客たちはブーイングを飛ばすタイミングを失い放心状態となっていた。
コーナーでぐったりする譲治に一瞥もくれず、ミニHEY-ZONEは両手を大きく広げリングの中央でぐるりと回りギャラリーの視線を引くと、おもむろにマスクに手を掛けその“正体”を自ら明らかにした――サユリーナだ。前の試合で激しい闘いを繰り広げていた小さな女子選手……それも
サユリーナは羽織っていたロングガウンを脱ぎ去ると、今度はそれを譲治の頭の上から被せて視界と呼吸を一時的に奪い取り、スタミナを消耗させようとボディーを狙ってパンチの連打を浴びせる。《ホームタウン・ヒーロー》の劣勢に、状況を理解したギャラリーからはやっとブーイングが飛ぶようになり、それと同時に年少のファンからは「がんばれ!」と応援の声もあげられ始めた。
「うふふ、皆が譲治くんの応援をし始めたよ。“男”ならこれに応えられなきゃ、ね?」
攻撃を加えながらサユリーナ――というよりも素顔のさゆりが、ふたりだけにしか聞こえないような小さな声で話しかけながら、固く握った拳を一発、また一発と彼のボディーに叩き込む度に実に嬉しそうな顔をする。本人にはその自覚はないが譲治に対して奥底に隠れていたSっ気が発動したようである。
譲治はじっと耐える。ギャラリーの声援が最高潮になるまで我慢して、反撃のタイミングを窺っているのだ。ロングガウンを頭から被せられ閉塞感で息苦しくなる中、薄らと聴こえるリングの上に飛び交う自身への声援をエネルギーへと変えていく。
今だ!――ギャラリーからの要求と、己の気力が満タンになった事を感じ取った譲治は、一気にガウンを振り払った。そしてサユリーナの腹部にキックを入れ身体を屈ませると、間髪入れず背中に重いハンマーパンチを打ち下ろし彼女をマットに這いつくばらせた。《ホームタウン・ヒーロー》の大復活に、空気が割れんばかりの大歓声が彼らのいるリングの上を被う。
腕に力を込め地団駄を踏んで、リングの周りの見物客たちに向けて己の「怒り」を表現した後、サユリーナの髪を摘んで引っ張り起こす。大きく口を開け「信じられない」という表情の彼女に向け、譲治は胸元へ鋭いチョップを水平に打ち込む。ぱぁん!という大きな破裂音と共に、ヒットした部分がみるみる内に真っ赤に染まりとても痛々しく見えた。続けて譲治は二発三発と立て続けにチョップを打ち、攻撃の圧力によってサユリーナの身体はリングの隅へと徐々に追いやられていく。
何故避けないのか?――プロレス観戦の
「よっしゃぁ、いくぞ!」
ギャラリーから大発生する“ゴー☆ジャス”コールに、拳を固めた右腕を突き上げて応える譲治。だが不意にサユリーナに背を向けたその時、攻撃を受け続けてグロッキー状態ながらも、一瞬のチャンスを窺っていた彼女の鋭いドロップキックが彼の大きな背中に突き刺さった。完全に気を抜いていた譲治は勢いよく吹き飛ばされて顔からマットに倒れ込む。身長差やウエイト差があり、かつ筋肉量の異なる男性相手では、普段通りのファイトをしていたら勝負にならない。なるべく相手とは組み合わず、ヒット・アンド・アウェイ方式で隙を見ては打撃を加えてスタミナを削っていき、丸め込み技でフォール勝ちを狙うしかない。
怒りの形相で立ち上がった譲治は再び
彼女は倒れている譲治のマスクを掴み強引に起こすが、途中で目覚めた彼は顔にかかる不愉快なサユリーナの手を払いのけるとフルスイングで張り手を見舞った。破裂音とともにサユリーナの顔が大きく歪む。
「痛ってーな!」
負けじとサユリーナも張り返す。力が劣るこちらは二発。こうなればお互い意地の張り合いだ――両者は数えきれないほどの張り手を喰らったが一向に引く気配がない。頬は痺れ張り手の圧力で内の肉が歯に当たって切れた頃、耐え切れなくなった譲治は渾身の力で放つサユリーナの攻撃をかわし空振りさせると、背後を取って後方へ反り投げた。投げっ放しジャーマンスープレックスによりマットへ後頭部を打ち付けたサユリーナは、それまでのダメージの蓄積によりすぐに立ち上がれずにいた。今度は譲治がお返しにと強引に立たせる番だ。足はふらつき背筋もまっすぐ伸びていない、それでも「まだやれる」と噛みつかんばかりの視線で睨み、真っ向勝負を諦めていない。
譲治が腕を掴んでサユリーナをロープへ飛ばす。そして戻って来たところを狙い
レフェリーのフォールカウントが開始される。しかし2カウント目を数える前に譲治は必死の形相で体勢を崩して事無きを得た。全くの無傷なのだろうか?――いや、高い軌道を描いて頭からマットへ落とされ、首から肩にかけて痺れが走りダメージがかなり身体を蝕んでいるようだ。首筋を押さえふらふらと立ち上がるが、そこにはもうサユリーナの姿はなかった。何処だ? と目を必死で動かし彼女を探す譲治。
「おっしゃ、いくぞぉー!」
彼女はコーナーポストの上にいた。
両手を挙げて手を鳴らして見物客たちに手拍子を要求すると、彼らも手を大きく打ち鳴らしてこれに応える。軽快な手拍子の中、サユリーナの中で技を仕掛けるタイミングが決まった瞬間、両手を翼のように大きく広げてコーナー上から飛び出し、目下のゴー☆ジャス譲治目掛けて約3メートルの高さから体当たりをした。このまま全体重を預け押し潰し、フォール勝ちを決めたいサユリーナだったが簡単に事は運ばなかった。衝撃が予想よりも強過ぎた為、体当たりを受け止めた譲治の身体が反転し逆に彼女の上に覆い被さってしまった。
サユリーナの唇に何かが触れた――勢い余って身体が一回転した際に偶然にも、譲治の唇と接触したのだった。目の前いっぱいに映る彼の顔……マスク越しだが嬉しそうな表情が丸分かりだ。
(ちょっと……当たってるって!)
困惑した表情で、周りに聞こえないような小さな声で譲治に注意するが、「え? うん」と生返事を繰り返すだけで離れる気配が感じられない。サユリーナはとうとう業を煮やし、大声で怒鳴った瞬間彼はぱっと顔を離した。
――いつもより……大きく見える、譲治くん。
鼓動は一段と激しくなり、視界も霞み見慣れた彼の顔もぼやけて見える。
普段は目にする事の無い、真下から覗き見る譲治の姿に“対戦相手”ではなく、つい“男性”を感じてしまったサユリーナは口を開けたままで、「いい加減にしてっ!」から先の文句が言えず戸惑っていた。そんな彼女の迷いを察知した譲治は、まだ勝利していないのに何故か満足気な表情だ。
(いやぁ~、偶然とはいえラッキーだなぁ。ごっつぁんですっ!)
譲治が、嬉しさに溢れた弾むような
「いつまでくっ付いてるんだよ、このスケベ!」
サユリーナは周りにも聞こえるような大声で、譲治を恫喝すると思いっきり張り手をぶちかました。ふたりのコミカルなやり取りにどっと見物客から笑いが発生する最中、ダメ押しとばかりに彼の急所に膝を入れて悶絶させ、そのまま首と脚を抱え体を入れ替えてガッチリと固めるとフォールの体勢に入った。
「……ツー、スリィッ!」
譲治が下腹部に拡がる鈍い痛みに襲われる中、無情にもレフェリーのカウントが三つ入り結局、急所打ちからの丸め込みでこの《異色対決》は女子選手であるサユリーナの勝利となった。さゆり本人としてはもう少し、しっかりと勝負を見せてから勝つなり負けるなりしたかったのだが、アクシデントが影響して試合に再び集中できず、強引な幕引きを図った事を悔んでいた。それでもギャラリーが皆笑って楽しんでいる様子なので万事OKだ。
「ってぇな……おいレフェリー、反則じゃねェのかよ!」
レフェリーに詰め寄り抗議する譲治。だが判定が覆るはずもなくマットを両手で何度も叩き悔しがる彼を余所に、既にリングを降りたサユリーナはリングサイドにある本部席でマイクを奪うと一方的にまくし立てる。
「やかましい、この変態っ! 女の敵っ!! 金輪際あんたとは絶対闘わねぇからな……馬鹿っ!!!」
そう言うとマイクを譲治目掛けて投げつけ、ぷりぷりと怒って彼女は控室へと消えていった。 リング上で患部を押さえ、情けなく腰を折って突っ立っている《ホームタウン・ヒーロー》の成れの果てとは対照的で、“勝者”サユリーナに対するギャラリーからの熱い歓声はいつまでも止む事は無かった――
一週間後――
神園さゆりはもうひとつの“職場”である、コンビニエンスストアでの仕事に精を出していた。試合後数日は対戦相手の、ゴー☆ジャス譲治による厳しい攻めによって腫れてしまった顔を人前に晒したくない為、顔の下半分が隠れる程の大きなマスクを付けて仕事をしていたが、幾分か腫れも引いたので今日からはマスク無しで行動している。
珍しく来店客がほんの二・三人しかいないまばらな店内で、久しぶりに顔を合わせた同僚の女子高生から意外な言葉を頂いた。
「さゆりさんがプロレスしてる所、テレビで観ましたよ~」
「えっ、やってたの?……ローカルニュース枠で流れてたんだ、へぇ~知らなかった」
彼女がいかにも今どきの子な風貌にも拘わらず、家でニュース番組を観ている事も驚きだが、自分も出場した《こだまプロレス》の大会がテレビ撮りされていた事を、今の今まで知らなかったさゆりはびっくりして、棚へ商品を補充していた手も思わず止まってしまった。
「わたし、プロレスの事はよく分かんないけど、これだけは自身持って言えます――さゆりさん、マジカッコいいです!」
自分がバリバリの現役選手だった頃、数多の女性ファンから言われていた「格好いい」の一言を年齢を重ねた今になって、若い同僚の口から久しぶりに聞いた彼女は嬉しいやら恥ずかしいやらで照れまくった。
「えっ、あんたって秋祭の時にゴー☆ジャスと闘っていた人なの?」
「凄ぇ! 握手してください」
女子高生の言葉をきっかけに、店内にいるお客からも次々と声を掛けられ始め、店内業務もそこそこにさゆりは彼らへの対応に追われるはめとなった。降って湧いたような歓迎ぶりに彼女は戸惑いながらも笑顔で応対する。もうかれこれ三年ぐらい前から地元《こだまプロレス》へ出場しているさゆりだが、ここまでの反応の良さは一度も無かった。普段めったに自ら「女子プロレスラー」と名乗らないので大会が終わった直後でも、レジ打ちをしている彼女と前日リングで闘っていた彼女とが同一人物である事に気付くものは少ないが、この地域のコマーシャルに何本も出演し、ローカル情報番組にもちょくちょく顔を出す有名人・ゴー☆ジャス譲治とシングルで対戦した事、それに限られた範囲ではあるが地上波のテレビで彼女の闘っている様子が流れた、という事が非常に大きい。
「ちょっとさゆりちゃん、裏に入って在庫確認お願いできるかな?」
次々と握手やサインを求めてくる来店客に当惑する彼女に、「助け船」を出すべく店長は中へ引っ込むように指示をだすと、その言葉に甘えてさゆりは店長と女子高生に手を合わせ、「ごめんね」と言って店の奥へと消えていった。
「はぁ、久しぶりにスター選手の気分だわ……時間と環境ってホント残酷よね」
狭い商品倉庫の中でさゆりは、置かれていたビールケースの上に腰を掛けひと息ついた。まだアイドル的人気を誇っていた十代後半から二十代前半の頃は、多くの男性ファンを相手に何の疑問も苦労も無くファンサービスをしていたが、所属団体を辞め故郷であるこの街に戻ってきてからは、両親や親族、それに会社関係での付き合い以外で人と接触する機会はゼロに等しく、ましてや見知らぬ人間から声を掛けられるなんて絶対に無い。自分がかつて《奉られていた存在》だった事は、いい思い出として懐かしむ事はあっても、現在の自分が《普通の人》になってしまった事を残念だと思った事はない。それはプロレス界から自らの意思でいちどは身を引いている、という思いがあるからだ。これが現役に未練たらたらで辞めていたらこの境地には達しなかっただろう。
少し休んだ後、仕事に取り掛かろうと立ち上がった時、制服のポケットに入っているスマートフォンが騒がしいアラームと共に揺れだした。さゆりはパールカラーのケースに保護されている端末機をおもむろに取り出し、液晶画面を確認すると入ってきたのは電話ではなくLINEのメッセージだった。送り主は譲治だ。
【お疲れ様です。仕事が終わったらいちど事務所へ寄ってください、待ってます】
――時期的に次の大会の打ち合わせかな?
短絡的にそう考えたさゆりは「了解」と手短に文字を入力して送信すると、気持ちを切り替え収納棚の商品を数え始めた。まだ定時までは十分時間がある、仕事が終わるまでは普通のパート従業員でプロレスラーというもうひとつの顔を表に晒すのはその後でいい――
仕事を終えたその足でさゆりは道場へと向かう。秋祭のあと朝晩はめっきり冷え込んで寒くなり、着る服も生地が厚くなり量も一枚増えた。彼女は頬をかすめる風の冷たさや、自分の吐く息が白くなっているのをみて、季節の移り変わりの速さを直に実感する。
道場へ到着すると灯油の香りがさゆりの鼻孔に触れた。日増しに寒くなっていく道場内に耐え切れず今年もとうとうストーブを出した模様である。彼女は練習をしている選手たちに軽く挨拶をし、建物の奥にある事務所へと向かう。
「代表、入りますね」
ドアを軽くノックし中へ入ると、次大会のスケジュールがびっしり書き込まれたホワイトボードを背後にし、ラップトップパソコンに向かい表計算ソフトと格闘中の譲治がいた。さゆりの声を聞いた彼は、キーボードを打つ手を一旦止めて返事をする。
「おーさゆりさん、お疲れ様」
さゆりは手にしている膨れた白いレジ袋を彼のデスクの上に置き、自分も傍にあった事務椅子に腰を掛けた。譲治はさっそく袋を開け、中に入っていたおにぎりと清涼飲料水を取り出すと、すぐさま封を切りそれらを口に運んだ。さゆりは事務所へ寄る用事がある時はこうして、自分の店で出た賞味期限切れ間近の食品を独り身の譲治へ持っていくのだ。
「ん、うめぇ。いつもありがとうございます……でもたまにはさゆりさんの暖かい手料理、食べたいなぁ」
「何バカな事言ってんのよ。それで用事って何なの?」
自ら和やかな空気を断ち切って、さゆりは彼に本日の用件を尋ねた。そのままだと何だか「大事な」話がはぐらかされそうな気がしたからだ。
「そうそう、実は……」
「ちゃんと口の中、空にしてから喋りなさい」
「厳しいなぁ」
500ml入りペットボトルの飲み物を一気に口に流す。
「ふぅ。実はさ、今日さゆりさん宛てに電話があったんだ」
「誰から?」
何を躊躇っているのか、どこか会話の歯切れが悪い譲治。次の言葉を待つ時間がさゆりにはじれったく感じて堪らなかった。そんな煮え切らない態度の譲治に怒りをぶつける。
「はっきりして! 冗談だったら怒るよ?」
「……緒方さん。さゆりさんが以前いた
「緒方さんがわたしに何の用なの?」
「それは……」
譲治は数時間前に電話口で聞いた、緒方からの話を説明し始めた――かつて太平洋女子で人気を誇っていたスター選手たちが、年齢や気力低下などを理由に次々と団体を去ってしまい、現在では彼女らと比較して知名度が数段落ちる年齢の若い選手ばかりで、固定客が見込まれる小会場での興行はまずまずだが、ホールやアリーナといった大会場ではここ最近苦戦を強いられているのだという。そこで若手の“強化”を図るため名の知られた外部の選手を“
だが、そんな話を聞かされても「何で?」とさゆりは不思議がるだけだった。第一ウチにはそんな《全国区》な選手なんていないじゃない、と全く思い当たる節が無い。疑問符を頭の上にいっぱい浮かび上がらせている彼女へ、譲治は指を突きつけた。
「さゆりさん、全く自分の価値に気付いてないっ! あなた十数年前までは押しも押されぬ
「そうだけど……でも十数年前だよ? 何で今頃になって声掛けてくんのよ?」
「……観たんだって、俺とさゆりさんが闘っている秋祭のテレビ映像を」
「ウソっ?! あれローカルニュースじゃなかったの」
まさかの話に驚くさゆり。同僚の女子高生からはローカルニュースだと聞いていたのに、実際は《各地の秋の話題》として全国放送の枠で放映されたらしい。
「それで緒方さん、あれを観て久しぶりに会いたくなったから連絡下さい、ってさ。さゆりさんにとっていい話であるといいね」
譲治は電話の件を伝え終えると、仕事を再開すべくディスプレイへ目を向けるものの、さゆりにパソコンの蓋を閉じられてしまい作業が出来ない。首を上げて彼女の顔を見るとその目は笑っていなかった。
「わざわざご報告感謝します、代表……でもそれって、わたしへの電話で事が済みますよね? 一体何がしたいわけ? 譲治くん」
譲治は何も言わない。さゆりの迫力に気圧されてしまい口が開けないのだ。
「どうしていいか分からないから、わたしに判断を仰ぎたいっていうんでしょ? でもあなたはいつだってそう、“さゆりさんがやりたいようにやればいいよ”って言って済ませちゃう。でも本当にそれでいいの? もしかしたらわたし、出て行っちゃうかもよ? わたしを……神園さゆりの事を本当に大事に思っているなら
ふたりの間に漂う、非常に気まずい空気。
ずっと内に秘めていた、譲治への不満がつい口から出てしまったさゆりは、我に返ると急に恐ろしくなり、がたがたと身体の震えが止まらない。まともに彼の顔が見られなくなった彼女が取ったお互いにとって最善の方法――それは事務所から出ていく事だった。
「……一度電話してみるわ。どうなるか分からないけどこれだけは言っておくね。わたしは大好きな人がいるこの街を、小さいけど夢溢れるこの団体を愛している。此処から離れるなんて絶対考えられない」
そう言い残すと、さゆりは静かにドアを閉じ去っていった。
事務所にひとり残された譲治はもう、自分の仕事の事などどうでもよくなってしまい、空になったペットボトルを感情に任せて壁に投げつけた。ぶつかって床に落下したボトルは軽い音をたてて転がるが、譲治はそれを拾いもせず事務椅子に身体を預けたまま、目だけを動かしそれを追いかけていた。
――ったく、どうして俺はこんな肝心な時に、さゆりさんに何ひとつ言い返せないんだろう? 「俺の元に居てくれ」、「此処から出ていかないでくれ」……こんな当たり前で簡単な言葉なのにな。情けねぇぜ、ゴー☆ジャス譲治。
部屋の中では、ファンヒーターの送風音だけがむなしく鳴り響いていた。
染みひとつない、真っ白なシーツが被せられたベッドの上にスマートフォンを置いたまま、寝間着姿のさゆりは何十分もにらめっこをしていた。時折座る体勢を変えて気分転換を図ってみるが何の効果も得られない。譲治には「一度電話してみる」と見栄を切って事務所を出ていったものの、いざ自宅に戻り部屋でひとりになるとなかなか踏ん切りが付かない。
――どうしよう、無視してこのまま逃げちゃおうか? いや、どうせまた譲治くんの所に電話かかって来るんだろうし、一回緒方さんと話さなきゃダメか。
ベッドの上へ大の字になり背中から倒れると、置いてあったスマートフォンが弾んで宙に浮き、床に落下する間一髪の所でさゆりは慌てて受け止めた。
「……」
待ち受け画面に映る《こだまプロレス》メンバーとの集合写真をしばらく眺めた後、気持ちの整理が付いたさゆりは、遂に覚悟を決めた。
端末の《電話帳》に消去せず残してあった太平洋女子の番号をクリックすると、驚くほど僅かのコール数で目的の相手が電話口に出てきた。
「――久しぶりですね、神園さん」
古巣・太平洋女子の現社長である緒方だ。最初の現役時代には、マネジメントなどいろいろと骨を折ってくれた恩人である。
「まさか、この歳になって
さゆりは皮肉って言ったつもりだったが、そうは捉えていなかった緒方は「またまたご冗談を」と笑うだけだった――
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