掌編集:断章――情景、あるいは言ノ葉

水撫月 怜香

極夜幻想

目覚めたら、夜だった。


まただった。

もう何度目だろう。前に目覚めた時も、夜だった気がする。その前も、そのまた前も。僕が目覚める時は、決まっていつも夜だった。

透き通った、だけど何も映しはしない、綺麗な闇。

最初は怖かった。何もないことが。押し潰されそうで、喰われそうで。明かりのない昔の新月の夜は、きっとこんな常闇だったんだろう。――いや、まだ星が煌めくだけ、マシかもしれない。僕の夜には、星屑さえ存在しない。

――あれ、どうして僕は、星の煌めきを知っているのだろう?

見たことないはずなのに知っていて、どうしてなのか分からなくなって、僕はひとまずその思考を脇に置く。


思えば僕は、この夜の中で光を見たことがない。

光というものが何なのか、僕は一応知ってはいる。闇の中でもはっきり分かるような白い輝きだって。だけどこの目で見た覚えがない。そんなもの、僕の周りには一切ない。今もないし、過去にもない。

一度、誰かに「違う」って言われたことがある。

光はいろんなものを見せるもの、ってその人は言っていた。僕には光が見えないから、何も見えないんだって。

違う、と、思った。

光はそんな、控えめな存在じゃない。真っ暗な世界で、「僕はここにいるよ」と訴えるかのように存在を主張するのが、光だって。そう、僕は直感していた。自分の直感は、信じることにしている。

だけどいくらそう言っても、僕の知識は認めてもらえなかった。知らないだけなんだよ、という言葉が、僕の心を埋めていく。

やはり気のせいなんだろうか。やっぱり僕は何も知らなくて、僕の知ってる「光」も僕の創った幻想に過ぎないんだろうか?

なんだか悲しくなってきて、僕はまた夜の中に沈んでいく。

透明な夜は、意識を手放そうとする僕をいつだって優しく受け止めてくれる。だから、僕はこの暗い世界が好きだ。


――そのことに気づいたのは、いつだったんだろう。


再び目覚めると、いつものように夜だった。

僕は何も変わっていなかったことに、少し安心していた。僕を護る闇は、今もちゃんとそばにいる。

不安に思うことなどない。

――はずなのに、何故か僕は不可思議な感覚を拭えずにいた。

何かが無い、そんな感覚。

そういえば、さっき眠りに落ちる前の僕は、見たことがないはずなのに「光」というものを知っていた。そして僕はそれを奇妙に思っていた。僕の世界はそもそもの初めから常夜だったし、誰かに教わったわけでもない。つまり、知っているはずがない。

それなのに、僕は知っている。

どういうことなんだ、これは?

本当はどこかで、見ていたのではないか?

気づいた瞬間、一気に、言いようのない不安に襲われた。またわけが分からなくなって、自分が怖くなって、夜闇に助けを求めた。僕の夜は、ただ静かに見守っているだけで、何も答えてはくれなかった。僕も、僕の世界も、みんな無力だった。初めて、恨めしく感じた。

僕はただ、うずくまって震えることしか出来なかった。


不安と恐怖の嵐が収まって、僕の胸にはひとつ、何かを抜き取られたような空虚が残っていた。

今まで感じたことのなかった、今やさも当然のように存在しているそれの正体を、僕は知らなかった。知りたくなかった。

知ってしまったら、僕は壊れてしまうだろうから。


「兄さん!」

どこか遠くで、誰かの声がした。聞いたことのあるような声だった。

例えるならそれは――僕の声に、似ていた。


闇が乱された。

僕はびくりと震えた。いやな予感がした。

今までにも、この闇に誰かが入ってきたことはあった。僕には見えないけれど、気配で分かる。時折僕に声をかけてきた。僕を気にかけてくれているのだろう。彼らがどんな人なのかは分からないけど、少なくとも彼らから異質な何かを感じることはなかった。

だけど、今は違う。明らかに、僕は恐怖を感じている。もう分かっていた。自分にどんな運命が待ち受けているのかを。

壊される。

壊される。

始まりの時からずっと共に在った僕の夜が、そしてこの僕自身までもが、失われてしまう。僕が僕でなくなってしまう。

僕は怯えていた。震えることしか出来なかった。きっと、今度の嵐には、耐えられない。

「兄さん……!」

また誰かの声が聞こえた。さっきと同じ、だけど悲痛そうな声。幼い少年のようだった。

僕は耳を塞いだ。心の中をかきむしられるようで、何かが引きずり出されそうで、酷く、苦しい。ただの声のはずなのに、どうして。

思考の全てに響く声。エコーがかかり僕を苛む。護ってくれるはずの夜は、何の抑止力にもならない。丸裸にされた僕は、もう何も出来ない。

「大丈夫か」

すぐ近くで聞こえる、別の誰かの声。聞いたことがないはずなのに、酷く聞き覚えのある声。――ああ、始まってしまう。

答える余裕なんてない。いや、もし答えてしまったら、僕は終わってしまう。

だって――僕のよく知るこの人は、僕を壊す人だから。


そして彼は、僕の名を呼んだ。


引き金が、引かれた。

それは最も言ってほしくて、最も言ってほしくない言葉だった。

他の誰かなら構わなかった。だけど、彼だけは、ダメだった。その声でその名を呼ぶことだけは、今の僕には、耐えられない。

僕の中で、今までの僕が、瓦解していく。

優しい闇に包まれたまま、僕は壊されていく。生ぬるいものではなかった。爆発的に思念が膨れ上がり、怒濤のように流れ込んでくる。奔流は僕を押し流し、押し潰し、根こそぎ奪っていく。

混乱と恐怖。溺れそうになって、僕は闇の中に手を伸ばす。

「助けて……兄さん!」

思わず叫んだ自分の声は、あの声と全く同じだった。


――それは、幼い頃の、僕だった。


耐え切れたのかどうか、分からない。

だけど、どうやら、僕は生きているようだった。


気づくと、もうあの奔流はおさまっていた。嵐の過ぎ去った後の、静かな世界。傍らには、彼――兄さんの気配がある。

僕は目を開けた。

漆黒の闇があった。

――おかしい。

目を開ければ当然、光が見えると思っていた。僕の生きている世界も、兄さんの姿も、みんな見えるはずだった。

なのに。

「……見えない」

僕は呟いていた。嘘だと思いたくて、何度か瞬きをしてみた。だけど、何も変わらなかった。ただ、重苦しい闇が広がっているだけ。

「見えない、見えない、見えない」

譫言のように、同じ言葉しか出てこない。狂ったように手を動かしても、何の打開にもならない。

認めたくなかった。認めてしまえば、すなわち絶望。だけど、こうなってしまっては、認めざるを得なかった。

僕は、目が見えなくなってしまったのだと。

「お前……気づいてなかったのか」

兄さんは、明らかに驚いているようだった。その言葉で、僕ははたと思い出した。自分が今まで、どうなっていたのか。

「……ずっと、夜なんだと思ってた。とっても綺麗な夜だった。何も見えなかったけど、怖くなんてなかった。むしろ、優しくて好きだった」

既にあの時から、僕の視覚はなくなっていた。だけど、僕は気づかなかった。視力と一緒に、その原因となった過去をも失ってしまっていたから。

「そういう世界なんだって思ってた。だって、光を見た記憶がなかったから。でも……何故か、光のことを知っていた。今やっと、どうしてなのか分かったよ。だけど、こうなっちゃうなら……」

分からないままの方が、良かった。そう言って、目を閉じる。何も変わらない。優しかったはずの夜は、もうどこにもない。捜し求めるように伸ばした手は、兄さんの腕に届いていた。あの夜闇とは全く違う、優しさ。

「だから……怯えてたのか、あの時」

「うん、そう。覚えてないはずなのに、兄さんだって気づいた。壊れてしまいそうで、怖かったんだ」

そして、壊れた結果が、これ。

目が見えない恐怖に怯えていたのだと、兄さんは思っていたらしい。僕がまるで逆の意味で震えていたとは知らずに。でも、無理はないと思う。

「……すまない」

兄さんの気配が萎縮したのを感じて、僕は慌ててしまった。兄さんが謝ることじゃないのは、僕が一番分かっている。結局は、不可抗力とはいえ何も知らなかった僕のわがままだから。

「いいんだ。兄さんに会えて、良かった。……今はこの闇が怖いんだ、一緒にいてくれる?」

兄さんが頷いてくれたのが、分かった。


失ったことで得て、得たことで失った。どっちを選ぶべきだったのかは、今の僕には分からない。

けれど、きっとこれで良かったんだと思う。


「大丈夫だ。明けない夜は、ない」

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