第4話 ヤミポル2
風俗店で掃除のバイトをはじめて三日目。
ヤミポルに近付こうとしたイシマルの努力は未だ結果を実らせずにいた。
バイト時間内に出会う機会が少ないことも一因であったが、なにより初日以降は出会っただけで逃げられてしまったため、付け入るすきもなかった。
月が曇って暗闇を深めた夜中、この日も少女の顔も拝めなかったイシマルはとぼとぼとミシマの部屋に寄った。
ミシマの部屋は姉に場所を知られているため危険ではあったが、これほど都合のいい寝床もないので、イシマルは深夜にミシマの部屋を訪れ、朝になったら出ていく生活をしていた。
「そういえばハル姉が来てたぜ」
「俺がここにいるってバラしたんじゃねえだろうな?」
部屋に入ると、ミシマが待っていたようにハルカの訪問をイシマルに知らせた。
初日以後も部屋に泊まろうとするイシマルに最初は難色を示したミシマだが、借金に加え、クラブの時の逃亡の事実も突きつけられ、今では快く受け入れている。
「何も言ってないけど知ってたぜ?『五日あげるって伝えて』って言たし」
「ちっ、大怒か」
大怒というのはイシマルが勝手につけたハルカの怒りの段階で、学生の頃に何回か家出をしていたイシマルは、その度に誰かからハルカのメッセージを受けていた。一例に、彼女の下着をお小遣い欲しさに売ったことがバレて家出した時に与えられた猶予日数は三日だった。この時、彼は着ている服を含め全衣類が燃やされ、夜中に裸で資源ゴミで衣類を探すはめとなった。イシマルはこの怒りの段階を中怒と呼んでいる。ちなみに大怒の上には極大怒というものがあると言われるが、イシマルも見たことはない。
「大怒って、中学の頃に僕の叔父さんのせいで警察行った時以来じゃん」
「覚えてんのか」
「そりゃ、すでにボロボロだったイッシーを、無言で一時間も殴り続ける姿を見るといやでも覚えてるよ。その後はハル姉に言われて帰ったから知らないけど。いったい何があったん?」
「やめろ、思い出したくねえ」
凄まじい記憶が蘇ろうとするのを辛うじて抑えたイシマルは、話を変えてミシマに今抱えている問題について相談に乗ってもらった。
「少女と親しくなる方法?イッシー、ロリ――」
「それはもういい」
聞き飽きたその言葉を制止して、イシマルはまともな答えを促した。
「僕に聞かれてもなあー」
「……お前、その、一応、あれ、妹あるじゃねえか」
自分はどっちかというと熟女が好きだからと、芳しくない答えを出すミシマ。普段ならそこでイシマルが突っ込みを入れて終わる会話だったが、今回は相当に行き詰まっているのか、イシマルは言いにくそうにミシマを当てにした理由を語った。ただどうしたものか、やけに妹の部分だけを言いにくそうにしていた。
ミシマはそんなイシマルの言葉に、それで当てにされても困ると反論した。
「いや、妹って言ってもいっこ下だし、もう大学生だぜ?」
「幼い頃になにが好きだったとかあるだろうが」
「それならイッシーもハル姉がいるじゃん」
「あれはちがうだろ。参考にできるか」
あれのなにがどうちがうのか具体的な説明はなにもなかったのに、なるほどと納得したミシマは少しの同情と共に真面目に相談に取り組んで、過去の妹がどうだったのか思い出させようとした。
「う~ん……たしか小学校の頃はパン好きだったぜ。あの頃はメシ食えないのがしょっちゅうだったから、僕がクラスの給食パンを盗ってくると喜んでたな~。後でどこから持ってきたのかバレた時から食べなくなったけど」
「食べ物か……」
懐かしそうに思い出話をするミシマの横で、イシマルは食べ物で子供を釣るという行為が悪くない方法だと思っていた。お菓子をいくつか用意したら少女の興味も引けると思えた。ただ、いくらはした金と言っても、金に困っている現状ではできるだけ自腹を切りたくないのが悩みどころではあった。
だから何気なくミシマの懐事情を聞き出そうと図ったが、そんなイシマルの魂胆を読み取ったミシマが知らぬ存ぜぬでとぼけた。
不毛にも食い下がるイシマルにミシマがとぼけ続いてると、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「社長かな?今日なんかやらかしたっけ……」
真夜中の訪問客というのに、ミシマは珍しくもないという風にそう呟いた。
心配そうな顔―心配の対象が訪問客ではなかったが―で客を入れるためにドアを開けたミシマは、そこに立っていた人物を見て首をひねた。
「……とちら様で?」
「イシマルソポスに用事がある」
相変わらずの冷めた口調と、調子の悪そうな灰色の肌の女性。ミシマの部屋を訪れた深夜の来訪者はエオスだった。
彼女は遠慮なく部屋に入ってきて、床に座っているイシマルの前に立った。
イシマルとてエオスの突然の訪問を予想していたわけではなかったが、彼女がもたらした非日常を経験していたためか、驚くこともなく挨拶代わりの嫌味を投げる。
「隠れるんじゃなかったのかよ。それとももう鳩女になったのか?」
「この体はダミーだ。壊れても問題ない」
「じゃあ、あの時もそのダミーとやらで来たらよかったじゃねえか」
「この体は何もできない。そもそも、あの時に貴様が力を確認したいなどと言わなければ、バレることもなかった」
「おっと、責任転嫁しようってか?そうはいかねえ!」
前触れ無く押し入ってきた面識のない女が友人であるイシマルと気兼ねない会話をする様子を見て、ミシマは自分の目を疑った。
彼が中学からの知っているイシマルという男は、そのねじれた性格の故、身内でない女性には気味悪がられることはあっても親しくなったことはなかった。ハルカの友人がイシマルを可愛がるという話は聞いたことがあったが、それはハルカを媒介とした例外であったため、女に嫌われる友人のイメージは健在だった。なのにそんなイシマルが、顔色は少し悪いが美人の女性と戯れていることが信じられなかったのだ。
「イッシー……まさか彼女なん?!」
「違う、こいつはただの悪魔だ」
「だから悪魔ではない」
「じゃあただの無能だ」
「無能でもない」
言葉では違うと言っても、息ぴったりなやり取りを見せつけられては、益々ミシマの誤解を招くようなものだったが、ミシマの誤解などどうでもよかった二人は彼を蚊帳の外に置いて話を始めた。
「イシマルソポス、首尾はどうだ」
「見つけたよ。見つけはしたけど、あれが終末なんちゃらっでいいのか?子供だったぞ?」
呼び子のおかげで目的の人物を間違うことはなかったが、それは力ずくで納得されたようなもので、イシマル個人としての疑問は残ったままだった。ちょうど現れたエオスにその疑問をぶつけると、彼女はその懸念は無用だと答えた。
「終末の騎手というのは人類の中に仕込まれた因子のようなものだ。子供だろうがなんだろうが構わない」
制限された情報だけで物を語るエオスの言葉を、つい先日まで常識的な日常を送っていたイシマルにすぐ理解しろというのは無理な話であった。今回もまた同じで、イシマルはエオスの返答を何ひとつ理解できず、不親切な彼女を訝しげな目で見つめたが、今の状態では疑い始めたらキリがないし、金塊を戻すには彼女の協力が不可欠ということだけは承知しているイシマルは、とりあえず子供でも構わないという言葉だけを受け入れることにした。
「……まあ。それならいい。んで?」
「で、とは?」
いつまでも座る気のないエオスを見上げることが疲れたイシマルが彼女を座らせ、少し期待に満ちた顔で彼女に聞いた。
「いきなり現れたってことは、なんが役に立つものでも持ってきたんだろ?情報でもなんでもいいから早くよこせ」
腐っても悪魔、ヤミポルに近づけなくなった自分の状況に解決できるなにかを持ってきてるに違いないとイシマルは踏んだのだ。しかしエオスは、まったく心外という顔で彼の期待を裏切った。
「そんなものはない。ただ状況を確認するために来ただけだ」
「使っかえねえ奴だ!」
「まあまあ落ち着きなって」
勝手に抱いた淡い希望が吹き飛ばされ、八つ当たり的な大声を出すイシマルをミシマが止めた。蚊帳の外だとしてもやけに静かだと思ったら、彼はいつの間にか席を外し、両手いっぱいに缶ビールを持って帰ってきた。
「なあお姉さん、一杯どうよ!」
ハイテンションでエオスを酒に誘うミシマを見て、イシマルが憤る。その怒りはミシマの手に持たされている物に対する怒りだった。
「てめえ!俺が探した時はないって!」
「男に出すビルはないぜ」
「ふざけんな!」
ミシマの言ってやった顔に腹を立てたイシマルがそのまま飛び掛かり、二人の取っ組み合いが始まった。解せないというエオスを横に、誰が優位とも思えない泥仕合が十分くらい続いたところで二人は疲れ果てる。それから二人は自然とビールを手にとって、今度はそのまま作戦会議を兼ねた酒盛りが始まった。
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「ゴクッ、なるほど。騎手に近づけない状況であると」
ビール一本目を飲み干したエオスが、イシマルの説明に頷く。
ミシマに無理矢理ビールを持たされたエオスだったが、酒を嫌うわけではなかったようだ。
「グビグビ、っげっぷ。そうだよ。だからおめえもなんか案を出せ」
エオスの後を追って一本目を飲み干し、二本目の缶のフタを開けたイシマルは、ミシマから渡されたカップ麺の中身を取り出して砕き、その上に粉末スープをふりかける。簡単に味もそこそこある肴として、イシマルとミシマがよく食べているものだった。
ビールの喉越しを思いっきり堪能したミシマは、程よく粉末が掛かったカップ麺の欠片を手一杯握って口に投げ込む。肴の量を考えろというイシマルの小言は聞き流して、エオスが来る前の会話を掘り返した。
「っくは~、もぐもぐ、さっき僕が言ったやつは?」
「食べ物で釣るのは、まあ悪くねえけどよ、釣れないかも知れんからな」
三日間の反応からして、釣れない可能性が高いとイシマルは言い添えた。
「物を使うなら、食料に限定する必要はないはずだ。騎手の好みに合えばなににでも反応を見せるはず」
イシマルが肴をつくるところを興味深そうに見ていたエオスは、ミシマから進められた欠片を手にとったまま参考までに意見を述べた。
急造された肴を凝視していた彼女は、思い切ってカップ麺の欠片を口にした。ぱりっとした揚げ麺と、粉末スープのちょうどいい具合の塩辛さの組合がなかなかいい味を出していて、エオスは悪くないという感想を残した。
「近づくこともできねえのに趣向なんて知るか」
「ふむ、店で出会ったゴカイドウという老人は情報を持ってないのか?」
「期待薄だなー」
エオスの助言に否定的な反応を見せるイシマル。彼は色上戸で、三本目を飲み干した時には顔がすこし赤みかかったように見えた。
もともと広くはなかったミシマの部屋は夏の太陽が温めた空気の残熱と、酒を飲んで温まった体温が交わって暑さを増す。暑くなると冷たいビールが美味しくなり、酒を飲むスピードに拍車をかける。
「無理矢理にでも逃げなくするのは?話はできるぜ」
「たぶん死ぬぞ。俺が」
ミシマはもう言葉が脳へ通る道をアルコールに譲ったようで、思い浮かんだものを適当に投げていた。
まだそこまで理性を諦めてなかったイシマルは、クラブソドマで出会ったノビト・ファミリーの面々を思い出して鳥肌を立てる。ゴウダの顔は思い出すだけで酔いが冷めてしまいそうだったので、彼は頭を振ってその顔を忘れようとした。
酒気が満ちると月も満ちて、小さな窓から照らされる月光を浴びる酒宴の夜はまだまだ続いていく。
「格好を変えて見たらどうだ。貴様は見た目が優しいとは言えないからな」
二人と同じペースで飲んでいたはずなのにまったく乱れた姿を見せないエオスがふとそう言い出した。
「は?どんな格好すればいいんだよ」
「同じ大人でも、同性の方が安心感を与えるだろう」
「はあ??」
酒が回っているせいか、エオスの言葉をうまく理解できなかったイシマルが聞き返すが、エオスは答えず、となりでかなり酔いが回ってるミシマがつぶやく。
「そういえばさ~りっちゃんこどもんころ、魔法少女ってのを大好きだったぜ。イッシーも魔法少女になろうや~」
「てめえはなにほざいてんだ」
「魔法少女とはなんだ?」
イシマルはミシマの戯言を止めようとしたが、なぜかエオスがその話に食いつき、二人はイシマルをほっぽらかして話し合い始めた。
「僕も詳しくは知らないけど~夢と死亡?を振りまくらしい。あ、あとふりふりしてる」
「ふむ、ふりふりか」
「てめえらなに二人で勝手に話し込んでんだ」
その後も他愛のない雑談だけが続いて行って、もほや会議は酒気と共に明後日の方向に向かって行った。そして真夜中の素朴な酒宴は、最後の缶ビールが空になって終わり、三人とも程なくして眠り落ちた。
そして翌日の朝。
先に目を覚ましていたミシマが、イシマルの体を揺らして起こさせ、床に転がって動かないエオスの体を指しながら言った。
「イッシー……あの女、息をしてね……」
まだ夢現だったイシマルは、馬鹿なことを言って自分を起こしたミシマに苛ついたが、エオスの開いた目に羽虫が座ってところを見て完全に目が冷めた。
しばらくはミシマと同様に動転していたイシマルだったが、頭が回り始めた頃に昨晩エオスがダミーがどうとか言っていたのを思い出した。要するにこの体は人形のようなもので、今朝になって本体との繋がりのようなものが消えてると想像できたが、彼はそれをミシマや他の人に説明できる自信はなかった。
「これどうしよう?」
「……一旦隠せ」
エオスの抜け殻を誰も使ってない倉庫に運び終わったイシマルは、間違っても警察などに連絡しないように念を押し、クラブソドマに足を運んだ。
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「遠足でもいくつもりかね?」
手一杯のお菓子を持って現れたイシマルを見て、老人は怪訝そうな視線を送った。
「今日はあいつの攻略に徹底するから、掃除はあんたがしろよ」
初日から今まで老人に丸め込まれて自分だけで掃除を終わらせていたイシマルは、今日こそは掃除で時間を奪われないために釘を刺した。もちろん、老人がまたクビの話を持ち出すと不利になるのはイシマルだったが、数日を一緒に行動してゴカイドウというひとがどんな人物なのかをそれなりに理解したつもりでいるイシマルは、老人の脅しはあくまで脅しに過ぎず、自分をからかうことだけが目的だと踏んでいた。実際に、老人がイシマルを辞めさせるつもりはなかったのは事実だったが、イシマルが言葉にしなくとも、ゴカイドウは今日から掃除を押し付けるつもりがなかった。
それでもイシマルの言われたまま引っ込むのは面白くないと思ったのか、ゴカイドウはちょっかいのような忠告をした。
「人との付き合いは一日二日で成せるものではない。なにをそう急ぐ必要がある」
「じゃあどれだけ待てばいいんだよ」
「せめて一月はいるだろう」
「そんな時間はねえ!」
事実問題、家が半壊されて四日が経ち、逃げるように家を出たイシマルはバイトもクビになって、手持ち金は減る一方であった。老人の言葉が間違ったわけでもなかったが、時間がないというイシマルの言葉もただの焦りではない。
ゴカイドウはやる気になっているイシマルに聞いた。
「ふむ……なら仕方ないとして、出合い頭で逃げ出すあの子に、どうやってお菓子をあげるつもりかね?」
「考えがあるんだよ」
三日の観察でヤミポルの行動ルートをある程度把握したイシマルは、その行動ルートの各所にお菓子の中身を少しずつばら撒いて、スタッフも風俗嬢もいない部屋に誘導する。その部屋に用意してきた全てのお菓子を積み上げて、ヤミポルを懐柔するというのかイシマルの作戦だった。
「そううまくいくかね……」
「手伝ってくれとはいわないから邪魔だけはするなよジジイ」
まだなにか言いたそうな老人に念を押して、イシマルは作戦の準備に取り掛かった。
ヤミポルが見つけやすそうに、それでいて店のスタッフらには気づかれにくいように丁寧に個包装のお菓子をばら撒きながら、中に誰もいないことを確認した部屋の前に到達したイシマルは、なかに持ってきたお菓子の全部を持ち込んで、ドアを少しだけ開けておいた。
準備を終えてヤミポルが現れることだけを待っているイシマル。
クラブソドマの二階に住んでいると言うヤミポルは、イシマル達が営業前の掃除をしている頃には常に店に降りてきていた。風俗嬢たちの小間使いをしているというのがタカネから聞いた情報だったが、イシマルが三日間店に通いながらおかしく感じたのは、ヤミポルにものを頼む人と、まったく関わろうとしない人がいるということだった。
お使いを頼むにも序列ようなものがあるのだろうかとその違和感の答えに考えを巡らせていると、
「けほけほ……」
「!」
イシマルが待ち望んでいた咳の音が聞こえて来たので、彼は急いでヤミポル動向を探ろうとドアの方に近づいた。
「あれえ……?」
ドアの隙間からは、ちょうどお菓子に気づいたヤミポルの姿が見えた。イシマルがいる部屋に続くようにばら撒かれたお菓子に興味を見せたヤミポルは、周りに誰もいないことを確認すると、お菓子を拾い、そこでまたその先にいるお菓子を見つけて次のお菓子へと手を伸ばした。
(よしよし、そのままこっちに来い)
作戦通りに動いてくれるヤミポルを心のなかで褒めながら、彼を少女を迎え入れる準備をした。
しかし部屋に向かおうとするヤミポルの足は誰かに呼び止められた。
「ちょっと、あんたそんなところに蹲ってなにしてんの?」
そこに現れたのは、初日にゴウダという組織の男と一緒にいた風俗嬢。相変わらずの安っぽい化粧とアクセサリに飾られている彼女は、ストレスでも溜まっているのか、嫁に八つ当たりする姑のような声でヤミポルに声を掛けてきた。
女に呼び止められてビクッと体を震わせたヤミポルは、恐る恐ると女に振り向く。しかし子供であるためか、自然にしていればいいものを、わざとらしいとしか思えないような動作で手を後ろに隠したので、姑はそれは見逃さず手に持っているものを見せろと急き立てた。病んだ子犬のように唸っていたヤミポルは、目を瞑って女に手を広げてもっているものを見せた。当然、そこにあるのはイシマルがばら撒いたお菓子だった。
ヤミポルの手に持たされているお菓子を見て首を傾げた女は、床にばら撒かれている他のお菓子を見つけて顔をしかめた。
「本当、汚ったないガキ!」
「ひぐっ!」
汚い虫を振りほどくように、ヤミポルの手を叩いてお菓子を落とさせる女。結構力を入れていたのか、ヤミポルが悲鳴を上げた。しかし女はそれでも気が済まなかったのか、ヤミポルの髪を掴んで、左右に回し始めた。
「タバコ買ってこいって言ったでしょ?!乞食みたいに拾い食いしてんじゃねえよ!」
「す、すみましぇん~!あうう!」
どうやらヤミポルにお使いを頼んでいたようで、頼みごとが放ったらかしになるとムカつくのは当たり前であるが、女の行動はやり過ぎに見えた。
回されるがままに謝罪の言葉を口にするヤミポル。しかし女をなにがそんなに気に入らないのか、今度は手を高くあげる。誰が見ても叩こうとするのが見て取れた。そこに他の風俗嬢が現れたが、彼女はヤミポルに手を上げてる女を見てもやるせないという顔をするだけで、止めようともせずにそのまま通り過ぎた。
目の前で起きている児童虐待の現場にイシマルは悩んだ。聖人君子になるつもりは毛頭ない彼でも、生物的に子供に危害に及ぶ状況というのは決して気持ちのいいものではなく、彼に胸くそ悪い感覚を味わせていた。
そんな生物的な保護本能と、なにより自分の作戦がめちゃくちゃになることに耐えられなかったイシマルはとっさにドアを開けて前に出た。
「ちょっといいですか?」
「……なによ?」
いきなり現れたイシマルに声をかけられヤミポルを叩こうとした手を一旦下がらせる女。
姑みたいな声と顔は地だったのか、相手がイシマルでもキツイ態度を変えることはなかった。
一方、イシマルは女を呼び止めはしたが、なにか考えがあって呼び止めたわけではないので、彼女に返す言葉がすぐに思い浮かばなかった。だから彼は、脳を通さなかった言葉をできるだけ口走った。
「先程トイレ見たら便器が詰まってたんですが、量が多いなら流しながらことを済ませた方がいいです」
とっさに思いついた言い訳にしては清掃作業員の身分に似合う絶妙なものだった。しかしややデリカシーに欠ける言動だったので、女はムキになってイシマルに反論した。
「はあ?!ワタシじゃないし!だれにいってんのよ!バカじゃないの!」
「いや、あんただって言ってるわけじゃなくて、ただこれから注意してくれるとありがたいってだけです」
戸惑いと怒りで顔が赤くなった女は、今にでも飛び掛かりそうな勢いでイシマルを睨みつけた。悔しそうに息を荒げる女に、イシマルは追い込みをかけるように言った。
「あまり溜め込むと千切れるリスクがありますぜ」
「死ね!」
ますます顔が赤くなる女をみて、イシマルは物でも投げつけられるのではないかと思って受け止める準備をしていたのだが、女は捨てセリフだけ残しでどこかへ消えた。意外とあっけなく引き下がった女に拍子抜け感を否めなかったイシマルは肩をすくめる。だからとしてもう少しやり合いたがったわけでもなかったのでイシマルは良しとして内心ガッツポーズを取った。いまの自分はまさにヒーローではないのかと思い上がった彼は、ヤミポルの好感度が上がったに違いないと確信し、誇らしげな笑顔で不憫な少女に救いの手を伸ばそうとしたが、
「だいじょ――……いねえ」
そこにヤミポルの姿はなかった。
「忍者かよ……」
誇らしげに笑っていたことが恥ずかしくなるような空振り。周りをいくら探してもヤミポルの姿は見つからず、此度の作戦は失敗ということが明らかになった。空振りに慣れている、というか人生そのものが空振りと言ってもいいイシマルは、今日はもうここにヤミポルが現れそうにないことを受け入れ、苦い顔で空室に入れておいたお菓子を回収した。
手一杯のお菓子をもって老人が掃除をしているであろう控え室に向かうイシマルを、後ろから呼ぶ声があった。
「あら、いっちゃん。おはよう~」
「タカネさん」
初めてクラブソドマに来た時に助け舟を出してくれたハルカの友人、タカネだった。
タカネの勤務する店で清掃業者として入ったなら、彼女との遭遇は不可避なもの。それでもどうにか彼女にバレたくなかったイシマルはできるだけ身を隠すように行動していたが、初日にすぐバレてしまった。
作業服を着ているイシマルを見つけたタカネは、新しいオモチャを見つけた子供のような興味津々な顔で食いついた。しつこい追及の末に彼がクラブソドマで掃除のバイトをすることになったと知ったタカネは、イシマルの面倒を見てやると、その日から勤務時間よりも早い時間に店を訪れているのだった。
タカネが苦手なイシマルとしてはあまり喜ばしいことではなかったが、面倒をみるという言葉はあながち冗談でもなかったのか、タカネが毎度イシマルたちに差し入れを持ってきていたので、あまり邪険に扱うこともできなかった。
「ほら、今日の差し入れだよ。あれ、お菓子?」
珍しくもお菓子を手に持ってるイシマルを見て、タカネが疑問を口にする。彼女の記憶の中では、酒のつまみ以外にお菓子を食べるイシマルの姿はなかった。
「いや、これは俺のじゃない」
「じいさんのお裾分け?」
「いや、買ったのは俺だけど」
「なぞなぞ??」
意味不明にな答えにタカネが首を傾げると、説明が面倒臭くなったイシマルは適当にはぐらかそうとした。だが一度火かついたタカネは引き下がらず、「ハルカがいっちゃんどこにいるか知りたがってるよ」と暗に説明を強制してきた。
脅そされるのは癪だったが、危険を犯してまで隠す必要はないと判断したイシマルは作戦の始終をタカネに説明した。
「警察を呼ぶべき?」
「ここも無事ではすまないぞ」
予想していた反応に準備していたセリフを返すイシマル。
タカネは面白くないと口を尖らせたが、すぐに心配そうな顔で言った。
「あの時言ってたこと本気だったの?あの子には関わらない方がいいって」
「別に取って食おうってわけでもないし、ほんのちょっと話するだけだって。怖い人達には見つからんようにしてるよ」
心配してくれるのはありがたいものだったけど、いまさら後には引けない彼は、危ないことに首を突っ込むつもりはさらさらないから心配は無用だと言った。
しかしタカネの懸念は晴れず、むしろなにか言いたそうにしていたが、それを伝えるべきかどうか判断がつかなかったのか少し悩んだ末、意を決してイシマルに言っていなかった事実を語った。
「それもあるけどね……あまり言いたくはないんだけど、あの子、先輩たちに疫病神と言われてるの」
「疫病神?」
期待してなかった新しい情報に、イシマルが食いつく。、
「たぶん気づいてると思うけど、あの子、あまり面倒を見られていないというか、敬遠されてるのよ」
まわりくどい言い方せずにいじめと言えばいいものを、と思ったイシマルだったが、タカネを攻めても筋違いな話だったので口を噤んだ。
「先輩たちから聞いた話では、最初はそれでも面倒を見ようとしたそうよ。こんな職業でも、人並みの情はあるからね。面倒は当時にあの子を一番可愛がっていたという人が担当してみていたんだけど、偶然なのかどうなのか、あの子の面倒を見始めてから、その人はやけに風邪を引いたり、病気になったりするようになったというの。結局最初の人はその内に辞めることになって、次の担当が決まったんだけど、この人もまた……ってこと。不気味だから追い出そうって思った人もいたようだけど、あの子を連れてきたのが組織でも力あるクマガイさんだからね。それからはこのことを知る人たちはできるだけあの子に接触しないようにしてやってきているんだけど、たまに新しく入った子が敬遠されるあの子をストレスの発散にいじめるようになったたの。アタシは最初から先輩に教えてもらったから距離を置いだけど」
タカネに聞かされた話は、まだヤミポルに関して殆ど知らないイシマルにはとっても助かる情報だった。ヤミポルが受けていたいじめと、店の人達が見せた不可解な反応に説明がつく話に、イシマルはなるほどと頷いた。ただ、疫病神などというものはいくらなんでも思い過ごしだろうと思ったので、ついタカネを皮肉るような言葉を口走った。
「迷信を信じる人には見えなかったけど」
「あら、勝手な理想像ありがとう。夢見る乙女は嫌い?」
「おとめ……」
「なあに?」
背中を凍らせる、氷河のような笑み。
イシマルは慌てて退散しようとしたが、逃げる彼の手首をつかんだ蛇のような手は、決して彼を逃さなかった。
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「おかえり」
今日も成果を出せずに帰ってきたイシマルを迎えたのは、腐れ縁の幼馴染ではなく、自称世界の終末に抗う神の敵対者だった。
「なに馴染んでんだお前」
自分の部屋であるようにくつろいでいるエオスは、服装もいつものスーツではなく、涼しそうな半袖シャツと短パンを着ていた。夏だからなのか、その灰色の肌も露出されると色気が感じられた。
「イッシー、本当にびっくりしたぜ、あれは人形なんだって。人にしか見えないのにな」
トイレでも行っていたのか、イシマルの後ろから現れたミシマは、倉庫を指しながら自分たちを驚愕させた朝の抜け殻が死体ではなく人形だったとイシマルに伝えた。
どうやら目の前のエオスは朝方に倉庫に放り込まれたエオスとは別のもののようで、イシマルがまさかと思って倉庫を確認すると、そこにはどう見ても死体にしか見えない物体が転がっていた。
急いで部屋に戻ったイシマル。
人形だと納得しているミシマに聞かれたら話がややこしくなると思った彼は、エオスに擦り寄って、小声で問い詰めた。
(おい!なんであの体残して新しいやつで来たんだ!)
「今の我には遠くにいるダミーに繋がるのは困難だ。近くにあるダミーに繋げてここまでは来られるが、長くは持たない」
今日もミシマが自ら出したのか、昨日と同じ缶ビールを手に持っていたエオスは、イシマルの気性荒しい問い詰めに、呑気な態度で答える。
イシマルはそんなこと訊いてるんじゃないと大声を上げてしまいそうになったが、辛うじて我慢し、エオスに言いつけた。
(お前の事情はどうでもいいからてめえのホトケさんなんとかしろや!)
エオスがいくらダミーとか言っていても、血肉でできている体に違いないということを確認しているイシマルには、あの倉庫にあるの死体でしかなかった。自分の部屋ではないとしても、あの倉庫の中身を誰かに見られでもしたら、寝床を失う程度の騒ぎでは終わらないことを知っているからナーバスな反応を見せているのだが、エオスはそんなイシマルの言葉が全くの心外だという顔で答えた。
「どうも出来ないが?」
「こいつマジで使っかえねえ!」
結局、倉庫の死体に関する問題は解決できないまま、現状維持ということで見送りされた。
恒例になりつつある一悶着の後、今日も帰る気がなさそうなエオスが疲れているイシマルに今日の首尾を聞いた。
上から目線で話すエオスの態度に堪忍袋の緒が切れそうになるイシマルだったが、今暴れてそのまま寝てしまうと明日も無駄骨を折りそうな予感があったので、大人しく今日の結果を報告した。
「食べ物はだめだったのか」
「ああ振り出しだよ、ちくしょ」
「メンドーな子だな~」
狭い部屋でビールを飲みながら無縁といってもいい子供に対して愚痴をこぼす三人の大人。酒の勢いで話は弾んでいくが、中身のない会話だけが続いていた。
そんな中、ヤミポルに近づくのはひょっとしたら思った以上の難題ではないのかと、イシマルが弱音を吐きそうになってるところ、エオスがイシマルに訊いた。
「明日は女装を試すのか?」
質問の形をしてはいたが、彼女の言葉は明日のイシマルが取るべき手段を指定するようなものだった。しかしエオスが提示した方法というものが昨夜の酔話の途中に交じった冗談にしか聞こえない話だったので、イシマルは目の前の悪魔の酒癖が戯言上戸ではないかと怪しくなった。
「その戯言覚えてたのかよ」
「?戯言で言っていたつもりはないが」
どこに戯言の要素があるのかと聞き返すエオス。彼女が冗談を言ってるのではないと気づいたイシマルはエオスの正気を疑っていつものように憎まれ口を叩こうとしたしたが、エオスが先を越してイシマルに言い放った。
「なぜ女装をためらう?」
「そんなの決まってんだろ、馬鹿らしいからだよ!」
話にもならないと、イシマルはこの話題を終わらせようとしたが、エオスはやけにしつこくイシマルに問い詰めた。
「時間がないのに、そんな理由で手段を選んでる場合か?」
「てめえ、もっともらしいこと言ったらなんでもやると思ってんのか!」
痛いところをついてくるエオスに反発するイシマル。
エオスの言う通り、メンツがどうこう言って選り好みをしている場合ではないのは事実。だがいくらなんでも女装はないと思っているイシマルはその提案に頷くことができなかった。
「女装をするデメリットは、貴様が成功して得る報酬よりも大きいのか?」
「……」
即座に答えられなかったイシマルは、エオスの言葉に飛躍があることに気づいてハッとした。
「いやいや、女装すると成功するような言い方でごまかすなよ!成功する保証なんかどこにもねえだろ!」
「他にいい方法はあるのか?」
「……」
またしても沈黙するイシマル。
今度は彼女の言葉に飛躍を見つけられなかったようで、彼は。
「とにかうやらん!!」
・
・
・
「個人の性癖に口を出すつもりはないのだが……」
翌日、ひらひらしてるスカートと、女のブレーザー、ウィッグを被って化粧までしたイシマルの姿に、老人はたまげたと嘆息を漏らした。
「違う」
とりあえず否定するイシマルだったが、何を否定しているのかは彼自身も確かではなかった。
ただ、この事態になることを容認した自分に後悔の念だけが彼の中に残っていた。
「うふふ、とっても可愛いわ!さて、写真写真!」
タカネはこれ以上ない笑顔でイシマルの女装姿をスマホで撮影していた。
女装をすると言っても女の服を調達先が限られているイシマルが選んだのが、差し入れを持って店に来ていたタカネだった。イシマルの新しい作戦を聞いて爆笑したタカネは、その女装姿を撮らせてくれるなら協力してやると条件出し、他に頼れるところもなかったイシマルはその条件を飲んで現在に至る。
「もういい。さっさと行って終わらせてやる」
やけになったイシマルはもうなにも怖いものはないと、ヤミポルを探しに控え室のドアを開けた。
羞恥と後悔が臨界を超え、イシマルは逆に開き直って堂々とヤミポルを探し回った。その堂々とした様は、店内のスタッフ達も女装をした不審者が歩き回っていても止めることが出来ない気概。
そうやって店内を闊歩したイシマルは、入り口近くの、人のない廊下の奥で、ちょうど店内に降りてきていたヤミポルを見つけた。
イシマルは歓喜の顔でヤミポルに近づく。
「へへへお嬢ちゃん、悪いようにはしないからちょっと話そうぜ」
「ひ、ひいっ……へ、へんたいしゃん」
女装のせいか、ややハイテンションになっているイシマルは、どこかの小悪党―元々小悪党のような性格ではあるが―の真似事でもするような気持ち悪く笑いながらヤミポルを追い込む。
その姿は見紛うことのない卑猥な犯行現場の真っただ中。誰かがその現場は通り過ぎるなら間違いなく通報されるような状況にしか見えないもので、たとえばこのように、
「おい、そこでなにしてる?」
「?!」
後ろから低い男の声が聞えるて来ると、現行犯は自分の状況を客観的に理解し、その罪の重さでその場に固まっていしまうのだった。
「ここにカマが入ったって話は聞いてねえがな……キサマ、なにもんだ?」
固まったイシマルを振り向かせた男は、イシマルも面識がある者。クラブソドマに初めて来た日、タカネと一緒に店に入ってきた顔に傷がある男だった。
イシマルはタカネが彼をクマガイと呼んでいたことを思い出した。そしてヤミポルをこの店に連れてきたのも彼という話も。そして彼は、そのヤミポルに女装をしたまま犯罪臭が漂うようなセリフで迫っていたことを自覚し、冷や汗をかいた。
前回のように、運良くタカネが現れたりしないか期待してみるイシマル。しかし彼女が現れる気配まったくなかった。
「聞こえねえのか?」
質問に答えないイシマルに不機嫌な声で詰め寄るクマガイ。
その威圧感に怯んで言い訳もなにも思い浮かばなかったイシマルは、足掻くことを諦め、率直に答えた。
「ええと、清掃員、です……」
どうにでもなれと、ありのままを言ったのが功を奏したのか、クマガイはイシマルの言葉を聞いて無表情な顔で黙り込んだ。
「……そうか」
相変わらず無表情な顔でイシマルの言葉を受け入れるクマガイ。
女装をして清掃夫を名乗るイシマルの違和感に答えを出したように見えなかったが、それ以上詮索する気はないようだった。
それからクマガイは、イシマルがを予想もしなかったことを聞いてきた。
「それよりあんた、ここで子供を見てないか?」
この店で子供と言えばヤミポル以外にはない。イシマルは自分がヤミポルに迫っている姿を見て声を掛けたはずなのになんでヤミポルを探すのかと疑問に思い、少女がいるはずの後ろを向いた。
しかしどうしたことか、そこにはホコリが溜まっているだけ。
いつもながら見事の手前。心の中で満面の笑顔になったイシマルは、このときだけはヤミポルの忍者っぷりを心底褒めた。
そしてまだ生き残れる道があると、希望の光を見つけた彼は、恥ずかしげもなく答えた。
「いや、見てませんね」
「そうか」
豹変したイシマルの態度は疑って問い詰めてもおかしくなかったものなのに、クマガイは見ていないというイシマルの言葉を素直に信じてその場を離れた。
どうにか危機を乗り切ったイシマルは、汗に蒸らされたウィッグをとって、胸を撫で下した。
「やばかったな……」
クマガイに出会って女装のハイテンションも収まり、完全に自分を取り戻したイシマルは、とりあえずその日の作戦は放棄して大人しく清掃作業だけ終えて店を後にした。
そしてその日の夜。
「まあ、そうなるんじゃないかとは思ってたな」
イシマルから事情を聞かされたミシマはそんな感想を残した。
どうしたことがエオスはこの日はミシマの部屋に現れなかったので、行き場のない怒りに悶々としていたイシマルはミシマに八つ当たりしようとしたが、彼のドロップキックをすんでのところで避けたミシマはイシマルを止めて新しい話を持ち出した。
「タンマタンマ!僕もいい作戦考えたんだぜ?」
ミシマという人間をよく熟知しているイシマルは訝しげに彼を凝視したが、聞いてからでも八つ当たりをするには遅くないと判断して、とりあえずミシマの話を聞くことにした。
「聞いた通りなら、そのヤミポルって子は気が弱いんだろ?ならヘマするように仕込んで、その弱みに付け込むのってのはどうよ?気弱なやつらは大体罪悪感も強いから逃げはしないと思うわな」
「鬼蓄かよお前……」
ミシマの作戦は彼の卑劣さがそのまま滲み出ているようなもので、さすがのイシマルも呆れて言葉を失った。
「いい考えだと思うけどな……僕はこれ以上は思い出せないから寝るわ」
「ちょっと待てよ」
ベットに潜り込もうとするミシマを止めて、イシマルが訊いた。
「どう仕込めばいいと思う?」
・
・
・
床掃除という名目で、降りてきたヤミポルを指定された場所にゴカイドウが誘導する。その場には事前にちょっとしたピタゴラ装置で洗剤が入ったバケツを倒れやすいように設置し、その引き金をヤミポルが引くようにする。後はぶち撒かれた洗剤を作業服のイシマルが身で受け止め、ヤミポルに罪悪感を植え込む。
「とんだ鬼畜っぷりだのう」
イシマルから作戦の概要を聞いたゴカイドウが、呆れ果てた声で言った。
「ああ、俺の友達ながらたいしたやつだよ」
「いや、それを実行しようとする君の方がよほど鬼畜に見えるが」
イシマルは老人の非難は物ともせず、不敵に笑った。
朝から快便に続き、一度も信号に掛からずに店につくなど、今日のイシマルはツキが良かったのだ。イシマルが気難しく思うタカネも差し入れだけ渡した後、用事があると店を出て行った。天の助けとしか思えない偶然に、最初は本物の神が関わっているのかと、鳩を注意してみたりもしたが、道端の鳩達が人に変わるような気配はなかった。
そして安心しきったイシマルは、これは成功を暗示するに違いないと自信に満ちていた。
「誘導だけは確かにやってくれよな」
「まあ、美味しい差し入れに免じてそれくらいはするがな……」
やれやれと頭を振るう老人を後にして、イシマルは早速準備に取り掛かった。
それから約二十分後、
「よし、準備はできた」
完成した代物を見て、イシマルは我ながら良い出来だと満足した顔を見せた。
彼が完成させたブービートラップもとい、ピタゴラ装置は、角を曲がったヤミポルが足元に設置されていモップをを踏んだり蹴ったりすると、装置で繋がった洗剤入れのバケツ―劇的効果のために装飾物の上に置かれている―が倒れ、その中身を盛大にぶちまけるという単純なもの。
場所はヤミポルの罪悪感を倍増させるために店のフロントからもよく見える中央廊下にした。クラブソドマの地下営業場の間取りは少し珍しく、入り口を下の頂点とした菱形をしていた。菱の周と対角線が廊下となって、上の頂点には控え室、控え室の右の斜辺の中間辺りにビル内に続く階段への通路があった。この階段が普段ヤミポルが店に降りてくる時使っているもので、ここから降りたヤミポルはまず控え室に向かう習性があった。だからイシマルは交差点のやや上の方に罠を設置し、ゴカイドウを使ってヤミポルを回り道にさせ、交差点の角を曲がるその瞬間を狙うことにしたのだ。もちろん他の人達引っかかると大変なことになるが、床掃除ということで中央廊下には通行を制限しているため、入り口のからではなく、ビル内の階段から直接降りてくるヤミポル以外には、装置に引っかかる心配もなかった。たまには店の関係者が階段から入ってきたりもするとゴカイドウがイシマルに注意したが、この一週間、それを目撃していないイシマルは、考慮するほどでもないと判断して無視した。
準備が終わり、残るはヤミポルの登場を待つだけ。なにもかもが完璧だと、イシマルは盛り上がっていた。
だがそれは彼の勝手な思い込みで、現実はそう完璧ではなかった。
期待に満ちて少女の足音だけを待っていたイシマルは、注意を向けていたところとまったく別の方向から足音を聞いてとっさに振り向いた。
どういうことか、控え室方からクマガイが現れたのだ。
「なんで道を塞いでる?」
クマガイはイシマルの手前、作戦通りならちょうど洗剤のバケツが倒れるところで止まってイシマルに話を掛けた。
交差点を塞ぐ置物を見て怪訝そうにしているクマガイに、イシマルが焦りながら説明した。
「あ、いや、これは床掃除の途中だったので……」
(くそジジイ!なんで通したんだ!)
予想外の展開に、イシマルはゴカイドウに悪態をついた。
とりあえず床掃除という口実を持ち出したイシマルは腰を低くしてクマガイの様子は伺った。いつ見ても心まで見抜くようなクマガイの鋭い視線に、まさか自慢のピタゴラ装置が気づかれたのかとイシマルは肝を冷やしたが、幸いにもクマガイは床掃除というイシマルの言葉をあっさりと信じて来た道を戻ろうとした。
帰ろうと後ろを向いたクマガイを見て、イシマルはホッとしたが、どこから携帯が鳴る音がした。
電話が掛かってきたのはクマガイの携帯だった。外周の廊下へと戻ろうとしたクマガイは、まだ洗剤の有効はでとどまり、その場で電話に出た。
「もしもし」
(歩けよ!)
いくら心の中で叫んでもクマガイが動くはずもなく、一旦作戦を止めるべきかイシマルが悩んでいた時、また反対側から足音が聞こえてきた。
「けほけほ……」
今度はヤミポルが入り口側の廊下から現れた。
(なんでだよ!)
今日に限って外にでも出ていたのか、なぜかビル内からではなく、入り口から入ってきたヤミポル。
ヤミポルの姿を発見したイシマルはとっさに横の廊下へと隠れた。自分が先に見つかるとヤミポルが逃げてしまうから仕方がなかったのだが、そのおかげでイシマルは作戦をコントロールするすべを失い、事態は彼の手を離れ始めた。
イシマルは苦悩した。今日の自分は確かにツイてるはずなのに、なぜこのようになってしまったのか。
ただ、まだひとつ、交差点を通行を止める置物を見てヤミポルが踵を返すという可能性が、作戦の最後の希望として残っていた。
「あ」
廊下で電話をしているクマガイを見つけたヤミポルは、驚いたような声を出した。そして少女は周りを確認し、自分に向けられた視線がないことを確認し安心したようにため息をついた。
そして、少女は走った。
(うおおおおい!!)
望みを正面から裏切る足音。早いとは言えないが、確実に床を駆けるその音を、イシマルは到底理解できなかった。
いつも周りを警戒してビクビクしながら歩いていたあの小汚い少女が、いったいなぜ、よりにもよってここに来て、走る必要があるのだろう。
イシマルは藁にもすがる思いで、少女が通行止めの置物を見て止まってくれることを願った。いや、そう信じた。
短い時間であったが、彼が見たヤミポルという少女は、通行止めの置物を無視するような子ではない。そうに違いないと、自分に言い聞かせて隠れているイシマルの横を、ヤミポルが髪をなびかせながら通り抜けた。
そう、通行止めの置物など少女の目に入るはずもなかったのだ。
「あ、やば」
これから起こることを全て理解したイシマルが危険を知らせるようにつぶやく。
だが時はすでに遅し、止まらずクマガイを向かって走った少女は、倒れやすそうに置かれているモップに足が引っかかって、そのまま壮絶に転んだ。
「ひゃうっ?!」
「なっ?!」
悲鳴はほぼ同時にあがった。
ヤミポルがモップに引っかかって転ぶと、イシマルの力作はその役目を充実に全うし、バケツの中身をばら撒いた。
洗剤まみれになって、電話も切れてしまったクマガイは、ゆっくりと後ろを向いた。
倒れた痛みで涙ぐんでいたヤミポルも、そんなクマガイの惨状を見て素早く起き上がる。
「お前か……」
「は、はわわ……す、すみましぇん……!」
またやらかしてしまったと、うろたえるヤミポル。
慌てて周りを見渡した少女は、装置に使っていた雑巾を持ってクマガイに近づいたのだが、
「近づくな」
クマガイは近づく少女を突き放した。
「きゃう!」
突き放されたヤミポルが尻餅をついて痛そうな声を上げても、クマガイはただ無表情でそれを見つめるだけで、手を伸ばすことはなかった。
沈黙する二人。
「……ちっ」
まったく起き上がろうとしないヤミポルを見て舌を打ったクマガイは、そのまま店の裏へと去って行った。
そして交差点には、倒れたまま顔も見えないヤミポルと、隠れていたイシマルだけが残った。
「……しく」
静寂に染み込む音。
いつになっても倒れたままにいるヤミポルに近づいたイシマルが、その音の正体に気づいた。
ヤミポルは泣いていたのだ。
「……あ、これでも食うか?」
イシマルが近づいても、ヤミポルは逃げなかった。
彼が晩御飯にしようと懐にしまっていたおにぎり―タカネの差し入れである―をヤミポルに渡すと、少女は無言でそれを受け取った。
一分、それとも十分か。
口を開くことなく、二人はその場に佇んでいた。
やがて涙が収まったヤミポルは鼻をすすって、ぼりぼりと受け取ったおにぎりをかじった。
「話だけなら聞くぞ」
「……うん」
作戦は失敗に終わったが、イシマルはこの日初めて、ヤミポルと口をきいた。
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