僕が煙草をやめた理由
秋来一年
僕が煙草をやめた理由
彼が煙草に火をつけると、甘ったるい香りがぐんと増して、部屋いっぱいに広がった。
前にインド料理屋さんで飲んだチャイのような、独特の甘い香り。
私は彼が、煙草を吸うしぐさが好きだった。
人差し指と中指の間に煙草をはさみ、顔の下半分を覆うようにして煙草に口づける。お互い大人になって、私たちを取り巻くいろいろなことが変わったけれど、この仕草だけは学生時代から変わらない。
そんな彼のいつも通りの横顔を、私は自らの瞳に焼き付けるようにじっと見つめた。
だって、彼の喫煙する姿を、私はもしかしたら永遠に見られなくなってしまうかもしれないのだから。
「どうか、した?」
私の視線に気が付いたのだろう、彼が不思議そうに問いかけてくる。
本当は彼が一服し終わってから切り出そうかと思っていたのだけれど、訊かれたのなら仕方ない。
惜しむ気持ちを抑えつつ、私はゆっくりと、口を開いた。「あのね、私、あなたの彼女でいるの、やめたいなと思って」
◆
彼女からメールがあったのは、昨晩のことだった。
「大事な話があるんだけど、明日あたり会えない?」
LINEというアプリでのコミュニケーションが一般的になったいまでも、僕たち二人は大切な用事がある時だけ、メールでやりとりを行うのが習慣になっていた。
LINEには、保護機能が存在していないから。
受け取り手がのこしておきたいと思った言葉でも、みな一様に流していってしまう。
だからこそ、僕たちにとってメールというのは特別な連絡手段であったのだ。
彼女から届いた久々のメールは、僕の思考を暫し停止させた。
大事な話、とは一体何のことなのだろう。
人間は未来のことを予測するとき、つい最悪の場合と最高の場合のことばかり考えてしまうという。
だからだろうか、僕の頭にはよくない考えばかりが浮かんでは消え、かと思えば完全には消えきらずに、僕の心に暗い影を残した。
どうせきっと、飼っているハムスターが妊娠しちゃってどうしようとか、新しい本棚を買いたいけど組み立てるのを手伝って欲しいとか、大したことのない用事に違いない。
そう自分に言いきかせながら、僕は彼女への返信を打った。
◆
その日の仕事を片付けると、僕はすぐに会社を出て彼女の家へと向かった。
彼女は一般職だから、だいたいいつも定時に退勤しているはずで、二十時過ぎまで毎日残業している僕よりも、先に帰宅しているはずだ。
彼女と出会ったのは、大学に入学したばかりの頃だった。
次の講義の教室の場所がわからなくて戸惑っていた僕を見かねて、彼女が声をかけてきてくれたのだ。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
教室に案内してもらう道すがら、急に彼女が笑い出したときは、僕は何かおかしなことをしただろうかととても焦ってしまった。
話をきくと、なんてことはなくて、僕が彼女のことを上級生だと思って接していたのが面白かったらしい。
だって、その時の彼女はとても大人びて見えたから。
身長こそ僕より数センチ低いものの、まっすぐに背中を流れる黒髪や、意志の強い目、口元に浮かべられた穏やかな笑み、それら全てが彼女を魅力的に、大人びて見せていたのだ。
それから僕たちは、度々講義を一緒に受けたり、お昼ご飯を食べるようになって、ついにはお互いの家を行き来するような恋人同士になった。
思えば、彼女の家に行くのはいつぶりだろう。学生時代は毎日のように会っていたけれど、お互いに仕事が始まってからは会える時間も減り、新人が入ってきたこの四月からは連絡すらもろくに取れなくなってしまっていた。
四十分ほど電車に揺られて、そこから歩くこと十数分、僕は彼女の家にたどり着いた。
小さく深呼吸してから、彼女が一人暮らしをはじめた時に受け取った合鍵を差し込む。
扉の向こうで、彼女は一体どんな表情で僕を待っているのだろう。彼女は感情が表情に出やすいから、僕は緊張しながらドアノブに手を掛けた。
しかし、僕の緊張とは裏腹に、彼女はいつもどおりの様子で僕を迎え入れる。
「いらっしゃい。お仕事お疲れさま。ごめんね、今日は急に呼び出しちゃって」
「いや、それは大丈夫だけど」
それより大事な話って、問いかけるより先に彼女にソファを勧められてしまって、僕はタイミングをのがした。
「おなかすいた? ごはん食べる?」
僕から受け取った背広を手際よくハンガーに掛けながら、彼女が問う。
「え、あぁ、食べたい」
大事な話とやらの正体が気になってしまっている僕は、思わず反応に遅れた。
けれど、それには何も反応を示さないで、彼女は何やら用意してくれていたらしい料理を温めはじめる。
「パスタだから、ちょっと茹でるのに時間かかるかも」
なんて言いながら、あくまでいつも通りを崩さない彼女。
そんな態度をとられては、僕もいつも通り振る舞うよりほかになくて。僕は味もわからないままに、彼女が用意してくれた料理をただただ口へ運んだ。
食事を終えて食器の片付けまで済ますと、僕は彼女に一言断ってから煙草に火をつけた。
オーソドックスな煙草と違って缶に入っているそれは、スパイスのような独特の香りを放つ。
甘い煙が肺いっぱいに広がった時、不意に彼女が僕の横顔をじっと見つめているのに気づいた。
その瞳はどこか思いつめているようで、引き結ばれた口元からは隠しきれない緊張が滲んでいる。
いよいよ、なのだろうか。
「どうか、した?」
こちらの緊張を、余裕のないことを悟られたくなくて、精一杯普通を装って問いかける。
すると彼女はゆっくりと口を開き、そして――
◆
「えっ」
彼が目を見開く。
いつの間にか随分と長くなっていた灰の部分が、牡丹のようにぼとりとまとめて机の上に落ちた。
「ちょっと待って、それってどういう」
言いかけた彼の言葉を遮るように、私は言う。
「それでね、お嫁さんに、してほしいの。この子のためにも」
言いながら、お腹を慈しむようにさする。
そして、彼の反応が気になって、けれど顔を上げるのはこわくて、上目遣いでちらと表情を窺った。
目も口も開いたまま、完全に停止している彼が視界に入った。
彼はよく私のことを感情がすぐ顔にでるとか言うけど、彼の方が分かりやすいんじゃないかと思う。
いつ言おうか、なんと言おうかと、ずっと悩んでいた。
生理がこなくなって、まさかねと思いつつも薬局に行き、恥じらいながら検査薬を買った。調べて、赤い棒が縦向きに書いてあって、何度も何度も使い方の紙を確認したけど間違ってなくて。
それでも信じられなくて産婦人科に行ったら、「おめでとうございます」と言われて。
怖かった。彼がどんな反応をするのか怖かった。
まだお互い二十四で、やりたいことだっていっぱいあるだろうし、まだまだ遊びたいと思っているかもしれない。
いつか結婚できたらいいね、なんて言い合うことはあっても、それは子供が将来の夢を語るような無邪気なもので、まさかこんなに突然差し迫った問題になるなんて思ってもいなかった。
話をしたくて電話をかけても、会社の新入社員歓迎会だとかで出てくれないし。気づいてほしくて今まで毎日送っていたLINEを送るのをやめても、何も言ってきてくれなくて。
そのうちに、だんだんと腹が立ってきた。
なんで私ばっかりこんなに悩まなくちゃならないんだ、と身勝手な怒りを覚えたのだ。
だから、これは私の意趣返し。
ちょっとした仕返し、なのだった。
「ねぇ、指、燃えちゃいそうだよ」
先ほどから私の顔を見るばかりの彼は、一瞬私の言葉が頭に入ってこなかったようで、
「え、ぅっ、あ、あっち」
と、フィルターまで迫っていた火に指を火傷させられていた。
そんな彼のしょうもない姿をみていると、緊張していた私が馬鹿みたいに思えてくる。
思えば、彼と再会した時も、こんな風に眉を八の字にして、情けない表情を浮かべていたっけ。
彼と出会ったのは高校三年生、大学の入学試験の日だった。もっとも、彼の方は覚えていないみたいだけど。
その日、前日の夜まで勉強をしていた私は、あろうことか消しゴムを机の上に忘れてきてしまったのだ。
泣きそうになる私に、「よかったら、つかって。僕、三つ持ってきてるから」と声をかけてくれたのが、隣に座っていた彼だった。
だから、そんな私にとって救世主とも呼べるような彼が、泣きそうな顔で講義棟をぐるぐると行ったり来たりしているのを見かけて、そのまま教室まで案内していたときは、思わずそのギャップに笑ってしまったのだった。
目の前の彼が、あの日の彼に重なる。
ふふっと、思わず笑うと、彼は気まずそうに顔を逸らした。
「あの、さ。こんな僕なんかでいいの」
おもむろに、彼がぽつりとつぶやいた。
「なんでそんなこと言うのよ」
「だってさ、こんなにかっこ悪いし」
説得力たっぷりの言葉に、私はまたしても小さく笑いそうになってしまった。
あのねえ、と前置きしてから、彼の目を見て伝える。
「かっこよくないから、いいんじゃない」
そう言ってほほ笑むと、彼はきまりが悪そうにしながらも、
「こんな僕でよければ、よろしくお願いします」
と、返してくれたのだった。
◆
「大事な話があるんだ、明日あたり会えないかな」
そんなメールを彼女に送ったのは、昨晩のことだった。
この前は、驚きすぎて、あまりにも恥ずかしいところを見せてしまった。
だって、それほどうれしかったから。
てっきり別れ話を切り出されたと思った僕は、彼女からの突然の告白に思考が全く追いつかなくなってしまったのだ。
彼女とこれからも一緒にいられるのがうれしくて、彼女と家族になれるのがうれしくて、彼女と一緒に新しい家族を育てていけるのがうれしくて。
けれど、どれもあまりに突然だったから、喜びよりも先に驚きが来てしまったのだ。
だから、今日は仕切り直しだ。
彼女はかっこよくないからいいとか言っていたけれど、やはりプロポーズは自分からしておきたいし。
いつもの癖で鞄の中をあさってから、見慣れた赤い缶が入ってないのを思い出した。
そうだ、禁煙していたのだった。
煙草の煙は子供によくないだろうし、結婚するための資金も貯めなくてはならないからちょうどいいと思って。
鞄の中に突っ込んだ手に、煙草の代わりに小さな箱が当たるのを感じた。
普段あまりアクセサリーの類を着けない彼女だけど、気に入ってくれるだろうか。
そんな一抹の不安を、小さく首を振ることで打ち消す。
準備は万端だ。なんて言葉で切り出すかも決めている。
隣に座る彼女に、僕はこう切り出した。
「あのさ、僕、君の恋人でいるの、やめたいなと思って」
END
僕が煙草をやめた理由 秋来一年 @akiraikazutoshi
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