第42話 フライト

 兎にも角にも、空から眺めた九龍城砦は狂気的な景色だった。

 9箇所の飛び地を一箇所に集めてできた楽園式の九龍城砦は、面積で言えば約24ヘクタールとちょっとしたテーマパークほどの大きさしかないのだが、なんといっても建物の密度が尋常ではない。市街地のビルなんかは境目が黒い切れ込みにしか見えないくらいギチギチだ。下層は灰とオレンジ色の瓦斯のようなミストに覆われていて、雲上都市のように薄闇から突き出ている屋上には、青い寺院、時計塔、大型クレーン、ドーム、謎の巨大模型、ロボットの腕、龍の頭など、脈絡も統一性も見当たらないオブジェたちが思い思いにカオスを演じあっている。その合間をジェットコースターのように這い回っているあれは線路だろうか。元はクァラが指揮していた朱組のビル街にあったやつだと思うが、街の再編と共に全体に路線が敷き直されたらしい。

 一貫性を完全に度外視した強引極まる再構築に作られた楽園式の九龍城砦。しかし、この不気味な静けさと迫力を備えた異形こそ、まさしくフーフーが描きデカダンス監督が目指した東洋の大魔境だろう。

「ホント……すごい」膝の上のフーフーの背中が、僕の胸にぐっと力強く押し付けられた。「やっぱ監督ってすごいよイサミ……ほら、見て見てこれ!」クラゲの使い魔の内側、視界のやや上に彼女が描いた九龍城砦のイメージボードが浮かぶ。「わかるかな? かなり滅茶苦茶に描いたのにちゃんと全部再現されてる。あんな、4組に別れて好き勝手バラバラに作ってたのに、どうしたらこんな……」

「うん……」

「あ、この観覧車良く見たら全部シュウの化石だ。電線なんてこれ全部ナナメロ家の蔓? すっごいなあ、監督が集めてたのはアイテムじゃなくて建材で、だから……」

 フーフーの言葉は尻すぼまりに消えてゆき、また下界の景色へ恍惚と心を奪われていく。無理もない。フーフーの本質は熱心な都市マニア・景観マニアであり、画家なのだ。自分が描いた絵がこうして沢山の人の手を経て広がっていく感動は、僕ごときに想像のつくようなものじゃないだろう。

 そして僕という平凡な人間の本質は……男である。

 アイドルを膝に抱っこしている、一匹の雄である。

 正直ちょっとまずい状態だった。

 ……いやちょっとじゃないな。かなりまずい。根本的にまず、空を飛んでいることからしてだいぶやばいのだ。今確信したが、僕は速さうんぬん関係なく足が地面から離れているというのがもの凄く苦手である。血流がおかしくなるというか、腹の奥がムズムズして全身がギュッと硬直してしまう。そんな状況で僕は、世界一きれいな女性を膝に乗せて抱きしめているのだ。役得だと言えばそこまでなのかもしれないが……。

 アイドルというのは、この楽園に存在する全芸術における頂点だ。三次元に存在可能なあらゆる可能性の終着点、アートの楽園が500年の歴史で生み出した最高芸術が、”フーフー”である。しかも、アイドルとは顔や見た目だけのものではない。少女という言葉が内包する全ての属性が理想イデアなのだ。

 つまりはその存在自体が、全力で男のを押してくるっていう話である。

 上を向いて鼻から息を吸い、できるだけ静かに、ゆっくりとまた鼻から吐き出す。

 本当に過酷だ。とんでもない生殺しだ。

 こんな状況で、スイッチオンにしていいわけがない。

 地獄だ。

 ああ、だけど……だけどやっぱり、ここは天国かもしれない。うなじがこんなに近くにあるってだけで奇跡を感じられるほどに、アイドルの造形美には比類するものがない。もし変な遠慮なく自然にこんなデートができたなら、きっと人生に悔いなんて残らないだろう。

 この気持ちは、やっぱり恋?

 それともただの性欲?

「その2つが違うなんて、誰が言った?」

 勝手に捏造されたジョーカーの言葉が、頭の中でフツフツと揺れていた。

「ねえ、イサミ」

 耳をくすぐるこそばい声。世界一居心地の良い煉獄に悶えていた僕の手を、フーフーの温かい手のひらが誘うように撫でる。

「ほら、なんか浮いてきたよ」

 女子を初めて意識した中学生に帰っていた心を、退廃に寂れた景色に無理やり引きずり戻した。「ん……ほんとだ」

 街の各地からプカプカと浮かび始めたそれは、僕からは巨大なクジラのように見えた。色は様々だが全体的にくすんでいて、赤か茶の斑点が内側から染み出していて微妙に汚いが、体の3分の1ほどのサイズにまでデフォルメされたポップ調の瞳だけはネオンに輝く鮮やかな紫色だ。どうやらバルーンらしい。

 焦げ緑のクジラが一基、僕らの乗るクラゲを掠めて気球のようにゴウゴウと音を立てて昇っていく。近くで見ると相当でかい。きっと本物のシロナガスクジラの倍くらいはあるだろう。

 ちょっとだけ嫌な予感。

 パンっと頭上で、汚れたクジラが泡のようにあっさりと割れた。

 風圧が湿気った空気中の水分を弾き、雨の日のフロントガラスみたいな波紋がクラゲの使い魔の表面を走った……と、思った一瞬。

 泥を伴った真っ赤な血の奔流が花火のように空にぜた。

「ひゃーっ!!!?」

 フーフーの悲鳴。

 爆風に煽られ、使い魔も吹っ飛ぶ。

 視界がひっくり返り、抑えていた冷や汗が腰から背中にかけてジワッと這い上がった。朝食とコーヒーの風味が胃の底から積乱雲のように立ち上ってきたのを感じたのも束の間、2つ目の爆発が響き、3つ4つとクジラの残酷スプラッターが空の気圧をハチャメチャにかき乱す。

「キャー!! ちょっとなになにっ!!?」

 アトラクションに乗っている女子中学生みたいに楽しそうなフーフーの叫び声。ロデオマシンよりも激しく上下左右に揺すぶられるままにその体がひっくり返って、ギュッと僕の顔に柔らかな頬が押し付けられた。

 …………。

 ガタンと、また大きくひっくり返り、今度はフーフーの顎が僕の頭に乗った。

 …………。

 ああ。

 もう、どうにでもなってしまえ。

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