第10話 聳える、ベルゼブブ

__糞まみれの豚と交尾しろ。話はそれからだ。

 ……ベルゼブブ、実演しつつ



※食事シーンの手前で大変恐縮ですが、本章には生理的に不愉快な描写が含まれています。お食事中の方は自己責任でお願いします。無理な方は最後だけお読みください。



 その化物を見て、僕は最初、頭が二つあるのかと思った。

 二つのシルクハットがそう思わせた。

 恐ろしく背の高いそいつの首の上には、人の頭よりも大きな球体が二つ乗っかっている。最初は頭に見えたそれがただの目玉だと気がついたのは、球の繋ぎ目に、鋭い歯を光らせるザックリと裂けた口が見えたから。顎はなく、首と頭部は一体化している。シルクハットを載せた二つの巨大な目玉は真っ黒で、淀んだ青い光が内側で虫のようにキョロキョロと動いていて……。

 そう、虫。

 正確に言えば、トンボ。

 いや、はえだ。

 でっかい蝿の頭が付いた、黒いコートをまとった人間。そんな印象。

 僕は度肝を抜かれていた。というか、素直に怖かった。ラブコメ気分の脳みそがアッという間に現実に引き戻されて、軽く目眩めまいがしたくらいだ。明らかに人間じゃない何かが人間のように動いているってのは、間近で見るとこんなにも不気味なものか。

 おぞましい威圧感だった。

 そうか……体を変えられるんだから、こういう人だっているよな。それとも、被り物の一種? わからない。

「こんばんはパレード、マカ、そして地球人」血の池の底から響くような、鈍く、低く、真っ黒に澄んだ渋い声が、人ならざる喉の奥から染み出した。「私の椅子は此方こちらで合っているかな?」

「あんた、料理に興味とかあったんすか……」マカがいかにも嫌そうな顔で呟く。

「祝福を知らぬものに深淵は語れないのだよ、麗しきお嬢ちゃん」ぐぐっと、ソイツの目玉が僕とマカの隙間に差し込まれた。「清水が無ければ汚水は生まれない。糞尿は食の成れの果てだ。君たちアイドルは忘れているかもしれないがね」

「……お嬢ちゃんって言わないでくださいよ」

「とても綺麗だよ、心からそう思う。排泄物を垂れ流さないのが残念でならない」

「飯前にやめてくれぇ!」

 どこか不穏な香りを漂わせる会話ながらも状況が飲み込めなかった僕は、説明を求めてパレードの白い顔に視線を送った。

「あぁ、こいつは……」パレードは、珍しく苦々しい笑顔で果物をつまむ。「こいつはあれだ、ウンコの神様だ。来る日も来る日も下水道でウンコを見つめてウンコと一緒に寝てるウンコ魔神だよ」

「……うんこぉ?」あんまりな物言いに、僕は顔をしかめて聞き直してしまった

 悪魔の目玉が、機械的な動きでギュルリと僕を見た。

 青い光が赤く染まり、ブブ……ブブブ……と、微かな音が染み出してくる。

 タイヤを引き伸ばしたみたいにブヨブヨで黒い肌が、眼前に。

 鳥肌が立った。

「初めまして地球人、私の名前はベルゼブブ」あくまでもダンディで、威厳のこもった、深い声。「この世で最も臭い屁をける者だ」

「へ……へ?」

「気をつけろミズノ。こいつは冗談を言わない。それは文字通りの意味だ」

「その通り」ベルゼブブ……キリスト教の悪魔を名乗ったこの男は、馬鹿に丁寧かつ大袈裟な身振りでお辞儀をする。「私は下水道の主ベルゼブブ。蝿ではなく、文字通りの糞の王。稚気など含まず大真面目に糞を浴び、小便を泳ぎ、嘔吐物で絵を描く汚れた人間だ。つい先程までも、下水道で固形の糞と下痢を選り分ける作業をしていたのだが、今日はタオシェンの晩餐会があったことを思い出してね……」

 いや、ふざけてるだろこの人。

「あの……いや、今からご飯……」

「この場にいて、これから消費される料理アートから糞を排出する人間は少ない。つまらないことにアイドルたちは排泄をしないからね……あぁそうだ、君の名前はミズノだったね? よろしければ、今日最初の糞を私に分けてくれないか? まだ生まれてから一度も脱糞をしていないのだろう? 記念に作品にしてやろう」

 ちょっと待て、コイツしゃれにならん。

「わーわーっ! なんですかこの人!?」僕は顔を背けながら、目でパレードに助けを求める。

「お前、ウンコとか気にする方なの?」さくらんぼを口に放り込みながら、パレードが聞いてくる。

「そりゃあもう!」

「当たり前だ!」

 僕とマカが二人して声を上げる。

「ふーん……じゃあ私ももう何も言わん。お前らも今後一切、そいつのことは無視しろ。そいつの作品に興味を持つな。触れるな。知ろうとするな」

「そ、そんなにですか……」マカの顔を流し見た。彼も、苦笑いで頷く。

「そいつは汚物嗜好や変態性癖を固めて作ったそびえ立つ糞の神だ」パレードは続ける。「この世界の負の結晶と言ってもいい。常人じゃ見るだけで吐くような作品ばかりを造り続け、挙句の果てに見ての通り人間を辞めちまった正真正銘の化物だ」

 化物……。

「私はこいつの作品を、この場で一切説明しない。いいか、お前も大人なら、それがどういう意味か察せ。なんでも作れる魔法の世界でと言われているそいつの作品がいかに飯時に向かないか、言われずとも感じ取れ」

 少しだけ想像がついて、ツバを飲んだ。

「ご紹介にあずかり感謝する。人間を捨てた覚えはないがね」ゾッとするほど良い声を響かせながらベルゼブブは、最悪なことに僕の隣の席に腰掛けた。「確かに私の作品たちの基礎構成単位はウンコだ。だが、そればかりではない。私の作品は糞に始まるが糞では終わらない……人が恐れるもの、触れたがらないもの、吐き気を覚えるもの、トラウマとなるもの……その全てが私の領分だ。その深み、君に理解できるかね?」

 そう言って、僕へと人ならざる目を向けた。

 怖い。

 ……この人、身長2メートル超えてるよな……。

「こいつの作品の中にはね、クオリティだけで言えばイデア式とも張り合えるものもある。アイドルの体が完璧なのと同じくらい、ベルゼブブも完璧だ。完璧に、最悪だ。だからタチが悪い」

 さらっと、結構ヤバイことをパレードは言う。このときの僕は、まだどちらの意味でも、真のヤバさに気がついていなかったけど。

「ベルゼブブと同席かよ……食欲無くすなあ……」マカはブツブツと文句を言っている。

「失敬な。今日はこの通り体も顔も覆っているうえに防臭処理も完璧だろう?」と、ベルゼブブ。「私は君たちの食事を邪魔しに来たわけではない。更に言えば、美味を美味と感じる味覚も喪っていない。むしろこの世のあらゆる美的感覚こそ、私が決して無くしていけない生命線だ。不快はあくまで快の反対だからね」

「あなたは存在自体が食事に向いてないんです」

「ありがとう、褒め言葉だ」

「私はウンコとか全然気にならないからなぁ」と、パレード。「クソまみれの部屋で弁当食ったこともあるしね」

「どんな状況ですかそれ? ていうか、ほんとウンコの話はやめて……」切実に、僕は訴える。というか、なんでこんな人と同席なんだ? 左半身がジリジリと焼ける思いだ。

「まあ、許してくれたまえ。これが悪に携わるもののたしなみなのだ」ベルゼブブが右のシルクハットを直しつつ、クククと笑った。

「ウンコがですか?」

 目玉の中に、ギョロリと鋭い眼光が光った。

「そうだ、ウンコがだ。ウンコこそがだ」

「え?」

「悪とはすべからく糞を嗜むものだ。嗜まねばならぬ。君は、糞尿もまとわずに現れる悪人を恐ろしいと思えるかね?」

「……はあ?」

「君たちの世界にも悪人の物語が有ったろう? 世を乱し、人を殺め、血走った目で笑う闇の住人の物語だ。私にはあの手の創作が理解ができない。あんな皮かむりのわらべたちが粋がっているだけの様をさも邪悪であるかのように扱える心理が判らない。君たちはなぜ、あんなにも微笑ましい画で満足できるのだ?」

 ベルゼブブが喋るたびに心臓がすり減っていく心地がして……そしてちょっとした下心も込めて、僕はジリジリとマカの方へと椅子ごと後ずさった。

 ベルゼブブはそんな僕を見て、おそらくは笑いであろう擦音を響かせた。ハエが羽ばたくような音だった。

「糞も食わぬものが狂人やサイコパスを名乗るなど片腹痛い。下痢も纏って現れない魔王など痛々しくすらある。頭を撫でてやりたくなるほど幼気いたいけな背伸びじゃないか。大人の世界を夢見てマスターベイションをしている少年たちの方がまだ実りがある。悪は小奇麗であっては駄目なのだ。中途半端で立ち止まってはいけない。程々ほどほどなど許されない。悪を名乗るものは、徹頭徹尾、不愉快でなくてはならない。悪とは醜く、そして見苦しいもの。例えば私など、このコートの下には白いオムツを履いて歩いている」

「おむつって……」シュールなその姿を想像して、僕は思わず笑ってしまった。

 ベルゼブブは、黒い手袋をはめた長い指を、僕の目の前に差し出してきた。

「笑ったね? そうだ、それでいい。悪の本質とは浅ましく、みっともなく、見るに堪えないという、なのだ。が、人に害を為すことの本質なのだ。魔王がマントだと? 頭に角だと? 雄々しき翼だと? はっ! ファッションショーにでも出るつもりかね? 悪を名乗っておいて何を格好つけている。なぜ私のように体に肛門を増やさない? なぜ私のように糞を食わない? なぜ腹を下さない? なぜ糞まみれの豚を犯さない? なぜ糞まみれで豚に犯されない? 汚れから逃げるような悪など片腹痛い。半端者たちがママに見てもらいながら演じる学芸会だ。私の作品にそんな甘えはないぞ、ミズノ。私は真面目だからね。例えば、意識転送を活かして作られた、糞山の巨大な蟯虫ぎょうちゅうに犯されて殺されるまでのシュミレータ。胎児が羊水の中に糞を注ぎ込まれ、窒息するまでのせ返るような……」

 僕はもう、耳を塞いでいた。マカも同じポーズを取っていて、パレードだけが淡々とさくらんぼを口の中に放り込んでいた。

 なんだか、とてもじゃないがムカムカして、食欲ごと隣の化物に食い散らかされた気分だった。

 というか……なんてことを言うんだこのデカい小学生は。魔王がウンコ纏ってたら笑っちゃうでしょ。いや、実際にやられたらそりゃあシャレにならないけど……。

 なるほど、ここはアートの楽園……こんな奴までもが、評価され、報われる世界なのだ。それは多分、必要なことだろう。どんなものでも追求は許されるべきだ。芸術に検閲は必要ないというのは、きっと向こうにいた頃の僕だって知ってたこと。

 だけど、住み分けは大事だ。

 死ぬほど大切だ。

 パレードがもう大丈夫の合図を出したのに合わせて、僕らは耳から手を離した。

「だから言っただろ? 触れるなって。というか、反応するな。そうすればこいつは必要以上に嫌がらせしてこねえよ。良心がないわけじゃないんだ」

「嫌がらせ、か。まだ何を見せたわけでもないのだが?」

 ベルゼブブがまた腹立つほどに渋い声で笑ったが、パレードの忠告に従って無視すると、ホントにそれ以上のことは何も言わなかった。これが対策なのか……。

 なんか、動物への対応みたいだ。

 ……この時、僕は多分、アーティストという人種のイメージを少しだけ変更したように思う。瓦斯の点数で全てが計られる以上、アーティストとなるのに大衆性は必要とされない。ならばアーティストは、僕らの世界の有名人のように、色んな人に受ける作品を作っているようなタイプではなく、恐ろしく個性的な作品を作り続ける人間たちなんじゃないだろうかと……。

 汚いイメージを頭から払拭するために、マカの殺人的なうなじや太ももを眺めながら、一見可愛いだけに見える彼の、頭の中を想像する。

 マカの作品という椅子だって、どんなものが出てくるか、わかったものじゃないな……。

 カチャカチャと、食器を運ぶ音。

『いやいやいや、お待たせしてもーしわけない』

 と、さっきも聞いた、館内放送の女の子の声。

『ささ、たんと召し上がって下さいな』

 あぁ、ようやく料理が運ばれてきた。周りを見回せば、たしかにテーブルはほとんどシルエットから美しいアイドルたちで埋まっていた。できれば一人ひとり顔を見たかったのに……このウンコ怪獣め。見渡す限りだと、みんな頭身が低いものだから、本当に女子中学校みたいな印象だ。ざっと見で明らかにアイドルじゃないとわかる人は二人だけ。それもまたなんだか先生のようなおもむきだが、彼らもアーティストなのだろうか。

 お……いい匂いだ。食欲の減退するような話の後とは言え、これだけ空腹だと、匂いだけでもたまらないなぁ……。

 ん?

「あれ?」僕は驚いて、声を上げた。



※まとめ……小学生以下の下ネタを大真面目に言う化物がいましたが、無視してご飯にしましょう。

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