成功のビジョン

自分の成功をイメージすることができない。


Twitterで流れてきたありふれたゲームの広告。

PVの出来が良いので制作陣を見てみると高校時代の友人の名前が入っていた。


高校生の時分に私はコンピュータ同好会に所属していた。

高校の正式な同好会ではあったが、まともな活動はほとんどやっていない。

毎日コンピュータ室でだべっていただけで、私自身プログラミングが出来るわけでもない(真面目にやっておくべきだったと今にして思うが)。


そいつも私と同じく毎日コンピュータ室に来ては適当にゲームの話をしながらだべっていた。そいつはゲーム業界で働きたいと思っていて、何度か自作ゲームの構想を私に話してきたことがあった。


その度に私は「じゃあこんなところでだべってないでプログラミングでも学べば?」とツッコミを入れていた。


少なくとも当時の彼と私のスキルに大きな差はなかったはずだ。運動や学力も私と同じように平均をさまよっていた。


それなのに、あいつはずっと妙な自信を持っていた。自分のゲームの構想を話すと決まって


「絶対面白いって、発売したら大ヒット間違いなし。」


と締めくくるのだ。


当時の私(今もだが)には意味が分からなかった。


ゲーム業界なんて非凡な才能がごろごろいる業界じゃないか。

幼い頃からプログラミングしてきたエンジニアや美大・芸大卒のデザイナー、アイデアが泉のように湧いてくるプランナー、コミュ力お化けのプロデューサー、そんな人たちが身を粉にして働いてやっとできるのがゲームだ。

そしてその中からヒットと言われるのはごく一部。


そんな業界に、毎日だべっている自分たちが、どうこう言うのはあまりにもおこがましい。高校生特有の全能感など当時の私は全く持ち合わせていなかった(きっと一生手にすることはないだろう)。


ただ、それでも当時の私は彼の妄想を荒唐無稽な夢物語と言って無視することはできず、毎回最後まで聞いてしまうのだ。


彼ならその妄想を現実にしてしまうのでは?

心の片隅にそんな思いがあったのかもしれない。


そしてそれは現実になった。


高校卒業後は1度も会っていないが、もしもう一度会う機会があったら自信満々に「な、言っただろ」と得意げな顔してくるのがありありと想像できる。


私はどうだろうか。


当時は私もこういうゲームがあったら面白いんじゃないかと妄想することはあった。そして、私の作ったゲームが商品になるところまでは何とか想像できた。


しかし、その先の商業的にヒットしているイメージがどうしても持てなかった。


浮かんでくるのは


スタッフが途中で失踪して予定日に発売できない

在庫の山の中で赤字に苦しむ

世間からバッシングされ心を病む


そんなイメージだ。


制作者がヒットを想像できないゲームを他人がやって面白い訳がない。

私の妄想はいつもここで終わる。


高校時代の私と彼に差があるとすればここだ。


ゲームに限らない。

仕事でも家庭でも成功して幸せに満ち足りている自分を想像することができない。


「人は想像できることなら何でも実現できる」


とは誰の言葉だっただろうか。


これは裏返せば「想像できないことは決して実現できない」ことを意味しているのではないだろうか。


それが真実であるならば、私は永遠に幸せを得ることはできず、失意のうちに生涯を閉じるのだろう。

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