月夜の鏡

そもそも私は何を望んでいるのだろうか。


私の半身だったモノが消えてから、幾年この望月を見上げてきたことか。

ずっと傍にいた彼女。私を構成する一部であったはずの彼女は、ある日望月の合わせ鏡に溶けゆくように消えていった。その時私は何を感じたのか。悲しかったのか、悔しかったのか、絶望したのか、今となってはもう思い出せない。

感情が、死んでいるから。

月は感情の象徴とも言う。月が喰らっていったのは、私の感情。感情ごと、月は私の半身を呑み込んだ。あの日から、私は何も感じられなくなった。

――もっとも、半身たる彼女も、まともな感情を持ってはいなかったけれど。

月夜に煌めく銀髪は、何を思って揺れていたのか。私から分離した彼女は、何を携えて月の鏡へと旅立ったのか。

そして私は、何を失ったのか。

知る必要が、あるのだろうか。


たぶんそこには、意味などない。

ただ私が、そこにいる。ただ彼女が、空の向こうにいる。

私はいつか、その半身のもとに行く。

それは、死を意味しない。


あるいは彼女が再び舞い戻ってくるのかもしれない。

生きたモノとして戻るのか、月に喰われた魂だけが舞い落ちるのか、それは定かじゃないけれども。

あり得るとすれば、今再びの合わせ鏡。

月とこの世が繋がる、合わせ鏡。


純白の月が、怖い。

消えた彼女の凍てついた瞳が、硝子のように澄み切った瞳が、その光と重なるから。

もう一度出逢えるのならば。

もう一度、岩にせかるる滝川のように、再びひとつにまみえるなら。


この身は、どうなっても。


振り返る。

りん、という特殊な張りつめた空気。ありとあらゆる不純物が浄化された、神聖にして無の果てなる世界。

望んだわけではない。

ただ、彼女に思いを馳せた。それだけ。

それを、望んだというならば。


彼女がそこにいた。


怖くはなかった。純白の月そのものの姿をしている、白銀の髪は月影を照らし、その抜けるような肌さえも月の色、私が怖いと思った月の色。

それでも、彼女は、怖くはない。


当たり前だ。

私の半身なのだから。


しかし、だ。

私はどこが欠けていたというのだろう。半身を失っていたはずなのに、私は完全だった。何一つ欠けてはいなかった。強いて言うなら、感情。彼女に預けていた、感情。


彼女が戻ってきても、感情は戻らない。


ただ茫漠と、彼女を見やる。そこに何の感動もない。ただ、私の瞳が彼女を映す。彼女の瞳が私を映す。

ただ、それだけ。

半身だなんて幻想だったのだ。私にそっくりの女が、私から離れて、今ひとたび戻ってきただけ。それだけのことだ。


地上の私と。

月面の、彼女。


そっくりな、二人。

瓜二つな、二人。


合わせ鏡。

気づくのに、時間はかからなかった。


何かが揺らいだのは、気のせいではないだろう。

あの時は彼女が消えて、私が残った。今度は、どうだ。月を得た彼女は、私を喰らうだろうか。同じモノにしてしまうだろうか。

彼女は何も言わない。

私も、何も言わない。


消えたくないとは思わない。

消えてしまいたいとも思わない。


私は、何も、望まない。


目の前の白い光が、天から降り注ぐ光が、ふいと消える。

そこは闇ではなかった。

薄ぼんやりと見える視界の、その朧げな空気の向こうに感じられるそれは、過たずに私そのもので。

闇を闇ではなくしている正体は、まさに私そのもので。

月の光を宿しているのは、私そのものであって。

私が遠くへと去っていき、私は月を宿す。

どのみち、感情はない。

もとより、どちらにもなかったのだから。


行方知れずになった感情を、第三の私を、去りゆく私は見つけられるだろうか。

望まぬ限り、得られぬものなのか。

そして私は、どこへ向かうのか。

月に消えながら、地上に在り続けるのか。

もうひとつの世界が、遠い。


月に遺した魂が、遠い。

狭間に遺した想いが、消えない。


統合は、いつ。

私が私としてひとつになるのは、一体いつなのだろう。

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