百万回の運命再起動ナイフ
TARUTSU
1:いじめられっ子の覚醒
1
耳をふさいでも、目を覆っても、悪意からは逃げられない。
草食動物を肉食獣の檻に入れるように。
羽虫を蜘蛛のいる虫かごに入れるように。
「教室」は、僕をそうやっていじめる。
例えば、今みたいに。
「ねぇ、カクタくん? 握手してよ」
自分の机で読書をしていた僕に、アユノさんが突然話しかけてきた。脇の下からじわりと汗が流れるのが分かる。逃げたい。隠れたい。だけど、この教室に僕を守ってくれるモノはない。
「カクタくん、聞いてる?」
アユノさんがもう一度僕に話しかけてくる。黒板のすぐ横にたまっていた四、五人の集団が笑い声をあげた。「アユノ早くしろよ」という暴力的な男の子の声が耳に入る。僕は必死で、それが「聞こえないフリ」をした。
嫌な思いをしたくなかったから。
ギュッと。
アユノさんが僕の手を無理やり握った。
顔から血の気が一気に引く。舌が乾き、顔が熱くなり、ふらつくような感覚が僕を包む。
「教室」が笑う。
アユノさんは僕からすぐに手を離し、教室の前方の集団へと走って戻っていく。
「アユノ、お前無理矢理過ぎっ」
「手ぇ握られたときのアイツの顔、見た? キモ過ぎてもう見られなかったんだけどー」
僕は「聞こえないフリ」を続ける。
さっきまでと変わらないようなフリを、平気なフリを。
読んでいた小説は、文字の羅列にしかもう見えない。
「もういいから次、誰が罰ゲームやるか決めようぜ」
オオツカくんが呼びかけると、まわりの人たちが喜々としてそれに応じた。
……そう、そうなんだ。
僕は「罰ゲーム」の対象として、触ったら恥ずかしいモノとして扱われているんだ。
……顔が熱くなった。唇を噛んだ。手を握りしめた。爪が皮膚に食い込んだ。全身が、小さく震えた。
悔しかった。
「ぶははっ、またアユノかよぉ。お前ジャンケン弱過ぎ」
オオツカくんの声を皮切りにして教室に笑い声が溢れた。嘲りの気持ちが教室内に充満する。息が詰まりそうだった。
教室の外へ出るために、僕は立ち上がった。笑い声がピタリと止む。教室が水を打ったように静まりかえる
不幸なことに、出入り口付近を陣取っているのは『オオツカくん』たちだ。立ち上がった僕に彼らは面白いモノでも見るような視線を向けてくる。僕は心臓を掴まれたような気持ちになった。
見るな。触れるな。聞くな。逃げろ。
僕は、自分に言い聞かせた。
うつむいて、「最も後ろ」にある座席から黒板の方へ歩いた。人という人が、僕という存在を避ける。見るな、見るな。足元だけを見ろ。
悪い予感はオオツカくんの隣を通り過ぎた瞬間にした。ほんの一瞬、目を合わせてしまった僕が悪いのだが、彼はうっすら笑みを浮かべていたのだ。
胸の底が冷える。
やめろ。やめろ。やめろ。
教室から外に出るあと一歩のその瞬間。
大塚君が足を引っかけてきた。転んだ。
爆発的な笑いが背後で起こった。
あははははははははははははは……。
「オオツカ性格悪っ」
「何もしてませーん。手は触れてませーん」
「今足伸ばしてたじゃんっ。ウチ分かってるから」
オオツカくんたちの会話が右耳から入り、左耳から抜けていく。
ヒドいことをされているのにも関わらず、僕は何もなかったかのように立ち上がった。そして「転んだことなんてなかった」かのように教室の外へ出る。平気なフリをして外へ出る。
「……またどっかいったよ」
「バカ声デカい」
「こんなことやった後に静かにしたって無駄だろぉ」
「……まぁたしかに」
「背も小せぇし、運動もできねーし、教室の隅っこで黙ーって本読んでて不気味だし。その割には成績はクソだし、あんなヤツいじめられない方が不自然だろ」
教室から聞こえてくる会話は廊下まで響いていた。
僕はその声から逃げるように、少しだけ、歩調を早めた。
×××
冷たい廊下が、僕の前に続いていた。
人工的というか無機質というか、とにかく、のっぺりとした廊下だ。汚れという汚れを取り除き、色とかデザインとか凹凸とかそういうものも全部なくした白い廊下。気味が悪いほど、延々と教室のドアがズラリと並ぶ密閉空間。
これが、僕にとっての「学校」という世界の認識。
足音を立てないように、人と目を合わせないようにして、僕は「逃げ場」へと向かう。改装中のため生徒立ち入り禁止のトイレ。僕の所属する学級から六〇メートル歩いた位置に、それは存在する。ドアを開けて中を確認する。
誰もいないが、廊下と比べて少し暗い。
二か月前から一部の照明が故障中のため、定期的に修理されているのだが一向に直る気配がないトイレ。時間帯によっては誰も中にいないため、ここは僕だけの「逃げ場」として機能している。鏡の前に立ち、自分の顔を見る。
つぶれた鼻、細い輪郭、青白い顔色に、顔の上半分を隠す長い前髪。
全部、全部嫌いだ。自分の醜い顔が、僕は嫌いで嫌いでしょうがない。
中でも一番嫌いなのは、その前髪の奥にある大きな目。
どこよりも深い暗闇にいるような大きな瞳孔は、目の白い部分を喰い、黒い碁石でも貼り付けたみたいだ。醜い。醜い醜い醜い。まわりと比べて酷いこの容姿が、僕には憎らしくてたまらない。
泣きながら、そんなことを考えていた。トイレに逃げ込んでこんなふうに泣いている自分が情けなかった。割れない程度に鏡を殴りつけ、怒りを紛らわす。
何で、僕はこんなに軽蔑されなきゃならないんだろう。
鼻をすすりながら、むしゃくしゃした心を鏡に叩きつける。理不尽だ。クラスで誰かが軽蔑されなきゃならないなら、どれがどうして僕じゃなきゃならなかったんだ。一人だけでもクラスに友達がいるとか、教室の外に居場所があるとか、そういうものくらいあったっていいじゃないか。誰か正義の味方が、クラスのヤツら全員を指さして「お前らは間違ってる」と言ってくれたっていいじゃないか。それが世界に拡散されて、アイツらが謝罪しきれない後悔をするくらいは当たり前だ。アイツらは全員「悪」なんだ。何でそれを世界は肯定してくれない。
「……こんな世界、なくなっちまえ」
頭を掻きむしり、小さく呻く。その場にしゃがみ込み、涙をこぼす。うずくまり、震える。そうやってやり場のない怒りを抑える。静かに縮こまる。いつもならこうやってしているときは一人になれる。
けれど、今日は違った。
ドンドンドン、と誰かがドアを叩いた。マズい。僕は慌てて一番奥の個室トイレに逃げ込む。鍵をかける。入口のドアがぎぃーと開き、バタンと閉まる音がした。心臓が加速し、体中から汗が噴き出る。荒くなる息を必死で抑えようと口元を手で覆った。余計に苦しい。誰だ。オオツカくんか? それとも先生か? どちらにしろ、僕の立場が悪くなることは間違いない。そうならないように、僕は必死で存在を消す。汗の落ちる音すら、聞かれてはいけない。
これから起きるいくつかのパターンの最悪を、脳内で高速再生した。たった数秒で数百の地獄を経験できるほど、嫌なことの想像は得意だ。だけどそうやってしばらくしていたうちに、僕はある異変に気が付いた。
音がしない。
普通、誰かがこのトイレに入ってきたなら、声の一つくらいかけてきたっておかしくない。いいやそれよりも、足音が聞こえたっていいはずだ。だけど、ない。何一つ音がしない。
けれど、誰かが扉を叩き、閉まる音は聞こえた。
……気のせいか?
僕は、外の様子を覗き見するために、震える手でゆっくり鍵を開けた。扉にわずかずつ体重をのせて、恐る恐る扉を開ける。ほんの少しの隙間から外の様子を覗き見る。誰も、いない。
安心して、溜め込んでいた息を吐きだした。なんだ。驚かさないでくれよ。僕は洗面台に向かう。鏡を見る。
僕の後ろに、双子の女の子が映っていた。
ニタァと笑うのが見えた。
僕はただただ、固まった。
それが、この世のものではないと気付いたのは、笑い方の角度が人のそれではなかったからだ。
「見つけてくれたね」
「見つけてくれたね」
声がした。白いワンピースを着た黒髪の双子から。
通常では考えられない異常な現象が起きた時、自然と叫び声が出るものだとばかり思っていたけど、実際には動くことすらできないのだと、僕は知った。
「怖がらなくていいんだよ」
「話しかけてもいいんだよ」
双子は、話を続ける。事態の異常さに理解が追いついたとき、固まっていた体に心の揺れが浸透した。叫ぼうとした。声が出なかった。それどころか、叫ぼうとした瞬間に、鳩尾を殴られたような感覚になり、息をわずかに漏らすことしかできなかった。
「叫ぶことは許されないよ」
「お友達なんて呼べないよ」
目元が熱くなる。泣きわめきたかった。何度も言うが、最悪の想定は得意だ。けれど、これから起きる最悪は全く想像ができない。頭の中は空白で満たされた。そして、僕はしゃがみこんでしまった。
両頬に触れる冷たい手の感触。
薄暗いトイレで、僕の中の時間が止まる。
鏡を見ればきっと双子が僕の頬をなでる姿が見えるのだろう。だけど、実際のその空間には、沈黙しか存在しない。
「安心していいよ」
「安心していいよ」
「「私たちは、あなたの味方だから」」
頬の感触を確かめる。手と手が触れる。自分の手が震える。。
「……あ、あ、あ、あなたたちは何ですか?」
ようやく言葉らしい言葉が口から出た。いつもの僕ならもっと別の言葉が出たと思う。僕の言葉に双子たちは幼い見た目通りの無邪気な笑い声をあげて、話をしだす。
「そんなことを聞いてどうするの?」
「お兄さんが分かると思ってるの?」
双子たちは僕から手を離した。
「じゃあわたしたちからも質問」
「嘘をついたらいけないからね」
耳元に手を当てられる感覚がした。両耳に吐息がかかる。
「「あなたは誰?」」
重なった問いに、僕はこう答えた。
「……カ、カクタマヒル」
自分の名前を答えた。するとすぐに返事が返ってくる。
「そうだよ、カクタマヒル」
「でもそれはあなたじゃなくて」
「「あなたを表す『記号』」」
「それは記号だから」
「あなた、ではない」
めちゃくちゃな理論な気がするけど、この時の僕にはうまく返答するだけの冷静さはなかった。
「それとおんなじだよ」
「それとおんなじだよ」
「わたしが何なのか答えても」
「具体的に何か説明をしても」
「「あなたにはわたしのことはちっともわからないの」」
答える気は、ないようだった。
体の震えが収まり、僕は再び立ち上がる。鏡を見た。双子は僕を見上げるようにしている。
「お兄さんはさっきお願い事を言った」
「お兄さんはさっきわがままを言った」
「……お願い? わがまま?」
記憶を掘り返す。自分の言ったことを思い出そうとした。鏡を殴りつけ、泣きながら僕が言ったこと。
「「こんな世界、なくなっちまえ」」
僕は、黙って双子がいるはずの空間を見つめる。
「思い出してくれた?」
「忘れそうだった?」
「……うん。どちらも正しい」
僕が答えると、双子はまた同じように笑った。
「私たちはお手伝いをする」
「あなたのお手伝いをする」
「「力を、あなたに与えにきたの」」
「ちから?」
それが僕にはよく分からない。
「力が何か?」
「簡単だよ?」
「思い通りいかないことを自分の思い通りにさせる能力」
「反感を持つものをねじ伏せる手段」
「「あなたが、『あなたの正義』を遂行するに必要なもの」」
少女のたちの指先が僕に触れる。
「考えて。これまであなたの前に現れてきた全ての理不尽を」
「考えて。これまで実現できなかった全てのことを」
言葉が、僕の心を誘惑する。
フラッシュバックする教室内の様子、ゲラゲラと笑うアイツらの顔。
「……」
「どうかしたの?」
双子の片割れは僕に問いかける。
「叶えられなかった」
「到達できなかった」
「実現できなかったことを取り戻すことはできない」
「けど、わたしたちは」
「これから起きるであろうあらゆる困難を」
「退けるだけの力を与えることができる」
双子の言葉は、僕の興味を引くのに十分だった。
「力が何か、知りたい?」
僕の態度の変化に気づいたのか、双子が僕に尋ねてくる。両手を後ろに隠す。ウフフと笑いながら、手で握ったものを前に出すのが鏡を通して見えた。
それは、ナイフだった。
「わたしの方は見ちゃダメだよ」
「鏡を見ながら、手を伸ばすの」
言われた通りに、手を伸ばす。少女が僕にナイフを渡すのが鏡を通して見える。そして、指先にナイフの柄が触れる感触がした。握る。
右手を見ると、物体としてナイフをちゃんとそこに存在していた。
「……これは何?」
「これは『巻き戻しナイフ』」
「それは『巻き戻しナイフ』」
「巻き戻し、ナイフ?」
「対象となる人間を刺すと、所有者は現在の記憶を保持したまま、その人間と初めて会った時空間に戻ることができるの」
「戻ることができる? タイムマシン?」
普通、そんなことを言われても信じることなどできないだろう。だけど、この非現実的な状況を前にすると、僕は何を言われても信じられる気がした。
「ただし、条件が存在するの」
「一度だけやらなきゃいけないことがあるの」
双子の少女たちは、そう言って僕にとんでもないことを言う。
「「そのナイフを、最初は自分に刺さなきゃいけないの」」
それを聞いて、僕はすぐに返事を返す。
「……嫌だよ」
当たり前だ。ナイフを自分で自分に刺すなんて、怖くて普通はできない。
そんな僕に、双子は笑いかける。
「無理しなくてもいいんだよ」
「強制なんてしてないんだよ」
そして言った。
「「あなたが『こんなところ』で終わってもいいのなら」」
――あなたが『こんなところ』で終わってもいいのなら。
「……こんな、ところ?」
言葉に引っかかりを覚えた。鏡を見つめ返す。
「……こんなところって、何だよ」
震える声で、怒りを噛み殺し、僕は聞き返す。
「分からない?」
「分かるでしょ」
ナイフを渡した双子の片割れが言う。瞬間何かに抑えられたような力でしゃがまされる。
「あなたの今の境遇のことを言ってるの」
さも当たり前のように言った。ニタリと笑った口に目の焦点が合う。
「教室内の嫌われ者」
「下から数えた方が早い成績」
「笑えるほどにダメな運動能力」
「いじめられてもいじめられても、口には出せない臆病者」
「……黙れよ」
「孤独を埋める友達もいない」
「あなたに近づけば嫌われるから当たり前よね」
「しまいには鏡に向かって話しかける」
「なあ、黙ってくれないか」
僕は言った。けれど少女たちは口を閉じない。膝をついて立ち上がれない僕を上から見下ろす。
「いいえ、黙らない」
「いかにあなたが惨めで弱くて気持ち悪い存在かを理解するまでは黙らない」
「あなた、心の底でいつかこの状況を助けてくれる誰かがやってきて」
「全てを助けてくれると思ってる」
「けれどそんなものは」
「どこにもいない」
「それはあなたの幻想」
「あなたの評価はあなたが変えるしかない」
「周囲の環境を打破し、」
「あなたの不満を解消するのは」
「「あなたにしかできない」」
「うるさい」
「ねえ、この環境がつらくない?」
「この環境を変えたいと思わない?
「みじめな自分を変えたいと思わないの?」
「黙れ、黙れ、黙れ黙れ」
「「このままじゃずっと、この状況は変わらないよ?」」
「黙れだま……かってるよ。わかってるよそんなの」
僕だってわかってる。そんなの知ってる。けれどできないから今、泣いてるんじゃないか。
このままじゃ僕はずっと孤独なのも知っている。
他人からの評価も低いということも知ってる。
誰からも期待されていないのも知っているし、
何の才能もないのも知っている。
――自分じゃないだれかが、僕を助けてくれないことだって、自分でわかってる。
「ならば、賭けに出てみる気はない?」
双子は僕に再び問う。
「「力が欲しくない?」」
鏡を通して、双子が僕に手を伸ばす。そして、僕は考える。
答えはすぐにでた。
「……こんなところじゃ、」
「何?」
「……こんなところじゃ終わらせない」
僕は言った。それは目の前の少女たちに向けたものではなかった。これまでの僕の歴史。これまで僕を支配した環境。そして、この世界に対してだ。
こんなところじゃ終わらせない。ここからが僕の始まりだ。
僕をバカにするクラスのヤツら、悪を肯定し続けるこの世界。変えろ。屈辱と負け惜しみにまみれた僕の世界を改変するんだ。耳を研ぎ澄ませ、目を開けろ。叫べ。何もかもぶち壊せ。やり直すんだ。僕を傷つけるヤツらを一人残らず叩き潰すんだ。そして、すべてを手に入れる……そのためだったら、どんな力でも構わない。
受け入れる準備はできていた。あとは、僕に勇気があるかどうかだ。
もう、迷う理由なんてなかった。
「……自分に、ナイフを刺せばいいんだよな?」
「そうだよ」
「……よし」
息を吸い込む。刃を自分の腹に向けた。息を吐きだす。
全身が熱くなる。心臓が加速する。体の内側をすごいスピードで何かが駆け巡る。怖い。皮膚の表面がじりじりする。だけど、覚悟はもう決めた。
片手で胸を押さえる。震える手足を必死で抑え、呼吸の速度を安定させる。目をつむる。手の握力が強くなる。
ナイフを握りしめた拳。
緊張と恐怖で小刻みに揺れる体。
その距離を、一気に詰める。痛みで目が開く。
そして――
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