ep7 「宇世界には致命的な欠点があります」

昼どきに『メゾン無量大数』に戻ると、すでにデボラさんが帰宅していた。


「お帰りなさい。お昼ができていますよ〜♪」


エプロン姿だった。おしとやかな黒髪ロングに、あくまで実用だけを考えたであろう質素なエプロン。

その破壊力というか迸る人妻感に一瞬、頭がクラリとした。

——たまらん。


「というか、もう仕事終わったんですか?」


「いえいえ。このあとまた仕事に行きますよ? お昼は家で食べるのが習慣なんです」


「そうだったんですか」


一瞬、楽な仕事だなと思ってしまったが、声に出さなくて良かった。むしろ、昼飯まで作るなんて忙しい生活だ。

——散歩してビールを飲むだけのトラトラとは大違いだな。


「なんだとこらッ」


「いや、人の心を読むなよ」


「顔を見りゃあだいたい何を考えてるかわかるわッ!」


らしい。顔に出ないように気をつけよう。


「テルキさん、散歩はどうでしたか?」


テーブルに昼食の皿を手際よく並べながら、デボラさんに訊かれた。

俺は素直に答える。デボラさんには信頼を置いているのだ。


「なんというか、思ったより知っている風景でした」


というか、ほとんど俺が死ぬ前いた世界と変わらなかった。

商店街があって、家が並んでいて、働く大人がいて、遊ぶ子どもがいて、主婦が談笑していた。

彼ら、彼女たちが使いこなす携帯デバイスも、知っているものとほぼ同じものだった。


「でしょう。これが人類のあるべき姿ですからね。テルキさんがいた世界は、じつはほとんど完全な文明を達成していたんですよ」


「完全な文明?」


「ほとんど完全な文明、です。まあ細かいことは今度ゆっくり説明しますね——さあ、食べましょう♪」


テーブルを見ると、朝に引き続き、これまた美味しそうな料理が俺たちの前に並んでいた。


「ボロネーゼです。……あっ。テルキさんとオネスティはトマトは大丈夫でしたか?」


俺とオネスティは顔を見合わせてから、コクリと頷いた。


「よかったぁ。では召し上がれ♪」


「じゃーいただくぞッ! ズルル! ズルル! うおー! うめぇ! やっぱデボラの料理は最ッ高だぜ!!」


お腹が空いていたのか、下品にすすりながらトラトラが叫んでいる。


「じゃあ、……いただきます」


「いただきます」


「んふふ♪ どうぞっ」


俺とオネスティは胸の前で手を合わせた。


そして……麺をすする。

——うまい。まずはトマトのほどよい酸味。次いでひき肉の旨味。

噛むほどにトマトとひき肉のジューシーさがやってくる。

最後にやってくる麺のツルッとした喉ごしもたまらなかった。

もうほんと、デボラさんみたいな嫁がいたら最高だろうな……。

この料理を毎日食べていたであろうトラトラに嫉妬したくなるほどだ。


しかし、そんな嫉妬心以上にこみ上げる感情があった。

——安心感だ。

デボラさんの優しい微笑みに、俺は心底ホッとしていた。

自分の家にこういう人がいることは、すごく幸せなことだと気づいたからだ。

俺はなぜか、この胸の中に甘い汁が溢れるような感情を、初めて感じたことだと思えた。

……転生する前にも、俺には母親がいたはずじゃなかったか?

…………。

思い出せない。

記憶が薄れている気がする。

前世で、俺はどんな生活をしていたっけ?

——あれ? 本当に思い出せない。俺にも親がいたはずだ。でも……そんな大事な人の顔が、もう出てこない。


あ。

パスタを食べる手が止まる。

なんか怖い。怖くなってきた。

怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

自分の人間としての土台が消えてしまっている。

今まで感じたことのない恐怖が芽生え——


「大丈夫です……」


ポン、と。

頭に何かが乗った。


「あなたの苦しみを理解しています……。大丈夫です。私も同じです……」


「えっ」


声の方を見る。

声の主は、オネスティだった。

オネスティが俺の頭をゆっくりと撫でている。

ゆっくりと、ゆっくりと。猫を愛でるような手つきで。

慈愛に満ちた手だった。


「私がいつか、今のテルキさんと同じ気分になったら、同じように優しくしてください……」


「…………」


「それだけで、救われることも、あるんです……」


——そうか。

みんな同じなんだ。誰もが寂しいんだ。デボラさんとトラトラにはこういった感情はなさそうだけど、少なくとも、オネスティにはあるのだ。

この不安に満ちた『寄る辺なさ』を共有できる人が、目の前にいる。

この事実に、お互いがどれだけ救われるか……。


「わかったよ。ありがとう、オネスティ」


俺はオネスティの手を取って、強く握った。

……我ながら大胆な行動に出たものだが、なぜかドキドキはしなかった。

オネスティはそういう色恋の相手ではなく、魂の理解者というべき相手なのかもしれないと思ったからだ。


×


午後は、トラトラから仕事に関してのレクチャーを受けた。

相変わらず休憩中にビールを飲んでいたが、トラトラによる説明自体はそれなりにきちんとしたものだった。

まずは『メゾン無量大数』の清掃や、食事を作るデボラの手伝い、皿洗い、ゴミ出しといった日常的な仕事。

これらを俺とオネスティが分担して行うことになった。

そしてもうひとつやるべきこととして、時々『異世界管理会』の会合に顔を出すことを挙げられた。

とはいえ、月に数回だけということだったので、そこまで負担にはならなさそうだ。

トラトラから言い渡された『仕事』は、これだけだった。

それだけかと問うと、


「宇世界は完全な世界だから、生存・最低限文化的な生活のために必要な仕事量は、極めて少ないんだッ」


という答えが返ってきた。

どうやらそこにいるだけでまとまった生活費が『異世界管理会』から支給される仕組みのようだ。

……ベーシック・インカムみたいなものだろうか。

元いた世界では夢物語とされていたが、『宇世界』では常識らしい。……『完全な世界』を謳うだけはある。

それは確かに嬉しい事実ではあったが、一方で、そんな簡単に生活できていいのだろうかという戸惑いもあった。

「お金がもっと欲しければ外に出て働いていい」とも言われた。事実、さらに豊かな生活を送るために仕事に出ている人々によってこの世界は活況を保っている。


「ベーシック・インカムが人間の労働意欲を奪うっていうのは嘘だったんだな」


「ンなワケあるか! 人間の欲望は無限だろッ!」


俺の呟きを、トラトラは一笑に付した。

人間の欲望は無限、か。

——そうなのかもしれない。

ここは本当に素晴らしい世界なのかもしれない……と、隣のオネスティを見ると、なぜか彼女は少し小難しい顔をしていた。

なんだ?


×


夕方になると、仕事を終えたデボラさんが帰ってきて、夕食をみんなで食べた。

ご飯、味噌汁、サラダ、鶏肉の辛味噌炒めという定食のようなメニューだったが、これもまた素晴らしいものだった。

ここにいるとすぐ太ってしまいそうだ……。

そしてトラトラはといえば、夕食の頃にはもう完全に出来上がっていた。非常にめんどくさい絡みを連発していたため、デボラさんによって寝かしつけられていた。歳の近い親子のようでもあり、歳の離れた姉妹のようでもあった。

かくして『メゾン無量大数』の一日は終わったのだった。

——あとは寝るだけ。


ひとっ風呂浴びて(これまた広くて素晴らしい風呂だった)、部屋でのんびりしていると。

コンコン、と。

ドアがノックされた。


「はい? どなたですか?」


「あの……、入ってもいいですか……?」


オネスティの声だった。

気になったのは、なぜかヒソヒソ声だったことだ。

彼女は俺の向かいにある部屋で暮らすことになったので、よほどの大声でなければ一階に住むデボラさんとトラトラには声は届かないと思うのだが……。


「オネスティか。何か用?」


そう問うと、


「入っても……?」


と念を押された。

ううむ、何か嫌な予感がする。

だが仕方なく「どうぞ」と伝えると、間髪入れずドアが開き、わずかな隙間から滑り込むようにしてオネスティが入ってきた。

まるでその瞬間を誰にも見られたくないかのようだった。


「おやすみのところ、すみません……」


と口では言うが、ほとんど押し入ったに近い振る舞いだろうに。


「実はちょっと、お話がありまして……」


「……話?」


何かに後ろめたさを抱いているのか、視点が定まりきらないオネスティを見る。

——風呂上がりだろうか、髪はしっとりとしている。肩あたりでクルンと外に跳ねている毛先だけが緑色で、やはりそこに目がいってしまう。つくづく不思議な髪型だ。

服装はラフだった。ヨレヨレの黒いTシャツとグレーのスウェット。それだけだと田舎のヤンキー女子みたいだが、Tシャツの胸のあたりにはドクロとか炎とかおどろおどろしいが主張が激しい横文字がドーンとプリントされていた。

……明らかに、メタルバンドのTシャツだった。好きなのか……今度それとなく話を振ってみよう。


「なにか私の顔に付いていますか……?」


——気づくと、オネスティは不思議そうに俺を見つめていた。


「い、いや! なんでもない」


「そうですか。……座っても?」


「どうぞ」


俺は丸い座布団を二つ床に投げて、うちひとつに座った。


「…………」


しずしずと、もうひとつの座布団にオネスティが座る。

そして、まるで急かされるように早速本題に入った。


「……話というのは、『宇世界』と『新世界』についてです」


「『宇世界』と『新世界』? それがどうかしたのか?」


「……デボラさんやトラトラさんの話を聞いて、テルキさんはどう思われましたか?」


「どうって……『宇世界』は素晴らしい世界だと思うよ。すぐに馴染めそうだし、生活も楽そうだし」


オネスティの眉間に皺が寄る。


「『新世界』については……?」


「う〜ん、剣と魔法の世界って憧れはあるけど、『宇世界』の生活を捨ててまで行きたいかと言われると違うかなあ」


「でも『宇世界』は安全ではないですよ? 絶えず『新世界』からの攻撃を受けます」


「そうらしいね」


亜世界で起こった爆発も『新世界』からの攻撃だったのだろう。

そもそも、今こうして目の前にいるオネスティ自体、『新世界』からの差し金なのだ。実際に俺の生活圏にまで『新世界』の目は及んでいる。安全とは言えないのだろう。

でも、だったら……。


「『新世界』の人をこっちの『宇世界』に住まわせれば一番平和なのにな」


争いごとなんてバカらしい。みんなこの素晴らしい『宇世界』に住めばオールオッケーじゃないか。

つい本音を漏らすと、オネスティは少しだけ驚いたような顔をしていた。


「……なるほど。そういう考え方もあるんですね」


「オネスティはどう考えてるんだ?」


「『宇世界』の方が、混乱を極めた『新世界』よりも幾分かはマシですね」


「意外と僅差なのか」


「はい。なぜなら、『宇世界』には致命的な欠点がありますので……」


「欠点?」


「それは——漆木デボラの存在です」


「——え?」


デボラさんの存在が『宇世界』の欠点、だって?

あんなに優しくて、美しくて、面倒見もよくて料理もうまい人が、この世界の欠点?

長所ならまだしも。


「優しさと正しさの間には、なんの因果関係もありませんよ……」


オネスティは残念そうに首を振った。


「彼女の存在は危険です。彼女の思想は異常です。彼女たった一人のせいで『宇世界』は危機に陥っていると言っても言い過ぎではないと思います……」


「ちょっ、ちょっと待てよオネスティ——」


「いいえ、待ちません。テルキさん、これはあなただから言うんですよ。痛みを分かち合える相手だと信じているからこうして話しているんですよ……?」


そう言って、彼女は俺の目をまっすぐに見据えた。

そして——


「テルキさん。一緒にこの『宇世界』に革命を起こしませんか……?」


「革命……?」


革命——頂点にいる人間を討ち倒し、現体制を転覆させること。

この『宇世界』において革命を起こすとは、つまり——。

オネスティは「ええ、お察しの通り」と頷いて、微笑んだ。


「漆木デボラを殺しましょう」

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