天気のいい日はプロレスでも――

ミッチー

第1話

 気持ちがよい程に青かった空が、徐々にその明度を落とし、等間隔に設置されている街灯に明かりが点り始める午後六時前、店の裏にあるごみ置場に両手一杯の、容量ぎりぎりで膨れ上がった半透明のごみ袋を置き終えた神園かみぞのさゆりは、このコンビニエンスストアでの勤務時間が終了する為、帰る準備に取り掛かる。ちょうど店のバックヤードに学校の制服姿のまま入ってきた、この後のローテーションに入る女子高校生がさゆりに声を掛ける。

「さゆりさん、お疲れ様で~す」

「ありがとう……ってどうしたのよ、制服のままで?」

「いや、こないだのテストで赤点取っちゃって……補習で残されてたんですよ」

 ばつの悪そうな彼女の表情。だが声のトーンから察するに、悪い点数を取った事についてはあまり堪えていない様子だ。

「電話かLINEを送ってくれれば、そのまま仕事を続けたのに」

「いえ、さゆりさんに迷惑は掛けられませんから。真面目なんです、こう見えてわたし」

 胸をばんと叩き「任せておいて」と云わんばかりのどや顔を決める女子高校生。《真面目》という言葉がゲシュタルト崩壊した瞬間である。

「はは、君が頑張りやさんなのは分かったから、急いで着替えて店に出てくれないか?」

 そこへ商品の在庫確認を終えたばかりの、黒ぶちメガネを掛けた40歳代後半の恰幅の良い男性――このコンビニエンスストアの店長が彼女たちの前に顔を出した。バイトの女子高校生は彼の顔を見るや「ヤバい!」と云わんばかりの表情で、慌てて奥のロッカー室へ消えていった。

 さゆりは彼女が消えたロッカー室の方向を見てにこりと微笑むと、呆れ顔の店長に声を掛けた。

「店長……私これで失礼します」

 軽く会釈をするさゆりに店長は、彼自身の人柄が滲み出るような笑顔でこれに応える。

「お疲れさん――これからトレーニングかい? 頑張るねぇ」

「ええ、大会も近いですし。それでその日は仕事を休む事になりますが……申し訳ないです」

「本音を言うと残念だけどね。それでも――さゆりさんの闘っている姿、店で接客している時の何十倍も魅力的で好きだな、僕は」

「違った形の《接客業》ですよ、この仕事と何も変わりませんって。でも――嬉しいです」

 さゆりは不意打ち気味に彼から「魅力的」と言われ、湯気が上りそうな程に顔を真っ赤にして照れ、その恥ずかしさから顔を上げられず俯いたまま店を後にする。既にレジ打ちを開始した同僚の女子高校生は、そんな「少女」のようなさゆりの姿を横目で見て笑うのであった。


 既に辺りは暗闇に包まれ、点在する住宅の柔らかいオレンジ色の灯りと、街灯の青白い光だけがさゆりが歩く道を照らしていた。パート先のコンビニエンスストアを出てから数分、彼女は中小規模の工場や資材倉庫が立ち並ぶ一角にある目的地――《こだまプロレス》道場に到着した。

 団体が旗揚げして既に十年、「地域の活性化」をスローガンに掲げるローカルプロモーションが色々な土地で誕生したが、資金難や選手不足など様々な理由でその多くは消滅を余儀なくされたが、幸いにもこの団体は地元民に愛され、そして彼らの熱いバックアップもあってどうにか潰れずにここまでやって来ることができた。神園さゆりはそんな「日本一熱い」ローカルプロレス団体に所属する女子選手である。

 出入口のドアを開け中に入ると、既に玉のような汗をかいて数名の選手が練習を始めていた。スクワットや腕立てなど基礎体力練習をしている者もいれば、数種類のを使いウェイトトレーニングに励んでいる者もいた。彼ら選手の年齢層は下は二十代から上は五十代とばらばらで、皆《こだまプロレス》の選手とは別に他の職業で働いている云わば「セミ」プロレスラーたちなのだ。とはいってもよくありがちな「素人によるプロレスごっこ」等ではなく、学生時代に「学生プロレス」でリングに上がり、その興奮が忘れられず社会人になった後にここで練習して「非常勤プロレスラー」となった者や、いちど他団体でデビューしたものの、体力的限界や家庭の都合等何らかの事情でリタイアしたが「もう一度リングに上がりたい」と、地元にあるこの小さな団体でプロレス活動をする「元」プロレスラーなど「本気」の輩が集まっている正真正銘の「プロレス団体」なのだ。

「ほらぁ、もっとしっかり受身取って!でないと怪我しちゃうよ!」

 リング上で実戦形式の激しいスパーリングをする選手のひとりに、少し離れた場所から注意をする赤い覆面の男。黒いタンクトップから突き出る丸太のような日焼けした太い腕、まるでドラム缶を思わせるようなその体躯は、どこからどう見ても「プロレスラー」そのものだ。

「お疲れ様です、譲治代表っ!」

 さゆりが赤覆面に大きな声で挨拶をする。くるりと首を彼女のいる後方へ向け、存在を確認すると彼は身体を百八十度回転させ、145センチとレスラーとしては小柄なさゆりと向き合った。それまで若手選手への指導でぴりぴりとした空気が彼の周りに漂っていたが、彼女を見た瞬間からそれが薄れ、リラックスした温和な空気へと変化した。心なしかマスクの下からのぞく口元も緩んでいるように見える。

「おぉ、サユリーナ!やっと来ましたか。お仕事の後で大変でしょうが頑張ってください!」

「そんな……ウチのトップレスラー兼団体代表の《ゴー☆ジャス譲治》さまに煽てられるなんて私――悪いもの食べました?」

「いえいえ。だってずっと先輩じゃないですか、この業界の」

「ふ~ん。そうやって年寄り扱いするんだぁ? ひとつしか歳は違わないのに」

 正直彼の発言に対し気分など害してはいないが、ちょっとからかいたくなった彼女はわざと凄みを利かせて下から睨みつけてみた。すると譲治は尻餅をつき大きな身体を縮ませて「本気」で怖がった。そんなふたりのやりとりに、道場のあちこちからそれまで張り詰めていた緊張感が解け明るい笑い声が発生した。

 神園さゆりは譲治の言うように、元は本職の女子プロレスラーであった。また彼女もここにいる選手たち同様、何らかの理由があってフルタイムのプロレス活動が困難となり、いちど業界からリタイヤした身であった。しかし生活環境が変わり身辺も落ち着き始めた頃、もういちどリングで受身を取りたいと思い始めた時期に、地域振興の一環としてプロレス活動を行っていた《ホームタウン・ヒーロー》ことゴー☆ジャス譲治から直々に誘われて《こだまプロレス》に参加し今では、選手数こそ少ないが団体の女子部である《こだまガールズレスリング》のエース兼コーチでもある。さゆり自身、かつて所属していた大規模の女子団体でフルタイムの選手生活をしていた時よりも、もっとプロレスが好きになり今の兼業レスラー生活にやりがいを感じていたのであった。

 さゆりは黄色の柄無しTシャツに黒色のジャージ下という動きやすい格好に着替え終わると、さっそくストレッチを開始した。身体中の筋肉という筋肉を丹念に伸ばし解きほどき、時間を掛け徐々に全身を弛緩させていく。こうする事で余分な力が身体に加わらず最小限に怪我を防ぐ事が出来るのだ。こうして自分の身体と対話でもするように、調子を確認しながら三十分近くじっくりと、柔軟運動に費やしたさゆりの全身からは大粒の汗が吹き出し、着ているTシャツは水を被ったようにずぶ濡れとなって、生地がぺたりと素肌に貼り付き下着の地色が薄ら透けて浮き出てしまっていた。

近くで練習していた男子選手――特に女性経験に乏しい若い選手たちは彼女の艶姿を無視する事も出来ず、そんな事も気にせず真剣になって練習に励んでいるさゆりに、どう声を掛けて良いものか戸惑っている所へ、譲治は黙って自分の持っていた大きなバスタオルをさゆりの肩へ被せる。白い柔らかなバスタオルに包まれ彼女の下着も――シャツが密着して露わになったボディラインも、一瞬にして隠れ見えなくなる。

 突然の事でいまいち状況の呑み込めないさゆりに、当の譲治が耳元で小さな声で説明する。

「……見えてますよ、下着が! これじゃあ童貞クンには目の毒ですので急いで着替えて来てくださいっ!」

 彼から言われて、ようやく自分の状況と周りからの視線を理解したさゆりは、顔を真っ赤に染めて俯いた。だが極端に恥ずかしがるとまたに刺激を与えかねないと判断した彼女は、ぎゅっとバスタオルの裾を掴み下着が見えないように隠すと、何事も無かったかのように更衣室へと姿を消した。

 しばらくして、別のシャツに着替え終えたさゆりはリングに上がると、本日練習に参加している――今度の週末に行われる試合に出場する女子選手三名を集め、青いキャンバスの上で自らが率先して受身の練習を開始した。前回りや後方への受身など比較的簡単なものから始まり、倒立しての受身やロープの一段目に上り高い位置からの受身へと次第にその難易度高めていく。他の三人もさゆりと同じく兼業レスラーであるが、彼女が要求する様々な動きに音を上げる事も無く、皆さゆりの指示に付いていく。練習に参加している女子選手の中でも一番若い――十九歳の大学生は半年前には後ろに倒れるのが怖くて半べそを掻いていたものだったが、さゆりの熱心な指導の甲斐もあって今ではこのレベルなら難なくこなせるし、他のみんなも同様で「学業や仕事の片手間にやるプロレスなんて……」と《パートタイム・レスラー》否定派の観客から馬鹿にされない程度の試合を行う事が出来るまでに成長した。

 その後、さゆりは三人を相手にスパーリングを交互に行い、各選手の動きをじっくりとチェックする。ロックアップからはじまりヘッドロックからの首投げや袈裟固めに移行するのをヘッドシザースで防ぐという序盤の攻防、ロープを使用した素早いハイスパートの攻防などいろいろなシチュエーションを想定しての基本の“型”を練習する。少しでもおかしな動作があるとすかさず注意を出して、各選手の動きがスムーズになるまで何度もやり直しをさせ理想形に近付けていく。一対一のスパーリングでもかなりの時間を費やすのだが、三人分の指導とあって熱のこもった指導は、道場の使用終了時間ぎりぎりまで続けられた。週末に開催が迫る、市が催す祭事で行われる大会において、下手くそな試合を見せたくない、《こだまガールズレスリング》エースである神園さゆりの「元プロ」としての責任感である。


 夜十時を過ぎ、帰宅の途につく《こだまプロレス》の選手たち。次の日が休日や祝日であれば何名かは街の飲み屋に繰りだし、酒を片手にプロレス談義に花を咲かせるが、残念ながら平日であるため皆一目散に道場を後にし自宅へと向かう。

「……ご飯まで奢って貰って悪いわね、譲治代表」

「当然の事ですよ。それと此処では《代表》なんて呼ぶのは止めてください、軽~く《ジョージくん》でいいですから――いつものように」

 道場から車で走って約10分の場所にある、さゆりの住むアパートの前で車を停車させ、ふたりは話をしていた。道場では覆面を被っていた譲治だったが今は素顔で、イケメン……は言い過ぎだがそれなりに整った面構えをしていて、今でこそ冷蔵庫のような体格をしているが中高生の頃は、同じクラスの女子から結構好かれたであろうと想像に難しくない、中々の元・二枚目ぶりだ。

「バカじゃないの? あーあ、譲治くんがそんな事言うからへんな汗かいちゃったじゃない」

 さゆりは恥ずかしくなって、彼の剥き出しの腕をバシバシと叩き照れ隠しをする。既にアラサーの彼女であるがその様子は何処か《少女》をイメージさせて、譲治は骨まで到達せんばかりの衝撃にも笑顔で耐え、彼女の仕草に胸をときめかせた。

「でも……いつもありがとう。すごく感謝している、譲治くんの事。現役の時はいちファンとして応援してくれて、今は第二のプロレス人生をサポートしてくれてホント感謝してる」

「何言ってるんですか。あなた――《神園さゆり》という存在がいたからこそ、ここまで頑張ってこれたんですよ。プロレスラーになる、という目標も《地元密着のプロレス団体》を作るという夢も。「もうひとりの俺」であるゴー☆ジャス譲治は、あなたの存在なしでは決して生まれ得なかったです」

 酒の席で幾度となく聞いた譲治の話。だが車内という薄暗く狭い空間にふたりきり、という特殊なシチュエーションは、その意味合いが普段とは異なって聞こえてしまう。これは譲治からの「告白」なのかも、と勝手に解釈したさゆりは急に怖くなり慌ててドアを開け車の外に逃げ出してしまう。

 突然の事で状況が理解できない譲治。めっきり冷たくなった外の空気に触れ、落ち着きを取り戻したさゆりは手を合わせて彼に謝った。

「ご、ごめん。別に譲治くんの事が嫌いとかそういうのじゃないの――わたしは団体のいち選手で譲治くんは団体の代表で……そんな関係になるのっておかしくない、ねぇ?」

 さゆりの支離死滅な言い訳に、譲治は「まいったな」という表情をして頭を掻きながら笑った。彼にも全く下心が無いわけではないが、この状況に乗じて彼女に男女の関係を迫ろうなどという考えはこれっぽっちも無かった。面白すぎる彼女の行動は譲治を笑わせてくれるがその一方で、憧れの女性から自分自身が「男」として見られていない事が分かって少し寂しくもあった。

「それでは今度の日曜日の試合、一緒に頑張りましょう! くれぐれも怪我だけには十分に注意してくださいね。ではおやすみなさい」

 そう言って譲治が車を走らせて去った後、さゆりはしばらくの間自分の部屋にも入らず、錆びた金属製の階段に腰を下ろし、全身を包む微かな冷気の中ぼんやりと星空を眺め、昂っていた感情をクールダウン――実際はすでに落ち着きを取り戻してはいたが、譲治に対して取った自身の行動を反省していた。

 どうしてあの時、逃げ出してしまったのだろう? あの余計なひと言が、もしかして彼の心を傷付けてしまったのではないか? そして――いつも自分に対し、誠心誠意に尽くしてくれる譲治の事を、本当の所わたしはどう想っているのだろう……?

 何度思考を巡らせても、明確な答えには辿り着かない。


 数分歩いただけでも汗ばむほどの陽気となった日曜日の午後――市役所にある広い駐車場の中では模擬店のテントとならんで《こだまプロレス》のリングが設営されており、現在リングの上では女子選手四名によるタッグマッチが行われていた。今や熱心なファン以外はテレビでも目にする事の無くなった《女子プロレス》の試合に、初めて目にする若者やかつて絶大な人気を誇っていた頃を記憶する中高年の見物客たちは、《サユリーナ》のリングネームで出場する神園さゆり他三人が繰り広げる熱い闘いに引き込まれ、知らず知らずのうちに声援を送っていた。

「お前ら、よぉく見とけよ!」

 ショートカットの茶髪で丸い体型の、「往年の女子プロレスラー」を思わせるビジュアルの悪党レスラー・ヴァルキリー小松がリング中央で、彼女とは正反対でアイドル的容姿の女子大生レスラー・愛果まなかゆうの長い髪を掴みギャラリーに大声でアピールすると、そのままリングの端の方まで放り投げた。女子プロレス特有の技であるヘアーホイップに見物客は驚きの声をあげる。小松と相方のディーゼル久保田の悪党チームによる、愛果ひとりに対する執拗な攻撃はかなりの時間にわたって続き、そのビジュアルの良さで彼女を応援している客たちのフラストレーションは募るばかりだ。

 自分のコーナーで何をする事も出来ず、黙って相棒がやられている姿を見せられて苛々しているサユリーナを余所に悪党チームは、巧妙にレフェリーの死角を付いて仕掛ける反則攻撃や、パンチやキックなどのラフ殺法で体力を削っていきフォール勝ちを狙うが、見た目に反して根性のある愛果は足元がおぼつかなくなりながらも、ツーカウント以上は絶対に許さない。この彼女の底知れぬ根性に当初諦めムードだった客も肩を上げる度にヒートアップし、一部の集団からしか出ていなかった声援も「女子プロレス初観戦」と思わしき人たちの口からも溢れ始め、気が付けば多種多様の声援がリング周辺を覆い尽くすようになっていた。

 小松が勝負を決めるべく放ったクローズラインを、愛果は寸前でしゃがんで回避するとこれまでのお返しとばかりに、突き上げるようなドロップキックを小松の顎にめがけて撃ち込んだ。強烈なキックの衝撃で吹き飛ばされた彼女は、「ばんっ!」と軽快な音を立てて背中からリングの上に落ちる。

「愛果ちゃんっ、頑張って!」

 サユリーナが自軍のコーナーから必死に手を伸ばして交代を迫る。

 ダメージの蓄積で疲労困憊な愛果は膝をつきながらも必死に前進し、ありったけの力を振り絞りさゆりにタッチする事に成功した。この瞬間ギャラリーから大きな歓声が湧きあがり、この試合一番の盛り上がりを見せた。立ち上がって体勢を整えようとしていた小松に向かって再びドロップキック一閃、慌てて助けに入る久保田にはボディスラムで迎撃するという、今まで溜めた鬱憤を全て吐き出すかのようなサユリーナの攻撃に見物客は拍手喝采で喜んだ。スポーツライクな格闘技色の強いプロレスがマニアの間で好まれようとも、やはり勧善懲悪・起承転結のはっきりした従来のプロレスの方が分かりやすいし、どんな客層年齢層も安心して試合に没頭できるというのが良い。小難しい理屈は一切いらない、リングの上で繰り広げられる肉体のスペクタクルに人々は魅了されていく。

肉と骨が鈍重な音を立ててぶつかり合う。小松とサユリーナは互いのプライドを賭けエルボーを一心不乱に叩き込む。肘や上腕フォーアームが首筋を、胸板を抉る度に痛みによって自然と呻き声が溢れ出るが、それでも彼女らは絶対に攻撃を止めようとはしない。そう、どちらかがマットに這いつくばるまでこのは続くのだ。恵まれた体格でこのまま「エルボー合戦」を押し切るかと思われていた小松だったが、小さな身体からは想像できない圧力とスピードで、息を整える暇を与えず打撃を叩き込むサユリーナが遂に打ち勝ち、患部を赤黒く変色させた小松は自軍のコーナー付近で力尽きダウンした。

 小松から勝負を託された久保田は、脱兎のごとくロープから飛び出しサユリーナにパンチの連打を浴びせ攻撃の勢いを断ち切る。そして首根っこを脇に挟むとそのままDDTで顔面をマットにめり込ませた。せっかく廻ってきた勝機をこのまま逃してなるものか、と久保田は続けて無理矢理サユリーナを立たせると、腰に手を回し軽量の彼女の身体を一気に持ち上げ、自身の必殺技フィニッシャーであるパワーボムの体勢に入った。これが決まればスリーカウント間違いなしの大技だ。だがサユリーナはこの瞬間を待っていた。上半身が頂点まであがったと同時に彼女は久保田の頭を脚で挟むと、背筋で自分の身体を真下へ大きく反らし、股の間を潜るようにして相手を投げ飛ばした。逆転技のヘッドシザース・ホイップだ。

 サユリーナはちらりとコーナーの方を見た。待機している愛果がロープを強く握りしめ、まるで挑むような視線で自分を見つめている。最後は自分がフィニッシュを決めたい――と、そう言っているかのように。サユリーナは彼女に対し覚悟はあるのか? と言葉ではなく視線で問うてみると、愛果は力強く首を縦に振った。その自信に満ちた目力にサユリーナは、相棒に勝負を託す覚悟を決めるとマットの上でダウンする久保田をヘッドロックをしたまま強引に起こし自分のコーナーまで引っ張っていき愛果にタッチをすると、相棒の必殺技をお膳立てするために今度は、羽交い絞めフルネルソンで相手を固定しリング中央付近まで下がる――準備は整った。

「いくぞぉ!」

 試合権利のある愛果は、コーナーポストの最上段でスタンバイしていた。そして下していた膝をゆっくり伸ばし直立すると、何の躊躇も無く両手を広げて大きく飛び上がった。久保田も、サユリーナも、そしてギャラリーの誰もが《こだまガールズレスリング》のアイドル・愛果ゆうの、黒髪をなびかせて空中に舞うフォトジェニックな姿に目を奪われる。

 どすっ! と長身の久保田に愛果の身体が覆い被さると、彼女の体重プラス落下する際の重力で生じた衝撃に耐え切れず、マットに向かって水平に倒れてダウンした――フライング・ボディアタックが決まりそのままフォールカウントが始まる。レフェリーがふたつカウントをマットへ叩き入れ三つ目に突入しようとした時、フォール負けを阻止せんが為に小松が鬼の形相でリング内へ突入してきた。愛果の邪魔はさせない! とサユリーナは小松に向かって突進すると、綺麗な回転のフライング・ニールキックで迎撃し彼女をリングの外へ排除する事に成功する。そして最後のカウントが数えられた瞬間――サユリーナ&愛果ゆう組の勝利が決定した。レフェリーからふたりの手が挙げられると、ギャラリーからは祝福の歓声と拍手が絶え間なく送られ、これが自身初勝利となった愛果は感激のあまり汗と涙で顔を濡らして泣いていた。傍で彼女の様子を見ていたサユリーナも、かつてと呼ばれていた時代の自分とオーバーラップさせ、思わず感慨に浸るのであった。

 会場全体がハッピーな雰囲気に包まれたまま、こうして女子プロレスの試合は幕を閉じた。この後は《こだまプロレスリング》団体エースのゴー☆ジャス譲治が登場するメインエベントが待っている。だが「興行は生もの」とよく言われているように、いつも物事が平穏無事に進むわけではなかった――予期せぬトラブルが発生したのだ。


「へ、平蔵さんっ! 大丈夫ですか?!」

 選手控室用の大テントの中では、メイン出場予定である謎の黒覆面・HEY-ZONEヘイ ゾーンこと里中平蔵さとなかへいぞうが、180センチ以上もある大きな身体を折り曲げてブルーシートの上でうずくまっていた。顔はひどく青褪めており、突然の“ベテラン選手”へのアクシデントに、若手選手たちはどうしていいのか分からず只、声を掛けるのが精一杯だった。

「どうしたんです?……只事じゃないみたいですね」

 試合を終え、幕一枚挟んだ向こうの女子控室で休んでいたさゆりが緊急事態を聞きつけやって来た。試合時間も近いというのに覆面マスクはおろか、リングコスチュームにも着替えていない平蔵の姿に疑問を感じた彼女は、事態が楽観視出来ない事を直に感じた。

「ああ、昨晩何処かの飲食店で食べた晩飯が原因で――夜中からずっと腹痛と嘔吐が続いていて。水も一滴も飲めなくてもうフラフラだ……」

 さゆりに状況を説明し終えた平蔵は、再び激痛に襲われて苦悶の表情を浮かべて身を縮ませた――彼の入った飲食店では当時来店した、客の多くが食中毒で運ばれていた事が後で新聞の報道によって分かった。

 連絡を受けた秋祭のスタッフが病院に電話を入れたので、数分後には救急車が到着して平蔵を搬送してくれる事になったが、問題は誰が譲治の相手を務めるのか? という事だった。現在ここに残っているのはデビューして僅か一~二年のに乏しい選手たちばかりで、彼とまともに闘って「いい勝負」ができる技術テクニック根性ハートの持ち主は残念ながらいなかった。いや、キャリアの長い譲治の事だから「試合」として成立させる事は可能かもしれないが、客目線でみれば彼が対戦相手を「一方的に攻めている」か「手加減している」様にしか見えない危険性もあり、マニアはともかくとして普通の観客が見て楽しめるものではないだろう。

「……代表」

 不安の表情がマスク越しからも見て取れる譲治に、さゆりが話しかける。普段からは想像もできない程に緊張した彼は、返事をする事なく彼女の方へ顔を向けた。

「どうしたんです、さゆりさん? そんな思いつめた顔をして」

「わたし……代表と闘います」

「まぁ、サユリーナのエッチ♡」

「な、何言ってるのよ! この変態っ!!」

 さゆりとの冗談交じりの会話に、徐々に緊張もほぐれてきた譲治。考えてみればファン時代から数えて彼とさゆりとは長いで、プロレスのキャリアも彼女の方が上。これ以上はないである。

「じゃあ、わたしが譲治くんに合わせるから……」

「いえいえ、ここは私めがサユリーナに。何せ先輩ですからこの業界の」

「……試合中覚えてろよ」

 遂に試合時間がやって来た。銀色のマントにのチャンピオンベルトという、いかにもヒーロー然としたコスチュームを身に着けたゴー☆ジャス譲治が、勢いよくテントから飛び出たかと思うと一目散にリングに向かって駆けていく。もちろん差し出されたお客さんの手に向かってハイタッチをするのは忘れない。それが《地域密着型ヒーロー》である彼自身の信念だからだ。ロープを飛び越えリングインし、颯爽とコーナーに昇り見栄を切るとギャラリーから大きな歓声が沸き起こる。長年故郷である地元で頑張ってきた成果、地元民との信頼関係の賜物である。リングアナウンサーからコールを受ける彼の勇姿を見て、さゆりは急いでコスチューム――出場予定だったHEY-ZONEのマスクと彼のガウンを纏い、マイクを片手にゆっくりとテントから出てリングへ続く通路へと歩きだした。

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