賭け

私は自分の人生を壊すのが得意だった。


いつも、あと少しのところで踏ん張れない。


ここさえ乗り越えてしまえば明るい未来が待っていると頭では分かっていても、うまく行動に移すことができない。


一生懸命育てた植物に収穫目前で火を放つような愚行をずっと繰り返してきていた。


学生の時分はそれでももう一度頑張ればリカバリーもできたが、年を経るに連れだんだんと取り返しが効かなくなるようになった。もう一度やろうという気力も失せてくる。


小さなことでもコツコツとやれば大きな自信につながるとよく言うが、小さな失敗でも何度も繰り返せば、他人からはなんてことのない失敗でも当人にとっては大きな絶望へと変わる。


私は恐れている。いつか残りの人生をかけても取り返しのつかない大きな失敗をするのではないかと。


その失敗をするのは明日かもしれない。そう思うと新しい行動など何1つできなくなるのだ。しかし、行動を起こさなければそこに待っているのは緩慢な死であることも分かっている。


要はすでに詰んでいるのだ。私の人生は。


このような思いを抱きながら外では真人間のように振る舞わなくてならないことに、ひどく苦痛を感じる。


むろん、どんな人間も外には外用のペルソナを被るものだ。しかし、その仮面の厚さは人によって異なるは。私の仮面はあまりにも肥大化し過ぎているのではないだろうか。肥大化した仮面によって私の人格は押しつぶされようとしているのではないだろうか。


心の底から笑えたのはいつだったか。

青い空、白い雲を美しいと思えたのはいつだったか。


私は職場で談笑する。

窓から差し込む夕日に見とれているような素振りも見せる。


しかし、それは私のペルソナが見せている行動であって私には直結しない感情なのだ。私はそれが心底気持ち悪い。


全ての感覚が薄っぺらいのだ。まるで、私という見ず知らずの人間のドラマを外から眺めているような。


悲しいことや嬉しいことが起こると、視聴者にもその感情が伝わる。しかし、それによって視聴者の感情が完全に覆われるわけではない、私が日常で得る感覚はまさにただの視聴者なのだ。


自分の人生であるはずなのに、自分の人生の傍観者でしかない。いや、これは正確性を欠いた表現だ。喜や楽といったポジティブな感情は私には届かないが、悲や哀といったネガティブな感情は私にも届いてしまっている。


結果、私は生きているだけでネガティブな感情が蓄積され続けている。


だから、私にとってはこの生に意味がないのだ。


生への執着が薄れてきている。


かと思えば、死を恐れてたまらなく生に執着するもともある。


見苦しく、不格好に、今まで生きてきたことを悔いながらも、ほんの少しの希望が未来に残っている可能性に賭けてみたくなる。

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