第43話 失恋
「ひっでえ顔。それがアイドルと飛んでた男の顔か?」
そう言って僕の背を撫でているのは、朱組所属のスプラッター演出家ハーミンである。タンクトップにねじり鉢巻のモデル体型なヤンママで、今日も娘のパッチと一緒だ。パッチは僕がこの前会ったときのように女装していないことが不服らしく、浅く呼吸している僕の髪の毛を容赦なくグイグイ引っ張っている。
「急になんか始まっちゃったからね……イサミ、ごめん」フーフーはパッチの手を控えめに押さえながらも、まだ可笑しそうに笑っている。どうやら僕は空の上でとんでもない絶叫ぶりを見せていたらしく、降りてきてしばらくのフーフーは大爆笑だった。若干恥ずかしい気がしないでもないが、正直記憶が曖昧すぎて実感が湧かないし、詳しく思い出すのもなんか良くない気がする。色んな感情が本能がグルグルと沸き立った空のデートであったが、僕の思考はまだ足元に広がるこの街の混沌のように支離滅裂なままだった。
いったい今、僕は何を考えるべきなのだろう。
ともかくなんとか息を整えて顔を上げたら、小さなパッチと目が合った。丸っとした大きな瞳で、親譲りの負けん気が強そうな表情が
「ミゾ、ぐあいわるいの?」パッチが僕に聞く。
「ううん、もう大丈夫」なんとか立ち上がりながら近くの柵に寄りかかり、今自分がいる場所を確認する。空からも見えた時計塔の文字盤下にあるバルコニーのような場所で、見上げると、威圧感たっぷりに見下ろしてくる文字盤に書かれた数字が全て漢数字であることがわかる。つまりは街の天井に近いが、今更どういう経緯でフーフーがここに着陸したのかを聞くのは恥ずかしいのでやめておこう。あのクジラの爆発で血のような泥が巻き散らかされた街の景色は空から見たときよりもずっと赤黒くくすんでいて、それでいて闇の艷やかな黒みばかりは幾倍にも深度を増しながら、混沌の
「……さっきのバルーン、ハーミンがやったんですか?」眼下で線路の上を小さな列車が走っているのを見ながら、僕は聞いた。
「こう見えて”計画した範囲内に計算通り液体をばら撒く”って技術なら私が世界一なんだ」ハーミンはガムを噛みながらパッチの胸に抱き上げた。「風船と餡を作ったのは黒組連中だけどね。流石にこの規模ぶち撒けんのは爽快だったわ」
「グラフィック加工した後みたいだね」隣にフーフーがもたれかかって僕を見る。「わかる? 映画とかでさ、編集済み映像に最後画面効果でトーンいじって仕上げたあとっていうか」
景色をひとしきり見回してから、二回ほど頷く。「なんとなくわかる」
「でもナチュラル。じっとりと、人が住んでる空気感は出てるっていうか」
フーフーの言う通りだと思う。盛大なぶち撒けを経た楽園式の九龍城砦は、もはや辛うじて残っていたテーマパークっぽさすら消え去って、歴史の深さを錆と腐敗だけに交換したような暗黒都市のおどろおどろしさに満ち満ちていた。
「はあー……これでやっとママのお仕事はおしまい」ハーミンはウトウトしている娘と頬を擦り合わせながらため息をつく。「昨日が地獄だったね。突然監督メール来たと思ったら急に24ヘクタール分の散布域計算しろとか、んなの一週間前には言っとけやってなあ……お」ゴトンゴトンと車輪が軋む音を鳴らしながら、トロッコのような列車の車両が文字盤下の”駅”にものすごい速さで突っ込んできた。「来たかな」
煙を上げて急停車した黒塗りの車体の真っ赤な扉が開き、中から真っ白なドレスの少女が姿をあらわす。パレードだ。本当に神出鬼没である。
「おや、テントにいないと思ったらこんなところにいたか」パレードは右手で僕らに手を振りながら、優雅な仕草で背後へと左手を差し伸べて、後ろにいた一人のほっそりとした誰かの手を取ってステップを降りてきた。
その人も、アイドル……つまりはアーティストだった。
「あ、スィだ」フーフーが呟く声。
アイドルと出会う瞬間というのは、やはりいつも胸がドキッとしてしまう。シンプルに言ってトキメキだろう。第一印象はとても脚が長いアイドルで、歩く姿が際立ってサマになっていた。
パレードは僕の前に立ち、手の動きで隣の彼女(彼?)を指す。「紹介しようミズノ。こいつはスィ、ダンサーだ。ほいでスィ、こいつはイサミ・ミズノ。最新のクローン」
「はじめまして、ミズノです」具合が悪いなりに頑張って頭を下げ、スィの顔を見る。神秘的な顔だ。柔らかく、雪華のように凛としていながらどこか不安げな面立ちで、小さな顎と唇が奥ゆかしい。瞳の色は濃いブルー。薄桃色の豊かな長髪はパレードと似て癖がなく、肩口から背中にかけて真っ直ぐに流れている。服装はオフショルダーの短い白ワンピと黒タイツ、それにトウシューズを履いていて、お嬢様然としていながらも不思議とスポーティなシルエットだ。背丈はフーフーよりもやや高くて、だいたいテラーと同じくらいか。
「あの……スィと申します、よろしくおねがいします」膝を曲げ、スィも挨拶を返してくれる。カーテシーのような仕草に見えたが、動きがあまりにもスムーズかつスピーディたったせいでよく何もわからなかった。意外と可愛らしい声である。
「フー・フーも、えっと、お久しぶりです」礼儀正しく、そしてどこか申し訳無さそうにスィは目を伏せる。「新しいクローンということは、もう、丸一年ぶりなんでしょうか……」
「二年ですね」と、フーフー。
「え?」
「去年のクローンはゴブリンだよ」パレードがくすっと笑う。「しかも色々事件があったせいでミズノの生誕は半年近くずれ込んでるしな」
「二年……えっ、うそ!?」スィは目を見開き、口を手で塞ぐ。「2年って、2年ですか!? そ、そんな、いつの間に……あ、あ、なら私、もしかして年始のご挨拶が……」
「イヴが寂しがってたよ」
「あぁ……」うなだれて、ふらつき、そのまましゃがみ込む。「なんてこと……ごめんなさい、全然気づかなかったです……どうしよう、イヴにはどうやって償ったら……」
「これが、スィです」パレードはポンポンとスィの肩を叩きながら、ニッコリと珠のように微塵の欠けもない笑顔で僕に笑いかけた。「真面目な子なのよ。真面目すぎてお稽古始まったら他の全てを忘れちゃうくらいにね」
「本当に……お恥ずかしい限りで……」
「ねえねえ、パレード」眠っている娘の手を使ってハーミンがパレードの頭を撫でる。「パノラマ見に来たんですよね? あれに乗ってここ来たのって二人だけですか?」
「いや、マカもいるよ。トロッコが速すぎて伸びてんのさ。おーい、さっさと出てこーい」
マカ……。
え、マカ?
ブワッと、いきなり全身に血が巡ってきた。マカブル、芸術至上主義の楽園において、視覚的な美意識を完全に廃した究極の拷問椅子一つでアーティストとなった真正のド変態ながら、そうは全く見えない爽やかでボーイッシュな女子大生風のアイドルである。中身はまごうことなき男性だが、それでも僕にとっては初恋の女性と言ってよい。
しゃがみ込んでいるスィを残し、応答がない列車に向かってみんなで歩いていく。そのうち「おえっ……」っと小さな声が上がって、這い出るようにショートヘアのスラッとした美女が中から這い出てきた。「ひひ、ひでえ目にあった……」
ゾクッと、喉が震える。ホントに素敵だ。ストライクだ。
「やっほーマカ」
「やっほー」
フーフーと僕がマカに手をふる。マカは今日はデニムにTシャツと物凄くシンプルで男っぽい服で、そのせいでかえって女子っぽかった。
「ん? あ、フー・フーと、それにミズノか」若干青ざめた表情ながら、精一杯にマカも笑いを返す。「いやー、俺ほんと速いのダメで……」
「アイドルが速さに酔うわけはないんだがな」とパレード。
「メンタル的なのはどうしようもないっすよ。なんか、肩が寒くなるというか……」
「ミズノも速いの苦手っぽいぜ」ハーミンが鼻でハンっと笑う。「草食男のテンプレートなん?」
「ミズノは言うほど草食じゃねえよ」と、マカ。
「そうかい、そこも似てるな」
「うん……ん? まあいいや」
はははと笑い合う二人を見る。なんか随分と親しい感じだ。やっぱ職業柄の縁だろうか。
二人の関係を僕が聞こうとしたとき、不意にぐずる声がして、ハーミンの胸に抱かれていたパッチが目を覚ました。
ぐるりと図太い視線で世界を見回して、最後にピタッとマカに目を向けた。
「パパ!」
パッチは、確かにそう言った。
「パッチぃ!! 会いたかったよお!!」マカはハーミンごとパッチを抱きしめて、そのまま自分の胸に抱き寄せる。「寂しかった? パパはすごく寂しかった!!」
「パパかわいい」
「パッチのほうが可愛いよぅ」
「それはない」
「ちょ、えぇ……どこでそんな鋭い言葉覚えたのさ……」
「パパ、これミゾ」
「ん? ミゾ? ああ、ミズノね。なんでもこの前遊んでくれたんだって? ほんとありがとね、こんど飯でも
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