第14話 せかいのおわり


「はぁ……」


 仁道寺瀬海は壁掛けの小便器前に立ち用を足すと、束の間のひとときを享受する。

 トイレの隅に設置されたスピーカーから流れる優雅なクラシックは、モーツァルトの“フィガロの結婚”の序曲。開幕パレードの真っ只中にいるような華麗な曲が、彼に爽やかなやすらぎを与え、表情を緩やかにさせる。

 

「──よう、調子いいみたいだな」


 至福の時間に気だるい声が遮ると、全裸の男が隣の小便器に立ち並んだ。

 足音も立てずに現れたその男は、スッとぼけた表情で用を足し始める。


「……なぁ知ってるか? メインストリートの公共トイレにさ、小便で遊べるゲームがあるんだと」


 唐突に他愛のない会話を吹っかけてきた男に、瀬海は興味なさそうに空笑いする。


「アンタもしつこいな。どこのクラスかは知らないが、オレに突っかかるのは筋違いだ」


「俺もお前と同じだ。古文書を見せてもらった」


 脈絡なしに男がつぶやくと、瀬海はピクっとわずかに身を動かす。


「は? なんだいきなり。さっきからアンタ何を……」


 ことさらに平静を装いつつ顔を横に向けると男は銃を構えており、瀬海の眉間にマグナムの銃口を突きつける。


「正直に話そうや」


 男の瞳は拳銃のように無機質でいて、黒鉄のように冷めきっていた。この不審者は間違いなく自分を撃つ。そう瀬海に確信をさせるほどには説得力のある眼だった。

 瀬海は小便を止めて、おとなしく両手を挙げる。


「待ってくれ。オレは古文書なんか知らないし、この変な力は、親父に“お守り”を貰ったからで……」


「どうしてそこで力の話になるんだ? 古文書を見たって言っただけだぞ、俺は」


 はっとした顔になり、慌てて口をつぐむ瀬海。

 その様子に男はかちりと撃鉄を起こして弾倉を回すと、引き金に指をかける。


「とぼけんな。女を愛力から解放しろ」


「……フッ」


 絶体絶命の危機に追い込まれた瀬海だが、彼は不敵な笑みを浮かべていた。

 

「なに笑ってんだよ」


「熱膨張って知ってるか?」


 瀬海は得意げに語りながら身体を男の方に向き直し、開けっぴろげのチャックを見せる。


「──まさか!?」


「そういうことさ」


 男は青ざめた顔でとっさに後方に飛び距離を置いた。その隙を突いて瀬海は「しめた」とチャックを締めて走りだす。


「あっ、卑怯だぞ」


「くだらない! そんな下品なこと出来るかっ!」


 男の物言いに捨て台詞を吐くと、猛ダッシュで角を曲がりトイレを後にする。


「よし、なんとか──」


 危機を乗り切りトイレを抜け出たが、難を逃れたわけではなかった。


「なぁんだ、逃がしちゃったんだ……ちょうどいいけど」


 そこには、褐色の肌をした白髪の美女が待ち受けており、目が合うと彼女は意気揚々と笑って両の拳を合わせていた。それだけではない、彼女を中心に学園中の女子が群れをなしており、左右の渡り廊下への退路を塞いでいたのだ。

 どの女性に視線を流しても瀬海に対しての怒りをみなぎらせており、もの凄い剣幕で怒鳴り上げてくる。


「モンちゃん……でいいよね。しっかり捕まってて。やっつけちゃうから」


 独り言をつぶやく白髪の彼女を見ると、頭頂部のぴんと立った毛に純黒の四角い物体がしがみついており、物体の頭と思われる黒石の中央部がぼんやりと紫に光っている。


「あれは、コアボックスか……?」


 瀬海が知りえる従来のものより、だいぶ見た目が改良されており、いくつかのコアボックスで組み合わされたような未知のロボットに、興味津々に目を凝らす。


「さぁて、ラウンド2よ!」


 白髪の女が観念するよう叫ぶと、膝を落とし内股になって、右足を一歩踏み出す。そして両手を逆八の字にすると肩幅の高さで拳を構えた。


「カラテ……こいつ、さっきの」


 ようやく白髪の女が先ほど対峙した仮面の女だと認識する。

 だがしかし、瀬海は揺れない、恐れない、おののかない。なぜならば相手が“女”である以上、彼の辞書に敗北の二文字が載ることは決してないからだ。

 周りに集まった女子も、所詮は烏合の衆。瀬海の愛を前にして人海戦術は無意味。


「アンタ、女だったのか。結構可愛いじゃん。いまは構わないでやるから、おとなしく道を開けてくれたら嬉しいな」


「口説いてる暇があるなら、さっさとかかってきなさい」


 臨戦態勢に入った闘士には、何も言っても無駄だった。獲物を前にした黒い女豹は、軟派な言葉を氷のように冷めた口調で突っぱねる。

 この緊迫した状況に瀬海はニヤリと口角を上げて、熱のこもった拳を固く握りしめる。


「怖ぁっ! もったいないって。知る限りじゃ、2番目にランクインするのに……」


 渾身の力で腕を振るい、滲ませていた手汗を彼女に向けて発射する。


「脱がせたい女になぁッ!」


 白髪の女は両手を手刀にすると、肘の高さを肩の位置で固定したまま右腕を垂直に立てる。その肘に左手の指先を添え、右腕を内側に左腕を外側へ回した。

 円を描く動作を、激流の如く洗練された手さばきでこなし、汚水をすべて弾いて霧散させた。


「マ・ワ・シ受け……見事な」


 息を呑む攻防の末に女子の誰かがつぶやくと、それを皮切りに周りを囲っている女子たちが、どぉっと白髪の女に感嘆の声を上げて賞賛する。

 拍手喝采雨あられ。瀬海の技を完封する人間を初めてみたのか、女として戦友として、彼女はおおいに受け入れられていた。


「矢でも汗でも強酸でも、持ってこいやァ……」


 端麗な小顔から形成される悪魔的な笑み。奥底にあるファイターの魂が目覚めてしまったのだろう、今の彼女にはハエ一匹すら逃がすこともないほど集中している。狂気のはらんだ眼力が瀬海の強固なプライドにひびをいれた。

 

「ちぃ」


 彼女に同じ技で対抗することは愚策だと判断し、近距離に活路を見出すと両手を広げ、身体を低くしながらやにわに駆けだした。

 カモシカのような瞬発力で一気に彼女の懐に入り込むと、自分で自分の足を引っかけて第二の布石を打つ。


「わっ、足が滑っ──」


 故意犯じみた慌て方で前のめりになると、まるで閃光のようなまたたきの一瞬に乗じて、彼女の下半身へと手を走らせる。


「せぇッ!」


 それを彼女は手首にスナップを利かせつつ、俊敏な振り子時計のような動作で瀬海の左手を弾いた。

 たまらず瀬海は痛みに歪んだ顔を見せると、紫に腫れ上がった手首を掴んで後ずさりする。


「そっ、そんな。オレのハレンチは不可避の速攻、どうして効かないんだ……」


「ラストっ!」


 柔らかな声質が生み出す鋭利な叫び。


 くる。とどめを刺しにくる。

 追撃の恐怖が瀬海の脳裏をかすめた時、勝負は決した。

 瀬海は彼女が次の手を出す前に、「ウワァ!」と上ずった悲鳴をだしてトイレに逃げ込んでいった。


「ふざけんな。ふざけんなよ……!」


 悔しまぎれにボヤきつつ、救いを求めて男子の聖域に駆けこんでいった。


「──おかえり」


 すべてを迎え入れる仏の声に、瀬海は言葉を失った。

 バッハの“無伴奏チェロ組曲第一番プレリュード”が流れる中、視線の先には股間に歪みをまといし男が、悠々自適に腕を組んで仁王立ちしていたのだ。


「く、くそ……厄日だ」


 まさに悪夢。

いかんともしがたい事態にまで追い詰められてしまい、ついに押し黙ってしまう瀬海。


「ラウンド3ィ」


ニヤけた男の声が、先に沈黙を破った。




 ターゲットを追い詰めた九十九は、小便器側の荷物置き場にある銃を取り、瀬海に構え直した。


「手は洗ってけよ、モテないぞ」


「ま、待てって! 力の件なら、まだ使いこなせていないんだ。どうやったら止められるのか分からないんだよ! ほら、コレ! これが例の“お守り”な。もういらない、いらない!」


 策を失い銃の前であっさりと降参した瀬海は、ズボンから交通安全のお守りを取り出して九十九に見せると、目を血走らせて個室便所にお守りを投げ捨てる。


「ほら! これで女子が戻らなきゃ、オレは知らない! どうしようもないって!」


「あんだけ好き勝手やって、知らぬ存ぜぬはないだろ」

 

「マジだって! 親父のせいでこんな力に目覚めちまったけど、オレはごく普通の権力者から生まれた、選ばれし男子高校生なんだ。女の子だって、ヘイローを支える一個の命として尊敬してやってる。こんな下品なこと、好きでやってるわけじゃない。好きな人だっているのに……親父に強いられたんだよ!」


「アイツに……」


 九十九は思い詰めた表情になり、ためらいをみせる。

 

「オレは力に踊らされた被害者なんだ! 子供は親を選べない! だから頼む、今回は見逃してほしいんだ! なんとかして解除できるよう親父か、風真さんにやり方を聞いてみるからさぁ!」


 涙ながらに己の不遇を訴えかけると、その場で泣き崩れて土下座をし始めた。清潔に保っているとしても、トイレはトイレ。常人ならためらうその行いに、九十九は彼なりの誠実さを感じ取り、持っていた銃を下すと瀬海の目の前に放り投げる。


「え……」


 ごとッと重厚な音に面を上げると、瀬海の眼前には絶大な力が妖しく光を放っていた。

 

「最後に、銃を拾ってほしい」


 心なしか九十九の声は震えていて、目には涙を蓄えていた。それは哀れな境遇への共感からくる“情け”だと瀬海自身はすぐに理解した。


「キミを信じたいんだ。ただ持つだけでいい。学生のキミならきっと扱えないし、何も起きないだろう。それでいい、それでいいんだ」


「も、もちろん……信頼してくれていい」


「だから銃を取って、それを証明してみせろ」


「わ、分かった」


 静かな口調から放たれる九十九の迫力に圧され、瀬海は言われるがままに銃に手にして、おもむろに立ち上がった。


「ありがとう、チャンスをくれて」


 九十九に礼を述べると、瀬海はやわらかい微笑みを向けてからうつむいた。

 間を置かずして顔を上げると瀬海から笑顔は消えており、神妙な面もちをした彼は九十九を真っすぐ見据えてから、ゆっくりと唇を震わせる。


「……我が心とハレンチに一点の曇りなし……! 全てが『せいぎ』だ」


 そう九十九に伝えると、さっと銃を構えて九十九に銃弾を放つ。


「え……」


 何かが一瞬だけ体を突き抜けた気がする。

 破裂音とともに身体をびくん、と跳ね上がらせた九十九はその疑念を拭うため、己の胸に手を当ててみる。

 すると、びしゃりと冷たい感触が伝わってきた。よく触ってみると、人差し指が入るくらいの穴がぽっかりと空いており、手のひらには赤い液体がまんべんなく付いていた。


「がふ」


「じゃあな」


 血を吐き膝を崩す彼に照準を合わせ、一発、二発と風を裂く追撃で九十九の胸を貫いた。


「拳銃ならハワイで親父に教わったんだ」


 撃たれた衝撃で仰向けに飛ばされる九十九。彼の傷口からはおおげさに赤い液体が噴き出しており、小さなスプリンクラーが出来上がっていた。

 瀬海な銃口から昇る硝煙を吹いて、してやったりの顔で手向けに空の弾薬を九十九の腹にぶちまける。


「──ねえ、大丈夫!?」


 女子たちが銃声に怯えた声の中で、白髪の女が不安げに叫んでいる。

 女と言えど彼女であれば、じきに殴り込みにやってくる。そう睨んだ瀬海は九十九の死体の横を通ってレッドカーペットを歩き、トイレ奥の窓に向かう。


「悪く思うなよ、これは不可抗力だ」


 九十九の恨めしそうな顔を尻目に、窓を開けてそこから飛び降り脱出した。


「ん?」


 かちり。


 校舎裏に降り立った途端、耳慣れない拘束音がした。

 おそるおそる瀬海は視線を右手首にずらすと、手錠が掛けられており、両サイドには警官が二名、にこやかに待機していた。


「危ないもの持ってるね、キミ」


 見下したような目つきで瀬海の持っているマグナムを睨み、警官は冷徹に告げた。


「な、なんで。ここには来ないように話は通しただろ……誰が、何の権利でオレを通報したんだ!」


 状況が掴めず、あたふたと周りを見回す瀬海。

 警官に「歩け」と背中を押されてむりやり歩かされていると、背後から「ピュイ」っと短い口笛が聞こえた。瀬海は反射的に首を後ろに向ける。


 すると、さっき出てきた窓に、九十九が平然として寄りかかっていた。三発撃ち込んだ時の胸元の弾痕も見当たらず、余裕しゃくしゃくと笑っている。


「お、お前……」


「どうして警官がいるかって?」


 目をぎょっとさせている瀬海に、九十九は煽るように両眉をくいっと上げた。


「俺が通報された。全裸になった時点でな……そこに銃を取ったお前がいた。それだけさ」


「……んなアホな!」


 説明をされてもいまだに納得がいかず、瀬海はなりふり構わずに暴れだして警官に抵抗する。


「動くんじゃない、不審者め」


「どう見てもアイツが不審者だろ! ざッけんなッ、不当逮捕だぞ! オレを誰だと思ってる! 誰か親父に連絡してくれぇええ……」


 ミッションを終えた九十九は「やれやれ」とつぶやき、身を翻して背を壁にあずけた。


「見苦しいヤツだ。典型的な七光りだったな」


 ルゥナが慌てた様子で男子トイレに駆け込んでくる。


「──ねぇ! 返事してよ九十九く……もう」


 九十九のいかがわしい部分にあるモザイクが、いちいち緊張感を失わせる。ピカピカに真っ白なトイレに、撃たれた形跡もない九十九。まったく心配無用だった。

 杞憂に終わりルゥナは呆れ混じりにため息をつくと、気力まで抜けてしまったのかへたり込んでしまう。


「早く前だけでも隠してよぉ!」


「よくやったぞ、ルゥナ。モンジュもサーチ助かったぞ」


 彼女の訴えには耳も貸さず、グッと親指を立てて白い歯を輝かせる九十九。


「お役に立てて光栄です」


 そうモンジュは返答しつつ、頭の内部をぼんやりと黄色く点滅させた。


「ツクモ、あなたを誤解していたようです」


 ルゥナの跳ねた毛から飛び降りると、唐突にぺこりと頭を下げて謝罪する。


「なんすか、いきなり」


「てっきり憎しみに駆られて、瀬海様を始末なされるつもりかと……」


「はぁ?」


 モンジュの言葉に愕然とする九十九だが、すぐに腹をかかえて笑い飛ばした。


「そんなことするんだったら、もっと前にやってるっての。俺は何でも屋なんだ、感情任せに仕事はしないのさ」


「……」


 すかした笑顔でキメる九十九を見て納得したのか、モンジュは「なるほど」と手を叩いてから歩み寄り、いつものように九十九の脚から頭頂部を目指してよじ登る。


「えぇ、登らない方がいいよモンちゃん。汚そう……」


 ごみを見るような目で「うぇえ」と顔を引かせるルゥナ。


「キミね、ほんと失礼だよね」


 真顔で指摘する九十九だが、生意気にも彼女はぷいと目をそらした。


 不遇な扱いに少し苛立ちを募らせるが、そんな彼女がいなくして事態は収拾しなかった。九十九もそこだけは素直に認め、本心から彼女に感謝していた。


「にしてもだ。ほんと、色々危険な目に遭わせて悪かったな。さっきもヘマして余計な手間かけさせちゃったし」


 トイレから逃がしてしまったことを気にしていた九十九だったが、ルゥナはその言葉にぱぁっと明るい笑顔を見せた。

 初めてみた彼女の満面な笑み。曇り一つない晴天の空を連想させる、澄みきったものだった。


「ううん、気にしないでよ。さ、みんなが洗脳から解放されたか、確認して帰ろ?」


「ん? そうだな」


 ルゥナは立ち上がると、そそくさとトイレを後にしていく。


「あれ……」


 九十九は肝心な誰かを忘れているような気がしていた。この胸の内のモヤモヤはなんなのか、どうにも霧に包まれていて正体が掴めない。

 そのうちモンジュが待ちくたびれたのか、九十九の額をペシペシ叩いてくる。


「まっ、いいか」


 思い出せないのなら大したことはない、と九十九は開き直り、一歩を踏み出した途端──。


 かちり。


 と、九十九の手首にひんやりとした感触と、どこかで聞いた拘束音が耳についた。

 もしや、と視線をずらすと、案の定手錠が掛けられていた。背後をぎこちなく振り返ると、ふくよかな顔で人がよさそうな警官がすぐそばの窓の向こうに立っている。


「あ、どうも」


 ぺこりと会釈をする九十九。


「どうも、昼間からずいぶん楽しそうだね」


 警官はポリスハットを浮かせて紳士的に挨拶を返すと外に引きずり出し、泣き喚いてあがく九十九を連行する。

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