裏打ちされた自信
私が憧れて止まない人たち。
彼ら彼女らには裏打ちされた自信がある。
それはそうだ、実際に実績がある。
彼ら彼女らは自ら選択し、自らの努力によってその実績を、成功をつかんできた。
そんな人間からすれば、私のように何もやりたいとがない、不満があっても決して行動を起こさない人間は奇妙に写ることだろう。
そう、いつも彼ら彼女らは正しくて私が間違っている。
彼らが幸福な人生を送る一方で私が不幸な人生を歩むことに疑問の余地はない。当然だ。
彼ら彼女らは周りの人々に希望を与え、ゆくゆくは多くの人を幸福へと導いていくのだから。
一方の私は、自分さえも幸福にすることができない。ましてや、他人に何かを与えることなどできないのだ。
せいぜい私にできる事と言えば日向に隠れて彼ら彼女らの邪魔をしないことのみ。世の中には彼ら彼女らの邪魔をする輩も大勢いる。そんな存在に比べれば私はまだマシだと言える。こんなことでしか、自分の存在意義を確認できないのは恥ずべきことであるが、現状がそうであるので致し方ない。
なぜ私は彼ら彼女らではなかったのだろうか?
彼らは何も特別なことはしていないと思うのだ。
ただ、自らの歩む道の選択をしてきただけ。
なぜ私にはその力がなかったのだろう。
彼ら彼女らにとってはきっと簡単なことなのだ。何しろ自分の意見を言えばいいだけなのだから。
しかし、そうでない者にとって自らの人生を選択することは非常に難しい。
端から見れば私のような者は明らかに滑稽だ。私自身そう思う。しかしながら、私は彼ら彼女のようにはなることができない。
なるための努力もせず、という声もあるだろう。確かに客観的に見れば何も行動を起こしていない時点で、そもそも彼らに近づこうとする努力さえ怠っているように見えるかも知れない。
違うのだ。
私だって彼ら彼女らに追いつこうと必死でもがいた時期はあったのだ。実際には小さな行動に移したこともあったのだ。
しかし、それは他人が見て分かるほどの行動ではないし、その結果として得られるものは何もなかった。
結果が出るまで続ければいい、という誹りあるいは励ましを受けるかもしれない。しかし、それは机上の空論だ。
人間は機械ではない、while文で指定の条件まで処理繰り返すことなど人間にはできないのだ。
人間には繰り返す限度がある。
回数を増やすごとに、やはり無理なのではないかという思いがどんどん大きくなる。
その不安を振り切るのに必要な気力は回数を重ねるごとに指数関数的に大きくなる。
確かに何度失敗しても挑戦し続け、最後に成功を掴む人間はいる。私はそのような人たちを尊敬する。
しかし、それはあくまで特殊な事例であって、決して一般化できないのだ。
多くの人はあくまで多くの人であり、何者でもないのだ。
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