第32話 ハナ摘、あっちゃん

 僕は……そして多分フーフーも、魂にしゃぶりついてくるようなその声だけでも、すでに鳥肌が止まらなくなっていた。すぐ背後にいる声の主を、興味本位だけでは振り返れなかった。フーフーの手が僕の腕を強く握ってきたが、下心とか抜きにしたって相当ありがたい気分だ。

 ビッグボールは苦笑いで首を振る。「こんなものあんた以外欲しがらないって……ジョークだよ」

「あなたの作品って大好きよお?」アメでも舐めているみたいに、不安定で湿気った声色。「美味しくて気持ちいいものぉ。あたしにくれなきゃ嫉妬しちゃうわぁ」

「あの……」口元を掻き、ビッグボールは僕らに申し訳ないとでも言うように頭を下げてから、急に事務対応みたいにわざとらしい笑顔を頬に浮かべた。「えっと、いやよくここまで来ましたね! あんたも監督に呼ばれたんですかい?」

「仕事はまだよおぉ、まだまだなのよぉ。それよりもねぇ……」

 ジュルジュルと、鼻水をすするような音がうなじをくすぐる。

「なんだか中途半端な匂いがするのぉ……汚れの少なくて、まっさらで……でも、アイドルじゃないわぁ。赤ちゃんみたいに、あんまりウンチをしてない、生まれたての子どもの香りぃ……」

 フーフーのいる側とは反対の腕に、服越しにもわかる冷たい指が這い寄った。

 ドール関節がむき出しの、人形の指。人ならざるもの。

 恐る恐る背後を振り返った僕の視界に、グワリとは顔を寄せてきた。

 緑色の大きな瞳。

 長過ぎるまつげ。

 形のいい鼻。

 艶めく肌。

 明らかに作り物の、ピンクのチーク。

 ……亀裂。

 顔を4つに分ける、黒いライン。

 偽物の口は開いたまま形が固定され、閉じない枠の中でプラスチックの真っ赤な舌が、貝のように肉々しくうごめいてた。

 それは人を模しただけの、不完全なブリキのマネキン人形だった。

 鳥肌がいや増す。

 なに……これ?

 使い魔?

 生きているとは全く思えないが……。

 というか、シンプルに滅茶苦茶怖かった。

 キュルキュルっと、ネジが外れるような音。

 寒気立つ。

 口もきけない。

 突然、微動だにせずに僕を見つめていたマネキンの顔が、鼻を中心に果物の皮のようにビチャリと引き剥がれた。

 むき出しの内骨格。

 血管のような配線。

 イルカのように、エコーする鳴き声。

 僕は悲鳴を上げていた。

 飛び退いた僕に引きずられたフーフーも、僕に一瞬遅れて「キャー!?」と叫んだ。

「んまああぁ、失礼しちゃうわぁ」

 パカリと顔を元に戻して、そいつは目を閉じるように、作り物のまぶたで眼窩をわざとらしく覆い隠した。首がカクカクとロボットダンスのように苦しく震えているのは、笑っているつもりだろうか。

 そいつは女性の人形だったが、イデア式アイドルではなかった。

 比べるべくもないほどチープなドールだった。

 安っぽい光沢のあるおもちゃの肌に、同じ光沢を放つ黒のおかっぱキャップ。眼球と一体化したまぶたしか動かせない硬質な構造の顔は、全体が妙に垂れ下がっているというか、目を見開いたまま泣いてるようにも見える形で表情が固定されていて、頬のわざとらしいチークがまるで似合っていない。身にまとう短いドレスも体と顔と同じツヤツヤのブリキ素材でできているが、色ばっかりはムカつくほど明るい青色だ。

 明らかに人ではない、無機質な体。だけど、全身からヌメる爬虫類のような謎の液体が染み出しているせいで、汚れきった浴槽を思わせる生理的な近寄りがたさがある。

 ようするに、死ぬほど不気味な人形だということ。

 てか、ひどい。悪趣味すぎる。できの悪いラブドールが、そのまんま歩いているみたいにたちが悪い。ロボットダンス調……というよりは、低品質なCGアニメっぽい動きもいちいち不気味で見るに堪えないし、灰に汚れたかぼちゃパンツがこっそりスカートから覗いているのとかも最悪だ。

かゆいよぉ……ブリキの体はとっても痒いのよぉ、痛いのよぉ……でも、中から掻くとびしょ濡れになるくらい気持ちいいのおおぉおおぉ」

 開きっぱなしで動かない口から響いてくるのは、媚びているのに胸に刺さる、全人類が不愉快と感じるであろう吐きそうな嬌声。

 僕の背後でフーフーがえずくように軽くうなった。どうやらクリティカルだったらしい。この手のもの……無機質で微妙に人に似せられた人形は、苦手な人にはグロいよりもこたえる。

 ピクリと、マネキンの顔がフーフーを見据えた。

「あらぁ、アイドルがいるわぁ、そんな匂いがした気がしたのよおぉ」

「は、はじめまして……」フーフーは多分、本気で怯えている。ヒロインのピンチマニアが見たら歓喜しそうな表情だ。

「イヴのくれる体は居心地がいいんでしょう? うらやましいわぁ、あたしは体がカッチカチ、いっつも悪いもの突き刺されているみたいに体が重くて不愉快なのぉ……いっぱいいっぱいナカを撫でてもらわないと切なくなるのおぉ」

 カタカタと、マネキンの頭が揺れる。笑っているのだろうか。

 ……この人がなんなのかは、今のところ全くわからない。

 でも、今のところ言えることが、一つだけ。

 体を人形に変えられるということは、彼女(?)はアーティストだ。

「羨ましい……羨ましい……」ビクンビクンと、危うげにマネキンは揺れ続ける。「アイドルは可愛くて、柔らかくてモチモチで、誰が触っても気持ちいいのよねえ? あたしはいつも体が痒い……あなたの気持ちいい手で、お肌で、おっぱいで撫でてもらえたら、こすらせてくれたら、きっときっときっときっときっと……」

 ジリッとにじり寄られ、フーフーは震える足で後ずさる。僕の体を引っ張る腕にっぎゅっと力がこもった。

「お願い……」ブルルと、声が震えた。

 すごく嫌な予感がした。

「抱きしめさせてええぇぇ!!」

 張り裂ける叫びとともに、マネキンの体からありえない量のコードがビシャビシャと飛び出した。

 フーフーが、今まで聞いたことのないような甲高い叫びを上げる。

 凄まじいヒロイン力の絶叫だった。

 そして僕も叫んでいた。

 ヒーロー力が欠片もない情けない声だった。

「あたしアイドルに触ったことってないのぉ!! だって誰も触らせてくれないからあああ!! お願い、あたしの痒いところあなたの体で掻かせてよおぉ!! ねええええええええ!? あたしの体に入ってよぉ! おっぱいちょうだいよぉ! おしっこ漏れるくらい気持ちよくしてあげるからあぁ!!」

「ちょ、あっちゃん!? まずいって!!」ビッグボールが慌てて自分の使い魔と共に腐ったマネキンを引っ張った。「それはよくない! 落ち着いて!!」

「アイドルはおしっこしないなら貸してあげるからああぁ!! 鼻からいっぱい入れたら涙と一緒にこぼれて気持ちいいのよおおぉ!! レベッカの歌より泣けるのよおおお! 信じてええぇえぇ!!! あたしのかわいいアイドルちゃあああん!!」

 マネキンの体からはみ出した触手のようなコードたちは何かを分泌させるのをやめないまま、フーフーに向けて一直線に突っ込んでいく。

 何事か、フーフーが叫んだ。同時に透明な使い魔が現れて、彼女の体を傘の内側に包み込む。

 傘の上にコードがぶつかり、汚い飛沫が顔に跳ねた。

 バネのように首を伸ばして、表情一つ変わらない顔をフーフーに近づけている化物……僕はとっさでもないが、勇気を出して二人の間に入り込んだ。

 いやだってこれ……。

 直球で最悪のセクハラじゃん。

 瞬間、緑の瞳がグリっとこちらを向いた。

 正直、吐きそうなくらい怖かった。

「……あなたでもいいわぁ」

「え?」

 フーフーの使い魔と格闘していたコードたちが急に全て引っ込んで、代わりにマネキンの全身が、壊れたみたいにバチリと音を立ててズル剥けた。

 ……洗っていない風呂場の排水口のように汚れた穴がたくさん開いた、濡れた無機物の塊。

 排泄口まみれの、錆びた機械。

「女は抱くもの、男には抱かれるものおおおぉぉおおぉ!!!」

 マネキンは動かない口の奥から、鳥のように甲高く喘ぎ叫ぶ。

「どこでもいいから何か入れてよぉ!! いつも体がスカスカして足りないのお、成り合わないのよぉ……あたしの中でおもらししてええええぇ!! ちんちん噛まないって約束するからああぁぁ!!!」

 叫びと同時に、全ての穴から、黄色く淀んだ瓦斯が吐き出された。

 えた悪臭と吐きそうな温もりを伴って、僕の顔の前に渦を巻く。

 ………………狂ってる。

 全身が硬直してしまった僕の体を、強く掴む腕。

 ビッグボールが僕をアトリエの奥に引っ張り込んで、目の前に防護壁のような半球を設置した。同じものが、フーフーの前にも。多分、彼の使い魔を二つに分けたものだろう。

「えっと、今日はソーセージだけでいいんだよな!?」

 焦りに満ちていながらも、なんだかめちゃくちゃ格好いいビッグボールの声。

「ほら、ちゃんと五本も用意したぜ!? 正直これ作るの俺だってきついんだからな!」

「ねぇビッグボールぅ、あんたがこれ突っ込んでよおぉ……あたしはアッチにも舌があるの知ってるでしょう?」

「ちょ、とりあえず今日はもう、ね!」

「おっぱいが痒いよう」バカリと、ブリキの体が更に開く音。ビッグボールの使い魔に隠れて見えないのがありがたい。「誰かぁ……吸い出してよぉ……おしっこ溜まってるのよぉ……」

「そういうのは普通の人の前でしちゃダメ! あっちゃん今日は帰ってくれっ!!」

 ビッグボールがマネキンを、店の外へと押し出していく。

「痒いのぉ……撫でてよぉ……」

 そのまま、魔界のセクシーボイスとビッグボールの叫びの間での言い争いが遠くなって、どこかで途切れて、そしていつしか無音になった。

 ふわっと、ビッグボールの使い魔が消える。

 天井で何かが、コトリと外れる音。あいつのコードが暴れたせいだろう。

 僕とフーフーは、二人だけのアトリエの中で、ゆっくりと顔を見合わせた。

 彼女は半べそで、その場にへたり込んでいた。

 僕も、彼女ほど深刻ではないとは言え、似たようなザマ。

 ひどい目にあった。

「あれが誰だか、知ってる?」

 僕の質問に、フーフーは首を振った。クラゲの使い魔は消えていたが、まだ鼓動が落ち着かないって、そんな感じだった。

 やがて、疲れた顔でビッグボールがヘタヘタと戻ってきた。げっそりと、先程よりもずいぶんと痩せこけてしまったように感じる。

「えっと……」目元を抑えながら、ビッグボールは首を振る。「なんつうか……すまんかった」

「いえいえ、ビッグボールが悪いわけじゃ……」なんとか声を絞り出す。

「いちおう言っとくと、あんなのばっかりじゃないからな」彼は割れてしまったゴーグルを頭から外して、人肉鍋の横の倒れていた椅子を直すと、だらんと体を落とすように腰掛けた。

「えっと……つまり?」

「カニバリストさ」割とあっさり彼は言ってのけた。「仕事柄その手の知り合いは世界一多いと自負してるんでね……みんな普通の人ばっかだよ。性癖ってのは人格とは驚くほど関係ないもんだ。頼むからあっちゃんを基準に考えないでくれ」

 僕とフーフーは、また顔を一度見合わせたから、無言で頷いた。

「それは……その通りですよね、はい」顔に跳ねていた謎の液体を袖で拭き取り、ため息をつく。「あの、あっちゃんって……」

「聞くな」ビシッと、手で止められる。「楽園にも闇はある。この世界で触れちゃいけないタブーって言やあ、だいたいわかるだろ」

 そうか……。

 つまりあいつは、ベルゼブブの仲間なのだ。

 そりゃ関わっちゃいけない。

 なんとか息を整えて、苦虫を噛み潰したように笑う僕ら……というよりも、本気で怖がる姿でさえもぶっちゃけ異常に可愛かったフーフーをしばらく眺めていたビッグボールは、空気を変えるように一つ咳払いをして、点鼻薬を鼻に突っ込んだ。

「で……どうします? 何か食っていきますか?」

 いやいや……という気分で、僕はフーフーを見た。彼女は柔らかそうな唇をすぼめて、難しい表情で眉を吊り上げた。

 そりゃそうだよな、無理だよな。

「えっと、今日のところは……」

「生首餃子で」

 ……え?

 驚いて僕が見つめる先で、フーフーはため息混じりに肩をすくめた。「だって、中身見ないでも食べれるじゃん」

「あぁ……」

 ……。

 あれ?

 もしかして、一番ダメージ受けてたの、僕?



~おまけの使い魔紹介~

あっちゃん「だいちゅきっ子マママ・マーラ

 ……何かを咥えた色白な美少女

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