第39話 アカトリ

※本章には生理的に大変不愉快な描写が含まれています。ややグロかもしれません。無理な方は最後だけお読みください。



 異音。

 風圧。

 臭気。

 パレードを先頭に黒い扉を抜けて工房に入った僕らの顔に、圧力を伴った甘臭い香りがぬるい湿気とともに叩きつけられた。

「うっわ……」と、フーフーが顔の前を手であおぐ。「すっごい匂い」

 パレードはなんでもなさそうに鼻をひくつかせてから、「これでも消臭は使われてるぜ」と呟き、頭の後ろで腕を組んだ。「<魔走性定着羊水エーテル・メランコリア>ってやつの匂いだ。生き物扱うなら慣れておかなきゃいけない匂いだな」

 パレードは動物分野の専門家……というか、神様だ。

「あ、フー・フーと……うわ、え、パレード!?」開いたドアに真っ先に反応した眼鏡の男が、僕以外の面々を見て目を丸くする。「これはどうもどうも……」

「よおトム、お前黒組なんだ」パレードが彼を見てぷっと吹き出す。

「へ? 僕のこと知ってるんですか?」

「話したことあんじゃん。バカにしてんの?」

「いやいやいや、そんなつもりじゃあ……だ、だって話したって言ったってタッタ一回だけだし……」

「トムってもっとキレイな花が専門じゃなかったっけ? てっきりナナメロと一緒にいるもんだと」

「ナナメロ? あぁ……」トムという男はごまかすように視線をさまよわせてから、最終的に僕の方を向いて苦笑いした。こちらを見るのが一番緊張しないのだろう。「一昨日までは一緒に仕事させてもらってたんだけど……今日から僕はマモンの助手だって」

「へえ」

「マモン?」フーフーが首を傾げてから、辺りを見回す。「えっと、あぁ、ガスマスクの人だっけ」

 フーフーの言葉で、僕はその顔を思い出す。黒組のリーダーで、写真越しにすらベルゼブブの関係者っぽい匂いをプンプン漂わせていた男だ。

「で、マモンは?」パレードが聞く。

「この中です」

 トムが指差した先にあるのは、人の頭くらいある緑色ののど飴をたくさん貼り付けたような見栄えの超巨大鍋、あるいは壺だった。薄暗いアトリエ内に立ち上る獣臭の源は間違いなくこれだろう。SF的な培養槽と、汚い飯場のキッチンのように乱雑に刻まれた野菜(?)の残骸で闇鍋状態となっている地下工房の中にあってなお、鍋は異質な存在感で、毒々しい色彩を周囲に放射し続けていた。

「あららら、また会えましたね」鍋の影からひょいっと、人肉屋ビッグボールが顔を出した。「う、うおぉ……今日はパレードもいるんだなぁ、すっげえな、はじめまして」

「パレードだよー」パレードは片手で挨拶を返しながら、辺りを見渡す。「あれ、アンハッピーは? あいつが実質ここのリーダーだろ?」

 釣られて見回すと、たしかにあの目立つアフロがどこにも見えない。

「姉御は昼食に食ったシュウマイを前衛芸術にアレンジした上で仮眠室でお休みになってらっしゃいます」点鼻薬らしきものを鼻に突っ込みながら、ビッグボールが答える。「あいにく点数はつきませんでしたが」

「さっきまで大変だったんですよ、ここ」トムが苦笑いで補足した。「みんなもう、吐いちゃって吐いちゃって」

「二人は生き残りなのね」腕を組み、パレードは頷く。「他はみんなマモンの本気に耐えられなかったわけだ」

 僕とフーフーは二人で顔を見合わせた。きっと、頭のなかで同じ危険信号が黄色く光っているのを察知したのだろう。

 ……ザプンと、鍋の上で、凶兆をはらんだ飛沫しぶきが上がった。


「情けない連中……あんな程度にも耐えられないなんて、いっいっいっ……」


 くぐもった、男の声。

 オペラの悪役のように甲高く、震える声音。

 思わず見上げた視線の先、大鍋の赤茶色の縁に、アルビノの河童かっぱのように濡れた指が、錆びたフックみたいに無愛想に引っけられていた。


「逃げるのも情けない……どんなものも慣れれば慈しめるだろうに」


 指先からしたたった水の跡が汚れた鍋の表層に伝わって、血液のように床に染み落ちていく。腐ったミカンをいぶしたみたいなエグい香りが、耳の裏にまでモワモワと立ち昇った。

 臭気から逃げるように口を抑え、僕はもう一度視線を上げる。

 虫のように不気味なガスマスクが、そこに浮かんでいた。

 僕は確信する。

 こいつ、絶対ベルゼブブの仲間だ。

 不潔な液体をまとったまま、そいつは逆さまに、蜘蛛のような姿勢で鍋から這い下りてきた。黒い包帯を巻いたような服から除く肌の病的な青白さ、異常な骨張り方が、まるで洞窟の爬虫類かコウモリのようである。

 誰が合図を取ったわけでもなくサッと身を引いた僕らの真ん中に、その男マモンはぬるりと音もなく降り立った。

 水滴。

 眼光。

 男はひどい猫背だったが、それでもなおここにいる誰より背が高かった。ゴーグルの裏の人間味のない血走った目玉で僕らを睨みつけてから、咳とも笑いともつかない声でゴボゴボと喉を鳴らした。

 びちゃりと、空に巨大なハリネズミが浮かぶ。汚い根棲ねずみ……背中の針を舌に変えたような、背中一面が口まみれのハリネズミで、小動物の可愛くない部分を結晶させたみたいに不愉快な使い魔だった。

 縫い付けられた前の口に代わり、ネズミは背中の口から青みがかった灰色の瓦斯を勢いよく吹き出す。

 淀んだ色調が、鈍重な密度で大鍋を包み込んだ。

 瓦斯の色が白じゃないということは、採点ではない。

 何か魔法を使ったのだ。

 ブヨリと、鍋に張り付いていたのど飴の上に波紋が踊る。

 卵が割れるようにのど飴にヒビが入り、緑色の内側に、ブチブチと茶色い斑点が表れ始める。

 その斑点の一つ一つが握り拳ほどに大きくなっていく頃には、僕はフーフーと一緒に二歩も三歩も後退していた。

 ものすごく、悪い予感がしていた。

 ふいに、飴がスライムのように弾け飛ぶ。

 湿気った破裂音。

 同時に、恐ろしく不愉快な生き物たちが、飛沫とともに一斉に外へと躍り出た。

 想像以上の数で足元を這い回った、毛のないアヒルの雛のような怪物たち。

 ヒレのように頼りない翼。

 ネズミのような尻尾。

 ……そして、人の顔。

 顔、顔、顔。

 鳥肌と、今まで感じたこともないようなおぞましさが、背筋から首筋にまで駆け上がった。

 叫び声すら、上がらない。

「こいつらは?」あくまでも冷静な、パレードの声。

「<アカトリ>。下水をし取り巣を作るスカベンジャー。よどみの命」

「巣作り? やるねえ」パレードは口笛を一吹きしてから、足元で鼻をかむように泣き喚くアカトリの一匹をつまみ上げた。「ほら見てみな、お二人。良くできてるだろ?」

 唇のように薄桃色のクチバシ、髪の毛のようなタテガミ、潤んでいるような瞳、黒い鼻の穴。

 鳥の体の上に座る、冗談のような、人の頭。

 不細工なおばさんと胎児と鳥のおぞましいキメラが僕の前で、人のような鳴き声で、さえずっていた。


 うぇっ……うぇっ、うぇっ、うぇっ……ぐえへえええ……。


「あぁ、やっぱキツイか」硬直する僕とフーフーを見比べてから、パレードは肩をすくめてアカトリを床に放った。

 群れはうごめく。人であると呼ぶには余りにも奇怪で、人でないと思うには余りにも人に近い顔と肌で、飢えと乾きにむせび鳴きながらカリカリと足音を鳴らし続けている。

 ガシッと二の腕を掴まれた。フーフーだった。あまりの気持ち悪さに耐えかね、口を抑えてえずいている。

 その彼女を、黒いガスマスクが睨んでいた。

「……何が、気持ち悪い?」

 フーフーはビクッと肩を震わせたが、口から言葉は紡がれず。

 マモンの湿気った声だけが、場に響く。

「人の顔がイヤなのか……アイドル」

「…………」

 スーッと幽霊のような動きで、マモンはフーフーに迫った。フーフーにすがられていた僕は身を引くことも近づくこともできずに、ただ耳元に迫ったガスマスクから響く声を聞くはめに。確か、前にもこんなことがあった気が……。

「俺は好きだぜ……人の顔。お前らの顔も、そこの坊主も、それに……」長い指を這わせ、ガスマスクの横のコードをぐっと引っ張った。「ほれひ、ほいふわほそれに、こいつらも」不自然にくぐもった声で笑いながら、口元のカバーを引き剥がした。

「ひっ……」

 消え入りそうなうめき声。

 不安定に揺れながらフーフーから離れた彼の口を見て、僕も同じような声を上げた。

 剥き出しの歯茎。

 薄汚れた歯。

 黒ずむ舌。

 病院で使うような金属の開口器で、マモンの口はタコのようにこじ開けられていた。

いっぐおーる、あぎえおビッグボール、はじめろ

「……了解」そう唸ったビッグボールは、いつの間に取り出していたのか、抱えるほどの大きさの壺の蓋を一息に引き剥がした。「えっと……すまんねお二人、またこんなんで」

 壺の中身が、床一面に開けられる。

 びしゃりと初めに大盛りとなり、次いで積み木が崩れるように雪崩となったそれは、人のミニチュア……ビッグボールが作り出した、食用小人の肉の山だった。

 ぶち撒けられた小さな死体が、アカトリと混じり合う。

 ぴくっと、人面の妖怪たちが皆一瞬動きを止めて、与えられた肉を睨みつけた。

 キィキィと、歯がこすれるような鳴き声がする。

 とても嫌な予感がした。

 予感は僕を裏切らず、すぐには起きた。

 ……。

 …………。

 そこで繰り広げられた凄惨な光景を語るような言葉を、僕は持たない。

 持ちたくない。

 人面の獣が裸の小人たちを食い散らす様なんて、冗談ですら頭に描きたくなかった。

「ハッハッハッハッ……ういあぁ、ああいひあぁ、えんごいあぁういなぁ、かわいいなぁ、めんこいなぁ

 鼓膜を舐めるような狂笑にひたりながらひざまいたマモンは、アカトリたちが食い散らかしている小人たちを一掴みにすると、開け放たれた自らの口の中にそれを放り込んだ。

 開口器をきしませ、無理矢理に小人を咀嚼したマモンの口の中で、人体の模造品たちが抗うように暴れる。

 脂身のような目玉。

 五本の指が生えた指。

 レーズンのような乳首。

 陰毛のように濡れた髪。

 神話の悪魔そのままの風情で小人たちをむさぼりながら、マモンはさらにどこからか取り出した生卵を握力で割り、殻ごと口の中に加え入れた。

 黄色い泥がヨダレとともに泡を立てて、尖った顎の先からヌルヌルとこぼれ落ちる。

 臓腑をかき乱す、鼻水のように不健康な色。

 ゴポゴポと喉を鳴らしながら、マモンはアカトリたちを水をすくうように優しく持ち上げて、口の中に導いていく。

 雛が親鳥に殺到するように、赤く濡れたクチバシが、小さな地獄の入口に突き入れられた。

 バラバラになった人間の似姿が、人のような顔の鳥たちのクチバシに引き千切られ、マモンの口の中でグチャグチャになっていく。

 なんの拍子か、ヘドロの沼から真上に突き上げられた焦げた腕。

 あっと思う間もなく食い散らかされ、沈んでいく。

 想像を絶する痛ましさだった。

 ふいにバキッと、何かが壊れる音。

 一声うめいたマモンは、やおらその場にうずくまると、開口器の残骸と卵の殻をゲロごと床に吐き出した。血反吐が、グチャグチャに水ぶくれした小人の上でピザソースのように渦を巻く。

 ミルクの腐ったコーヒーのような臭いがした。

「あぁ、噛みやがって……まだ調教がいるんだなぁ……」

 ゲロに膝を付けたまま、マモンは笑う。

 彼が見下ろす先で、アカトリたちは血まみれの吐瀉物に明敏に反応し、粘土のようにそれを丸め始める。

 つまりは、ゲロボール。

 酸っぱいウンコ。

 最悪の見た目だった。

「おぉおぉ……いいぞぉ……どうだ、賢いだろう? な? こいつらは人のこぼした残骸をこんなに嬉しそうに巣にするんだ……雑魚どもが吐いたゲロも全部こいつらが巣にしたんだ……えらい、えらいぞぉ……」

 ボソボソと血まみれの口で呟きながら、マモンは自分の吐瀉物の玉をすくい上げて、また口に運ぶ。

「なぁ……かわいいよなあ……人の顔ってのは最高だよなあ!!? お前らもそう思うよなあっ!!!?」

 絶望的に汚い唾液を撒き散らしながら叫ぶマモンの頭上、巨大な鍋の上で、ごそりと動くもの。

 細長い……しかし大きいもののシルエットが、ぬっと浮かび上がった。

 同時に僕とフーフーの使い魔が、オート機能で召喚される。


『危険レベル5の作品が披露されようとしています。許可しますか?』


 と、同じ文面の描かれたスクリーンが眼前に浮かび上がった。

 僕らはその問いに答えるスキもなく、あざけるようなマモンの笑い声を背に受けて、黒組のアトリエの出口へと駆け出していた。



※まとめ……ゲロで遊ぶ人面のネズミがいたので、逃げました。


~おまけの使い魔紹介~

トム「恩返枝ドリアード

 ……新芽色の精霊

マモン「オシャブリ獣」

 ……針が舌となったハリネズミ

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