2:所有権


 時間は止まらない。

 世界中の時計を壊しても、グリニッジ天文台を壊しても、俺たちはヤツをとめることはできない。

 仮にアメリカの大統領であろうが、カトリックの法王であろうが、バロンドールを獲得したサッカーの天才であろうが、時間だけは止められない。ヤツはきっと世界一偉いのだ。どんな法律をもってしてもヤツの独走をとめることはできない。もしかしたら、人生とはヤツとの闘いなのかもしれない。俺たちが夢を成し遂げるのが早いのか。はたまたヤツが俺たちの人生を終わらせるのが早いのか。俺たちはきっと、競争をしている。俺たちは時間と戦っているのだ。

 少なくともこの時、遅刻寸前でダッシュしている俺は、時間と全力で戦っている人間の一人だった。

「ああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ほとんど悲鳴に近い声で叫びながら、「俺」は時間の背中を追いかけていた。どうして俺のクラスの教室は校門からこんなに遠いのだろうか? 階段でへばった同級生を追い抜く。邪魔だ。まだ間に合う。乳酸の溜まった太ももにムチをうち、二段飛ばしで階段をのぼり終える。時間の背中が見えてきた。

 頑張れオガミ。遅刻に負けるな。

 自分で自分を応援し、瞬間最大速度だけ、俺は世界中の誰よりも速くなる。世界の再生スピードが落ちて、自分の体感時間が延びる。上履きの裏側と廊下が擦れてキュッと音が鳴り、大きく前進。空気の流れが自分の走る方向と逆向きに感じる。違う教室に入ろうとする他クラスの担任教師の横をぶつかるギリギリの距離で切り抜ける。チャイムの音が0.3倍速で聞こえ始め、俺はトラック競技のオリンピック選手ばりの勢いで頭から教室に飛び込む。

 チャイムが鳴りやんだ。

 息を荒くし、汗だくになりながら膝に両手をつく。間に合った。教壇の方を見ると、担任の新井アライが不満げな表情で俺の方を見ていた。

「……お前はいつもギリギリだな、オガミ」

「すいません。でもチャイム鳴り終わる前なんでセーフですよね?」

 俺が小さな反論をすると、新井はフンッと鼻を鳴らす。社会人じゃギリギリアウトとか、今直さないとずっと直らないとか、毎日朝一で学校に来て勉強してるカクタを見習えとか、軽い説教をする。俺はヘコへコ頭を下げながら、自分の席につく。

「分かったか?」

「はい」

「ほんとに分かってんのかー? お前みたいなやつがセンター試験当日に遅刻したりするんだぞー」

 俺は最後の新井の発言を無視した。聞こえていないフリ。額にたまった汗を袖で拭い、息を整える。新井はそれ以上深追いすることはなく、朝のHRが始まった。

 高校二年の冬。1月30日。

 センター試験まで残り一年を切り、俺たちはいよいよ進路について真剣に考え始める。

 右を見れば人が変わったように英単語帳を眺めるサトウがいるし、左の席のアユノも予備校の案内をぼんやりと見ている。こんなことは去年までは考えられなかった。勉強しないことがカッコよかった世界が消え始め、何時間勉強したとかそういう話で盛り上がる世界が形成されつつある。高校生活は少しずつ終わりへと向かっており、時間は巻き戻らない。

 過ぎてしまったことは、取り換えせない。

「はい、それじゃHRは終了だ。一限はちゃんと授業を聞くように! 特に遅刻した尾上、お前だ!」

 新井が俺を指さすと、教室が少しだけ沸いた。俺が遅刻した日の恒例行事。ムカつく。

 新井が教室の外に出ると、俺は机につっぷす。勉強だらけの教室を見たくないのもあるが、ここまでずっと走ってきたので疲れた。とりあえず寝たい。

 しかし、世界は俺の睡眠をなんとしてでも妨げたいらしい。誰かが俺の肩を叩いてきた。顔をあげる。

 気持ち悪いくらいによくできた笑顔の男が、俺の真横に立っていた。

「おはよう、オガミくん」

 声を発した瞬間、両隣の女子たちがこちらをチラリと見る。見ているのは俺ではなく、いけ好かない笑顔の色男。

 名前は、"カクタマヒル"。

「ちょっと頼み事があるんだ」

 クラスの人気者からのお願いなんて、そう機会のあることではない。いつもなら話しかけられると少しうれしくなるところだが、あいにく俺は本当に機嫌が悪かった。

「何だよカクタ? 俺は今眠いんだよ」

 面倒なので冷たく突き放す。しかし、カクタはそんな態度にも怯まない。

「相談したいことがあるんだ」

「相談?」

「うん。相談。オガミくんにしかできないことなんだ」

 カクタはそう言って俺の肩に手をのっける。そして言った。

「悪いんだけど、今日の掃除番、変わってくれない?」


 ×××


「また、お前が掃除やってんのか」

 放課後。

 箒で教室の床を掃いていたら、新井が話しかけてきた。

 パシリ、ではない。

 俺は「300円で掃除番を代わる」とクラスの奴らに常々言っているので、塾とか部活とかで外せない用事がある忙しい奴らに代わって教室の掃除をしている。今日はカクタから依頼を受けたので代わりにやっているのだが、新井はそれが気に入らないらしい。

「オガミ、時間がもったいないと思わないのか?」

「別に思いませんよ?」

「きっと後で後悔するぞ? 高校時代は二回も三回もできない貴重な時間なんだ。時間は戻らないんだぞ?」

 床に溜まったほこりをちりとりにかき集める。

「それ、高校生活が楽しいと感じている人のセリフであって、俺みたいに特に楽しいと思ってないならもったいないとは感じないんです」

 集めたほこりをゴミ箱に捨てながら、俺は新井に話を続ける。

「時間が現金化できるなら喜んでしますし、校則で禁止されてなければバイトしたい。つまらない時間は捨てるものなんです」

 新井は不満げな顔を崩さない。

「……お前、前はもっと機嫌よさそうに学校に通ってたじゃないか。どうしてそんなんになっちゃったんだ」

「そんなことないですよ」

 新井は質問を続ける。

「学校が楽しいと感じられなくなったのか?」

 新井の問いかけに、俺は答えなかった。

「それとも、好きな女の子にフラれて学校がどうでもよくなったとか?」

「は!? 別にそんなんじゃないです!」

 顔が少し熱くなった。

 ゴミ箱から溜まったゴミを袋ごと取り出し、袋の先端を縛る。

「それじゃ、ゴミ捨て行ってきます!」

「おい、ちょっと待てよオガミ? 図星か?」

 笑いながら問いかけてくる新井を無視。両手にゴミ袋を持ち、教室から早足で出ていく。

 楽しくなくなった、とは少し違う。

 学校に行く理由が減った、というのが正しい。

 けれどその理由が、俺にとって学校に来るモチベーションのほとんどを占めていたのは、新井の言う通りだった。

 過ぎてしまったことは、取り返せない。

 用務員さんにゴミ袋を渡し、教室に戻ろうとする。第一校舎と第二校舎をつなぐ外の通路を歩いている途中、向かい側から歩いてくる誰かとすれ違った。

 透明感のある石鹸の香り。

 思わず振り返る。

 ポニーテール。小学生みたいな身長。ミントグリーンのカーディガン。

「……アオバ?」

 俺の声に反応し、女の子もこちらを見る。

「……おが、みくん」

 ぎこちない笑顔で。

 シズオカ アオバ。

 合唱部3年副部長。

 去年も今年も同じクラスで、毎日のように話をしていたほど仲が良かった。

「……おお、アオバじゃん」

 俺は少し前のように、話かけようとした。

 ずっと口をきいてないとはいえ、去年までは普通に話してたんだ。

「さ、最近は猫のまめちゃんは元気にしてる? 合唱部の調子は!? ああ!そういえば」

 前みたいに話せば、向こうも普通に接してくれるはず。

「……お、おがみくん! ごめん。急いでるのだ。話せなくてごめん!」

 そんなわけなかった。

 アオバは何か封筒のようなものを持って、向かい側の校舎に走っていった。

 これが、現実。

「そうだよな」

 溜息が出てくる。

 何が”普通に話かければ”だよ。早口で、なんか食いつきそうな話題ないかっていくつも出して、不自然だ。余裕がない。こんな話しかけ方、去年もしたことなかった。

 もう普通に話しかけるなんて、無理だ。

 うなだれながら第一校舎に戻り、階段を上がる。しかし、教室に新井がいることを思い出した。きっとからかい半分で、さっきの話をするに違いない。

「……うわ、面倒くせえ」

 来た道を引き返す。時間をつぶそう。階段を下りて、人気の少ない旧校舎へと向かう。第一校舎にいるとどこかで新井と顔を合わせるかもしれないから、自然とそうなる。だいたいアイツは、必要もないのに何で教室にいるんだ。暇なのかよ。

 旧校舎。階段を上がってすぐの踊り場に足を踏み入れると、上の方から聞き覚えのある声がした。

「話って何?」

 アオバだ。

 俺はサッと、階段の手すり側に隠れた。なんでアイツがここに。

 階段を上がってすぐのところにアオバは立っていた。向かい側に誰かがいる。

 どうやらアオバは誰かに呼び出されたようだ。俺はバレないように、アオバの視線の先を覗き見る。

「うん、まずはそこからだよね」

 こちらも聞き覚えのある声だった。そして、顔を見て驚いた。

 アオバの前には、”カクタマヒル”が立っている。

 人のいない旧校舎。二人きり。突然の呼び出し。これはつまり……

 思わず声が漏れそうになる。もう一度目をこらす。

 カクタが話を始めた。

 少し距離が離れているせいか、カクタが何を言ってるかはうまく聞き取れなかった。しかし、口の形でなんとなく「今日は突然呼び出してしまって」とか「真剣に聞いてほしいんだけど」とか漫画でしか聞かないようなセリフをカクタが言っているのが分かる。俺の体中からぶわっと汗が出てきた。

 学年最強の男が、アオバに告白している。

 今日あいつは、このためだけに掃除番を俺に任せたらしい。

 マジかよ。

 誰に言われるまでもなく、振られろ振られろ、と一秒に百回は念じている自分がいた。

 しかし……相手はカクタだ。

 サッカー部のキャプテンで、勉強もできて、人当たりも良い。

 ……あれを断るって理想がたけえとか、そういうレベルじゃない。

 そして、

「好きです。付き合ってください」

 少しだけボリュームの大きい声と同時に、カクタが頭を深々と下げ、右手を伸ばした。

 口の中が渇き、頭が回らない。

 俺の片思いが、一つの終わりを迎えようとしていた。

 アオバは黙って、カクタの言葉をずっと聞いていた。だまーって、真剣な顔をして、頭を下げた姿をずっと見ていた。沈黙の時間は数十秒。カクタは体勢を元に戻す。

 そして、アオバが、深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 その言葉は、カクタにとって期待していたものではなかっただろう。

「……えっ?」

 喉から声がこぼれた。

 信じられない。

 カクタが、振られた。

 驚くと同時に、喜んでいる自分がいた。ざまあみろ。サッカー部のエースだろうが、学年で一番頭がよかろうが、関係ないのだ。

 あいつがフラれたところで、俺がアオバと付き合える可能性は上がらない。

 それでも、アオバが他人のものにならないという事実が俺には嬉しかった。

「……そっか」

 アオバの言葉を聞いて、カクタはニコリと笑った。

 今思えば、ここが『普通の世界』との分岐点だったのかもしれない。

「――あーあ、今回も失敗か」

 カクタの言葉は、場違いなほど感情の起伏がないものだった。少なくとも、フラれてすぐの男が出せるような声ではない。告白の拒否に対する反応なのに、アイスやガムのハズレ券が出たとか、その程度の落ち込み具合だった。

「仕方ない。

 あまりに淡々とした声。そして不自然なくらいにニコニコした顔は、精神異常者のたぐいの何かを俺に感じさせた。

 何かが変だ。

「……カクタ、くん?」

 アオバの問いかけにカクタは答えない。

 カクタはブレザーのポケットに手を突っ込み、ごそごそと何かを取り出す。手慣れた作業のような動作に、違和感があった。

 カクタが取り出したものはナイフだった。

 ナイフ? 

 カクタは笑顔を崩さず、右手を振りあげる。

 同時にアオバの悲鳴が聞こえた。アオバの視線の先は、カクタの握りしめた銀色の刃。

 意味が、分からない。

 アイツ、振られたからって青葉を刺すつもりか!?

「おいっ!」

 気が付いたら、叫んでいた。

 俺の声に気付き、カクタの手が止まる。目を丸くしてこちらを見る。その間に階段を駆け上がり、俺は渾身の捨て身タックルをかました。カクタが重心のバランスを崩す。旧校舎の二階。廊下に男二人で倒れこむ。

「うがっ!」

「ぶっ!」

 着地に失敗し、顔を床に擦った。いてえ。けどとりあえず、最悪は防いだ。生暖かい鼻血が、顎までダラダラながれる。

「お、『おがみん』!?」

 アオバが俺に声をかける。二か月ぶりの「おがみん」を聞いた。嬉しくて泣きだしそうだ。サムズアップして、アオバに「逃げろ!」と伝える。

「あ、あたし先生呼んでくる!」

 青葉が階段を駆け下りる。相変わらず走り方のフォームがおかしい。が、いまはそんなことを考えてる場合じゃない。

「……、君か」

 カクタがゆっくり立ち上がり、俺に声をかける。今度も? こいつは何を言っているんだ? 

「お前、頭おかしいだろ!? フラれたからって、ナイフで刺す必要ねえだろ!?」

「……最悪だ。最悪の最悪だ。君を刺すのは。でも、他に手はないのか」

 俺の声には、耳を傾けず、カクタは訳の分からないことをナイフの刃に向かって話している。こいつ、今まで分からなかったけどこんなヤバいヤツだったのか? どうしてこんなヤベーやつが、これまで学校に溶け込めたんだよ? 

 カクタが、こちらに近づく。俺に向かってナイフを振りおろす。ナイフよりも、ナイフを振り回すことに躊躇のないカクタが怖かった。人を殺すことに手慣れた動き。必死で俺はそれを避ける。まばたきもせずに、カクタは俺に距離を詰めてくる。

「あぶねえよ! あぶねえ!」

「このっ、君はしぶといな!」

 俺はカクタの腕をつかんだ。ナイフを奪うしかない。腕を抑えようとするが、カクタのほうが腕力も握力も強い。ちっくしょー、それでも気合だ。気合でカクタを押し倒す。しかし、俺もひきづられ転がる。足の引っ張り合いになり、倒れた状態で揉み合う。

「ああっ! うっとおしいな君は!」

 カクタが暴れる。その力があまりに強くて、俺は押し飛ばされる。カクタが立ち上がり、ナイフを振りかぶるのが見えた。

 窮鼠、猫を噛む。

 俺は、カクタの腕にカエルのようにとびかかる。カクタが一瞬ナイフから手を放す。

 宙に浮いたナイフを、俺が掴む。

 取り返そうとしたカクタが俺を乱暴に突き飛ばす。廊下の壁に俺が背中からぶつかる。

 腹に何か違和感を感じた。

 嫌な予感がして、自分の腹部に目線をやる。

 自分でつかんだナイフで、自分を刺してしまっている。

 ナイフを抜いた。

 大量の血がドクドクと腹から漏れる。

「……うっうわああああああああああああ」

 カクタが、よろよろと近づいてくる。俺の腹を見て、目を見開く。

「……マズい。ナイフの所有権が」

 また、わけわかんねえこと言ってやがる。ていうか、ヤバい。死ぬ。絶対死ぬ。え、血がヤバい。

 こういうとき、どうすりゃいいんだ? 保健室? 救急車? いや分からない。え、何? どうしたらいいのこれ? えっ?

 訳も分からず、俺は走った。とりあえず、保健室。第一校舎の保健室だ俺。走るのは得意だろ。間に合うだろ。生きるしかねえだろ俺!

「待て!」

 この状況でも追ってくるカクタ。逃げる。全速力で階段を駆け下りる。

 ナイフを持ったまんま、まわりなんて気にするまもなく、最短距離で。

 旧校舎から外に出たその瞬間。

「あっ」

 物陰から急に現れた誰かをよけることなんてできなかった。ぶつかる。二人で倒れこむ。俺が持ってるナイフが誰かに刺さる。新井だった。新井のそばにいたアオバが悲鳴をあげる。新井がうめき声をあげる。でも、えっ? 頭が、動かない。新井にナイフが刺さっている。誰が刺した? 俺が刺したのか?


 人を、刺しちまった。


 視界に入る映像が白黒に見える。音は聞こえない。後悔と焦りと、腹の熱さで、脳がいっぱいになる。ナイフが人の肉の内側に入る嫌な感触が、やけに手に残っていた。

「面白いことになったね」

「楽しいことになったね」

 二人の女の子の声が聞こえた気がする。

 アオバの後ろに、前髪で目が隠した双子の女の子が見えた。

 何だ、この感覚。

 頭が重くなり、目の前が暗くなる。そして――


 気づけば、教室の中に立っていた。

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