第14話 蒙啓く、ジョーカー
__深淵に覗かれた程度で、引き返すバカがどこにいる?
……ジョーカー、講演会にて
アニメ映画でしか見たことないような大きなバルコニーに面したホールの端で、僕は壁にもたれたまま、必死かつ無様な有様で呼吸を整えていた。隣では、白いYシャツみたいなものを着た男が僕を気遣いつつ、口元を斜めにして笑っている。彼は、顔面真っ青でこのホールに飛び込んできた僕をいち早く手招きして、冷たいサイダーの入ったグラスを渡してくれた。
泡立つ冷たい液体を、今や暴力的な吐き気を誘うものでしかなくなった悲しき中華料理たちの上に注ぎ込む。
鼓動が早い。
頭が痛い。
足だけは、なぜか軽すぎるほど軽い。
沸き立つ色んな
ホールの中ではアーティストたちが、思い思いのグループでグラスを傾けている。椅子の上で酔っぱらって潰れているらしきアイドルもいた。確か晩餐会の席で、最初にマカをからかっていた人だと思う。ゴブリンがソーラたちと一緒にいるのも見えた。
「それは君、パレードが悪いよ」隣の彼が、クククと笑う。「アダルトにしろグロテスクにしろ、人を選ぶ作品は事前に説明がないと披露してはいけないことになっている。特に、マカの椅子なんて洒落にならん」
「いや……多分、僕が酔って聞き流したんだと思います」
「君、酔ってるのか?」
「もう覚めました」かすかに残る胃のムカムカを、炭酸の泡で押し付ける。「酔いってこんなに早く覚めるものなんですね……」
「不意にあんなものを見せられればなぁ。あそこに残った奴らはみんなド変態だよ。というか、君のいた席が変態テーブルだったわけだが」
僕は一度大きく深呼吸してから、顔を上げて、姿勢良く
「それで、君、名前は?」
「ミズノって言います。あの、これ、ありがとうございます」そう言ってグラスを掲げた。
「ん? ああ、気にするな。俺はジョーカー。体は変えていないが、これでもアーティストだ」
ジョーカーか。
「んまあしかし、いきなり見せられた作品がマカの椅子とはね、同情するよ」彼はポンポンと僕の肩を叩いた。
「はい……なんなんですか、あれ?」
「平たく言えば拷問椅子だな。椅子に付属しているカラクリが座ったものに安楽死の真反対を与える、ただそれだけのものだ。発想はシンプルだが、それだけにディープなテーマを持つ芸術と言える。鬼才マカブル、唯一の作品だ」
「唯一……」
「そうだ、唯一だ。ゆっくりと殺す……誰もが恐怖するそれを極限まで突き詰めた、存在自体が最恐のホラー作品、それがカルマの椅子。当然、実際に人間を座らせるなんてことはありえないがね。あくまでも可能性を追求した一つの芸術品さ」
「それはまた、なんと言いますか……」
作品に道徳は必要ないと、パレードがどこかで言っていたのを思い出す。それを僕は、せいぜいグロいアニメやCGくらいにしか考えていなかったが、どうやら認識が甘かったらしい。
あぁ、なんか、変に頭が痛い。丸いものが脳みそに詰まってるみたいだ。
拷問椅子か。たしかに、生活に一切根ざさない嗜好品という意味では、それもまたアートと呼ばれるものだろうが……。
「あの椅子には仕様書もあるのだがね、あれは本当に笑えるよ」ジョーカーはワンカップ片手に説明を続ける。「目玉一つ
「いや、あの、聞きたくないです」
「ん? ああ、失礼。うん、あの手のものが苦手なら、一切知ろうとしない方がいいな」
思い出す、マカの顔。人を超えた美人、真っ赤に照れたキスしたくなる頬、和む笑顔……。
アイドルというのは、罪深い。
僕の目の前で、一瞬の間だけでも展開されたあの風景を作った人間と、あの顔が、どうしても頭の中で一致しない。
「マカの……アイドルの見た目にすっかり騙されました」頭痛を押さえつつ、わりと本気でがっかりしながら、僕は呟いた。
「そう言うな。マカだって何もお前を騙していたわけじゃないんだ。あいつは何かと不幸な男だよ。あんな作品を作りたかったワケですらない」
「……そうなんですか?」
「マカはサディストではない。むしろ世界一痛みを嫌う、とても敏感な人間だと言える」
「はあ……」
「わからないかな? 見たくもないし知りたくもないはずの不愉快なものを、思わず想像してしまう心理。顔にできた傷口を思わずいじりたくなるみたいに自然な心の運びだ。マカは、その衝動が強すぎたのさ。それこそ、悩みすぎて体を取り替えなくちゃいけないくらいに」
ああ、体を壊したってそういう……なんか壮絶だな。
「あの手の病的な気質は、溜め込まず吐き出したほうがいい。あの椅子を作り続けているおかげで、マカの心は健全であれるのさ。実際あいつは、椅子を除けば近年まれに見る好青年だよ。何かとからかい甲斐のある可愛い男なんだ、そう嫌わないでやってくれ。あいつも気にしてる」
「……善処します」
煮え切らない僕の反応を見た彼は、だけど何かを察したように軽く肩をすくめて、懐から取り出したタバコを吸い始めた。
少しずつ、頭が冷めていく。
……とにかく、僕は教訓を得た。アーティストと会うときには、その作品を真っ先に把握するべきである。
そしてこの教訓は、今すぐにでも活かすべきだ。
「あの、ジョーカー?」
「ん?」
「あなたは、どんなアーティストなんですか」僕は聞いた。
彼はゆっくりと煙を吐き出して、ニヤリと笑う。
「エロスだよ、少年」
「えろ……」
「官能文学、アダルトビデオ、ゲーム、写真、性玩具、セックス指南書、新しい体位……性にまつわる全ての芸術が俺の作品さ」
そら見たことか。
……というか、ビデオ? ゲーム?
「そんなわけで、俺は体をアイドルに変えていない」プライドに満ちた態度で彼は語る。「俺は見ての通りセクシーだし、体も鍛えている。何よりも全身余すところなく開発済みなんだ、今更捨てられん。鼻を舐められるだけでもイケるこの体自体が一つのアートだと俺は認識している。特に、ペニスの質は人類史上でも間違いなく屈指だよ。九歳で精通を迎えてから今日まで共に歩んできたこの相棒を置いて、よりにもよって少女の体などに己を変えるなどありえないだろう?」
アーティストというのは、もしかしなくてもこういう人たちばかりなのか。
「そうですか……」
「ふむ、生まれたての君に言うことではないかもしれないが」ジョーカーは値踏みするように僕の体に視線を這わせた。「ミズノ、君はもう少し体を鍛えたほうがいいな。そんな体じゃ長期戦に耐えられないだろ」
「長期戦っすか……」僕は苦笑い。
「セックスとは相互して高めるものだ。互いが相手を
「アイドル好き、ですか」
「そう、アイドル。彼女らは確かにとても魅力的だが、それはあくまでも子供がモデルであることが前提だ。性は、その仕組みからして大人のものだし、大人の魅力というのは一見ではわからないように隠されているのが常だ。秘められていること、それ自体が魅力と言える。男は、そこに向かっていく冒険家でなくてはならない」
「はぁ……」
「だが悲しくも、性の本懐を忘れ短絡的な欲情に足を取られ、誰が見てもわかるくらいに魅力が表面に
セックス? マカはともかく、他のアイドルは子どもだと思うのだけど。
「確かにアイドルは、男女を問わず触れたくなるように表面が作られているし、内部にもかなり高度なセクサロイドを搭載している」ジョーカーは続ける。「使用者が大人である以上、性生活は無視できないのだから当然だな。ゆえに見た目通りに子どもではないことはわかるし、むしろある種の属性の頂点であるのは認めるが……」
ジョーカーが手を口にかざして顔を寄せてきたので、仕方なく僕も耳を寄せる。
彼はささやくように、鼻で笑う。
「下の毛も生えてないってのは、どうだい? 寂しいだろ?」
タバコの匂い……僕の知ってるタバコと違って臭くない。
「えっと、はい」何も考えずに、そう答えた。
「いいぞミズノ。これは本来なら男なら誰もが
見渡せば、
「彼女らは確かにとても可愛らしいが、それは結局幼さが前提だ。アイドルには匂い立つ汗のフェロモンもなければ、日焼けした香ばしい肌もない。なあ君、およそ女体の中で最もエロチックな部位がどこかわかるかね?」
サイダーをチビチビ飲みつつ、首をかしげる。
「脇毛だ」彼は言い切った。
ああ……うん。
「実際のところ、俺がしているのは啓蒙だよ」彼は酔っているのか、気持ちよさそうに熱弁を続ける。「世界一セクシャリティを解するアーティストとして、アイドルにかまける哀れな世の男たちに性のなんたるかを教える義務がある。アイドルは確かに完璧だ。だが完璧など、深遠なる性愛の分野においては
この人、ベルゼブブと同じ匂いがするな。いや、うんこ臭いって意味ではなくて。
「都合良く作られた対象を夢想しているようでは下の下だ」語りは続く。「どんな状況でもまずは己を磨き、互いに
「はあ……」
「わかったら、君も体を作り給え。鍛えた体と清い心がある限り、男はスケベで構わない」
「なんか、カッコイイっすね、それ」僕は笑った。
彼もふいに吹き出したように笑って、僕と乾杯した。どうやら半分はフザケてしゃべっていたようだ。きっとそういう意味で、彼は
「あぁそうだ、お近づきの印に、プレゼントだ」
急に視界に、髪の長い小太りの女が現れた。ゆったりとした寝間着のような白いドレスを着ている、妙に生々しい肌の質感をした女。使い魔か。
そいつが差し出してきた魔法瓶のような円筒を彼は受け取って、使い魔を消してから、黒いそれを僕に差し出してきた。
「なんですか、これ?」
「何って君、ナニだよ」
五秒間くらい考えて、察して、また吹き出す。
「いえ、結構です」
「はあ?」思ったよりも否定的な声が上がった。「いやいやいや、いらないってことはないだろ。ミズノお前、しない気なのか?」
「え?」
「んん? 君、何か勘違いしてるのか? いやもしかして、これは文化の違いか? いいかねミズノ、こいつは俺の作品の中でも最も普及率の高いアイテムだ。この世界の男の9割は所持している、現代の必需品さ。精通前のティーンズでも、俺のような筋金入りの巨根でもジャストフィットし、ヴァーチャルと同調して動かすこともでき、中身の処理も少量の瓦斯で自動化できる万能アイテムだ。俺もよく使う」
「いや……その……」
「あぁ、あれか? もしかして、お下がりなのではと気にしてるのか? おいおい勘弁してくれ、そんなベルゼブブみたいなマネはしないよ。安心しろ、これはちゃんと新品だ。カスタマイズしたくなったらいつでも言ってくれ」
これは……ジョークだろうか。それとも本気?
「いえ、あの、僕あんまりそういうのは……」
「そういうの? おいおいミズノ、マジで言ってるのか? 君の国の貞操意識がそうなのか? シュウキョウ、とかいうヤツのせいか? そう否定されてしまうと、俺も専門の名誉をかけて君を説得したくなるぞ。無論、無理強いはしないが……いや、男がこれを拒む意味なんて一つもないんだぞ、いいか……」
……なんて僕にしつこくそれを押し付けようとしてくる彼を、僕は見ていなかった。
向こうの一団を離れて、こちらへ歩いてくる一人の女性を、僕は見ていた。
最初、ほんの一瞬だけ、あれは普通の大人なのかと僕は考えた。だけど、顔にピントが合った時点で、すぐにアイドルだったと気がつく。
だとしたら……。
僕は鼻から息を大きく吸い込んで、ドキドキしてきた胸を押さえつける。
いやいやいや……。
あの人、マカよりヤバイんじゃないか?
ジョーカーも僕の視線を追って、彼女に気がついた。
フッと自信に満ちた笑いが、彼から漏れ出す。「いいだろうミズノ、この話は、レベッカに挨拶してからだ」
「こらジョーカー、こんなところで何振り回してるの」
レベッカというその人は、若々しく快活な声で、僕らに向かい微笑みかけた。
僕はとりあえず、愛想笑いを返す。
できるだけ彼女の体を見ないように、頭の上、高く縛られた髪のあたりに視線を向けて。
ざっくりと開いた、グラマラスすぎる胸元を、意識しないように。
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