第44話 決意

 なんだかんだ言って、時間は経つものである。時間さえ経ってくれるなら、傷はどんどん癒えていく。僕らの暮らしているサロンの中、窓から夜風の吹き抜けるラウンジの中で、僕は熱い紅茶を静かにすすっていた。

 いやー……。

 疲れた。

 あの晩餐会の夜に初めて出会ったときから感じていたマカへの想いは、家庭持ちというどうしようもない現実を前にみごと玉砕と相成った。考えてみれば、考えるまでもない当然の結果だったわけであるが……自分でも本気なのか冗談なのか測りかねていたマカへの好意がまさかこれだけ深刻な痛みに変わろうとは、ちょっと予想外である。それでも、曖昧な恋に敗れたくらいの痛みで一日を無駄にするほど僕も若くない。もちろん飄々と流せるほどに老け込んでもいないわけだが、何はともあれ、引きずりはしない。マカとはこれからも友だちだ。それは揺るぎない。

 それに、この一件をきっかけに、僕は一つ大きな決心をつけることができた。

 なんのことかって、もちろんフーフーのことである。

 僕はフーフーが好きだ。

 今まで僕は、フーフーに対して気持ちの踏ん切りがつけられないでいた。ありえないほど高い競争率と、近すぎる距離感……その両天秤にハートはグラグラと揺れ動くばっかりで、いつまでも曖昧な立場を捨てられないでいた。だけど、曖昧な立場がショックを和らげてくれることはないのだ。マカがそれを教えてくれた。アイドルってのは、どう考えたってそれくらいのブランドである。どうせ諦められないのなら、当たって砕けるしか道はないと、そういうことなのだろう。なんとも浮気者な僕である。

 ……でだ。

 決意したのはいいとして、じゃあ、具体的に何しようか。

 斜め向かいのソファに座って、カップ片手に画集を眺めるフーフーを横目で見ながら、僕はまた一口熱い紅茶をすすり上げた。ラウンジには他に誰もいない。みんなまだ仕事中なのだ。フーフーだって明日は九龍冥婚クーロンメイデンの実プレイが待っていて、やはり緊張しているのかかなりソワソワしている。

 話しかけるべきなんだろう。

 でも、何を?

 参ったな、どうにもやりにくい。意識しちゃったが最後、自然体で話しかけられる気が全くしてこない。彼女が二階の自室から降りてきて、キッチンで紅茶を淹れてからそこに座るまで話しかけるチャンスはいくらでもあったはずなのに……やっぱり可愛すぎるってのも考えものである。ところで、僕は彼女が好きなんだろうか、それとも彼女のアイドルとしての見た目が好きなだけなんじゃないか、みたいな薄っぺらな悩みも奥歯に挟まったネギくらいにないことはなかったのだが、これはすっぱり忘れることにした。アイドルとは才能アーティストの証明、彼女が実力で権利を手にし、自らの意思で選択した彼女の容姿なのだ。僕がそれに気を揉むのはむしろ失礼にあたる。どうせ下心なんてバレバレなんだし、気後れしていても仕方がないか。

 さあ、頑張るぞ。

「ねえフーフー」

「ねえイサミ」

 もののみごとに声が重なった。

「あ、いや、僕のは大したことじゃない」カップを置き、すぐに両腕を上げてからをアピールする。「そっちからどうぞ」

「じゃあ、そうする」ニッと歯を見せて、僕に使い魔のモニターを見せる。「この絵、すごくない?」

 焦点を絵に合わせる。それは多分、雲を突くほどに巨大な塔を正確に真上から俯瞰した絵だった。塔と言いつつも、実際は巨大かつ独特な構造を持つ螺旋都市なのだろう。平たく言えばドリルの溝の上に作られた城塞都市だ。下に行くほど広く拡がっていく渦巻きの上に、どこの文明かもわからないような黄金色の建物が並んでいるのだが、戦時中なのか、方々から火災の煙が上がっている。

 塔の頂上、つまり絵の中央からは、針のように鋭い尖塔がまっすぐこちらに伸びてきている。その周りを飛ぶ鳥の群れの遠近感から察するに、恐らくは都市そのものの高さと同じ程度にバカ高いモニュメントなのだろう。尖った先端を正確に真上から見下ろしている構図なわけだから、描かれ方としては、単純な黒の1ドットでしかない。

 その1ドットの、迫力が凄い。

 どこまでも遠景で描かれた絵の中でただ一点、触れれば届きそうなほど近くに突き立てられた針の先。まるで塔の尖端が絵画世界を突き破り、僕の眉間に直接針を突き立てているかのような現実感に、先端恐怖症でなくとも身震いがした。全体的に幻想的なタッチの絵だからこそ、単純な黒の1ドットが十分なコントラストとなるのだろう。

 不思議なのは、針の現実味を意識した途端、背後の霞んだ都市が立体感を帯び、今度は足がすくむほどの高さへの恐怖が生まれること。まるで、絵本が突然3Dとなって飛び出してきたかのような……否、絵画の世界の中に自分ごと沈み込んでいったかのような深い錯覚に、目がくらむ。

 没入。

 そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。絵心のない僕にもわかるくらい、怪しい魔力を持った作品アートである。

「強烈だね」

「これぞアーティストの絵って感じ」呆れと称賛、そしてそれ以上の憧れと歓びのにじむ表情で、フーフーはため息をついた。「アオリンゴって人の一番最近の作品なんだけどさ……やっぱり本物の絵のアーティスト見ると自信なくすね」上を向いて、もう一度大きなため息を吐き出した。「ほんと、私なんかでいいのかな……」

「明日のこと?」

「うん。私以外はみんなガチのアーティストだよ? なんか肩身が狭くって」

「フーフーだって絵はガチでしょ」とりあえずはそうフォローする。慣例的ではあるが、偽りはない。

「その自信がなくなっちゃった」彼女の笑顔が多少渋くなった。「もちろん私だって絵が下手なんて思ってないよ。でも、やっぱアーティストレベルでは全くないってのが現実かな」ソファの上で膝を抱えて、顔を埋める。「多分、監督とどっこいどっこいかやや下か……」

「監督?」

「あの人おかしいよ。できないことないんじゃないってレベル。さっと描くイメージボードが凄い正確じゃん」

「あぁ、それは確かにそうかもしれない」ある日の会議の風景を思い出しながら、僕はまた紅茶を一口すすった。「……ちなみに、フーフーから見てこの人たちの絵はホントすごいってのは誰々なの?」

「今生きてる人なら、イヴ、アオリンゴ、ココル、コバコ、ディングダン、ルシファー……それにパレードかな」スラスラと名前が並んだ。「悲しいことにみーんな本業は絵じゃないの」

「そっか、パレードって元は絵描きだったっけ」呟きながら言葉を探す。「絵のうまさって正直よくわかんないんだよな。僕、絵下手くそだし」

「でも字はうまいじゃん。ってことはつまり、絵だって描けるはずじゃない?」

「その言葉すっごいデジャヴ感じる。向こうでよく言われたんだろうな」

「ははは、結局は趣味の問題か」フーフーは膝を抱えたまま、どことなく眠たそうに首をかしげた。「私はこっちでも向こうでも描くの大好きだった。もはや生活の一部だから、好きって自覚がないくらいだし……あ、そうだ」

 不意にクリっと、彼女の目が真っ直ぐに僕を捉えた。

「イサミは、この仕事終わったら何するか考えてる?」

「うーん、まだなんも考えてないんだよなぁ」急な話の転換に頭をかく。

 いわゆる楽園のチュートリアル期間で監督にスカウトされた僕には、普通のクローンよりもやや長めの瓦斯無料期間が与えられることになった、らしい。今の所ゲーム以外の使い道が思い浮かばないのが寂しいが。

「フーフーはどうするの?」とりあえずそう聞き返す。

「私は絵かき旅行かな。ちょっと西の方へ遠出でもしようかと……なんなら一緒に来る?」

 一瞬だけ舞い上がりかけた気持ちを落ち着ける。違う、これは二人で旅行って意味じゃなくて、お目付け役のパレードがいると助かるって話だ。ただ、それでも十二分にありがたい話なのは言うまでもない。

「え、行っていいの?」嬉しさをできるだけ隠さずに、そう聞いた。

「何言ってるの、一緒に行こうよ」フーフーはニッコリと笑ったが、すぐに目をそらして眉をひそめた。「あ、でも、その前に住む場所探さないとダメなのか」

「家か……」やや現実的な話題にまた多少気落ちする。住む場所っていうのはどこの世界でも重大な問題だ。クローンである僕には相当な量の瓦斯が援助されるらしいが、選択肢が広いっていうのも逆に難しい。

「いきなり家探しって言われても困るよね」先輩クローンのフーフーは僕の気持ちを察してくれる。素直にありがたい。「それこそあっちこっち回って住みやすそうな土地見つけるしかないか」

「だね」

「住む場所にこだわりとかある?」

「全くない。生活できればいい」

「だから逆に困るのね」

「そうそう……」

「ウチとかは?」

「ウチ……」

 危うく聞き逃しかけたそのフレーズに、コップに伸ばした手と脳みそが同時にフリーズする。

 ……ウチ?

 顔をあげると、いつの間にか黒い瞳が、いつにない眼力で僕を突き刺していた。

 ……。

 …………。

 考えに考えた挙げ句、それでも僕はまた「え?」と返すことしかできなかった。

「私の家って、すごい広いんだ」笑っている口元とは裏腹に、その眼差しは真剣だった。「アーティストになって調子に乗っちゃって……だから、一人だと持て余すっていうか……」なんて言葉も尻切れトンボにしぼんでいって、かすかに揺れる二つの瞳だけが残る。

 言葉を探す。

 何も見つからない。

 言葉を探す。

「ウチで一緒に、暮らせない?」彼女はそう言った。

「……え?」

「だめ?」

「いや……ちょ、待って、これってえっと……」

「……だめ?」

 確かな不安をまとったその声と表情に、僕はようやく無駄な思考を止めることができた。

「……いいの?」

 僕は、聞いた。

「いいよ」

 彼女は答えた。

 そして、聞いた。

「いいの?」

「……いいよ」

 僕は、答えた。

 スーッと、フーフーの胸から空気が抜けていく。目尻や頬で強張っていた緊張が緩んで、奇跡としか言いようがないほど完璧な微笑が現れる。

「よかった」

 ささやくほどに、小さな声。

 僕は黙っていた。

 彼女はテーブルに手をついて立ち上がり、前のめりに僕に迫ってくる間、少しも動かなかった。

 接近。

 これだけの至近距離にあってさえ、イデア式アイドルの肌はこんなにも美しい。

「……とりあえず、今日はこの辺で!」

 僕から離れたフーフーは、満面の笑みを真っ赤にして跳ねるように背を向けた。「よかった、ホントよかった! 明日までには絶対決めたかったんだ! おやすみなさい、イサミ! あ、それよかったら飲んじゃって!」と、テーブルに残された彼女のカップを指さしながら、慌ただしく階段を駆け上がっていって、やがてバタンとドアが閉じられる。

 かと思ったらまた開いて、「おやすみー!」って声が上から降り注いで、また閉じる。

 シーンと、淡い静寂が取り残された。

 瓦斯時計が緑の霧を吐いて、夜の10時を告げている。

 いつの間にか、足が痺れていた。

 夢じゃ、ないようだ。

 立ち上がり、テーブルに残されたフーフーのカップの中を覗いてみる。何も残っていないどころか、そもそも飲み物が入っていたとは思えないほど乾ききっている。

 そうか……。

 自分のカップと彼女のカップを両手に持ったまま、隙間風を通す窓のそばに身を寄せる。風が唇を冷ましていくのが惜しかったけど、今の僕には外の冷たさが必要だった。なんなら散歩に出かけたっていいくらいだ。

 かすかにユーカリのような香りを纏う夜風に諭されながら、僕はフーフーと最初に話した日のことを思い出していた。差し出されたプリン、一日中遊んだゲーム、そしてそれからの仕事のことも……。

「そうか……」

 と、僕は一人でつぶやいた。

 そうかそうかと、頭の中で繰り返した。

 ついさっきまで、どうしたらフーフーを落とせるかなんて悩んでいた自分を思い出す。

 全くなんてことない。

 落とされてたのは僕のほうじゃないか。

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