お前が鳥になれ

merongree

烏はいつか死ぬ

「僕は、」と可為武は我知らず、自分から言葉を口にするのを見送った。

「知りません、」

 彼と養父の弥兵衛との間に、小屋の窓から斜めに差し込んだ光が落ちた。

「そうか、」

 と言って、弥兵衛は柿色をした自分の頬に手を当てた。彼が困って思案に耽る時の癖だった。この間、可為武は視線さえ向けられていなかった。

 たった二秒の間、沈黙が来た。

 それだけの静けさが、小屋のうちに充満する圧迫に可為武は耐えられなかった。可為武は、後に彼を歴史的に有名にした一言を、我知らず口にした。

「なぜ僕が知っているんです――僕は、永遠にあいつの番人なのですか」

 その言葉は彼自身、決して思案の末に吐いたものではなかった。

 彼はこの時、自分がその後永遠に弟の魂の番人になろうことまでは、まだ想像していなかった。


 阿比留、というのが可為武の弟の名前だった。漢字は彼らの養父である弥兵衛が、その後彼らを記録するにあたってつけたもので、彼ら同士の間では「かいん」「あびる」という音で呼び合っていた。

 彼らは可為武が七歳、阿比留が三歳の時に、親を失って動物と同じ暮らしをしているところを拾われた。

 彼らは衣服を、食事を、住む所を与えられた。可為武はその恩恵について「これで阿比留を死なせずに済む」という安堵を通じて理解した。一方、幼い阿比留は突然庇護者が増えたことについて何とも理解していないように見えたが、熟睡するようになった。 

 弟を死なせずに済む、と思った時から、可為武は新たに人生を始めようと思ったのだろう。

 それ以前は漠然と、父母に養われていたこと、戦で二人ながら失ったこと、放浪が始まった頃は戦災孤児の群れで動いていたこと、やがて散り散りになったこと、ただ独り残った弟の阿比留だけは、己の命と引き換えても生き延びさせようと父母の魂に誓ったこと――などを覚えていた。

 しかしある時、彼らの家を訪ねて来た役人に向かい、弥兵衛が彼らのことを「息子」と説明しているのを聴いた時、それまでの生活のことを皆忘れてしまった。

 他人が弥兵衛の目を憚りつつ、戯れに可為武に対し「お前の父と母は」と尋ねる。可為武は「弥兵衛さま」と答える。父も母も弥兵衛なのである。それがいかにも他人の目には、捨てられまいとする子供のいじらしい努力のように見えて可笑しいらしかった。実際、弥兵衛の周囲の人間の誰もが、彼らを弥兵衛の息子でないことぐらい承知していた。彼は既に老人だったが、それまで女がいたためしがなかった。それも、七つと三つの子を突然産んでくれるような不思議な女を。

 弥兵衛の暮らしは、村の他の人々とは少し違っていた。可為武は庇護されてから、そのことを次第に感じるようになった。村の子供たちの遊びに加わろうとしても、彼が弥兵衛の所の子供だと分かると、子供たちは忌避して逃げ散ってしまう。また彼らは若い父母と暮らしていて、また彼らの家族は田植えをしたり、畑を耕したり、機織りをしたり、塩を作ったりしていた。そして彼らの父や兄は、時折役人に連れていかれて二度と戻らなかったりする。男はたびたび、役人が甕に入れて持ってくる小石に変わる。女たちは石や甕を抱いて泣く。

 そうした生活の歯車の軋む音が、弥兵衛の小屋に戻るとまるでなかった。まるで小屋のなかには太陽の光が浸透しないかのようにいつも静かだった。弥兵衛は朝、まだ暗いうちから出かけていき、どこへともなく消える。そして日が沈む頃に戻ってきて、やや高くなっている彼の座に座る。彼は柿色の頬に手を当てたままそうして動かない。ふと立ち上がって思い出したように子供たちに食事をくれたりする他は、まるで木石に化ったように動かず、また彼自身は食事というものをしない。眠る時も、子供たちは藁の下に寝かせるが、自分は例の思案するような姿勢のまま、座ったまま朝を迎えている。

 また、時には彼の外出は数日に及ぶ場合もあった。しかし彼の小屋には、子供たちが食べる用の穀物がたっぷりと備蓄されており、彼らが飢えるということはない。可為武はそういう時は、なるべく阿比留を長く眠らせておき、自分は水瓶の水を少しずつ飲み、ドングリの殻をいつまでもしゃぶって待った。

 時折、弥兵衛と入れ違いに、瀬人という青年が来ることもあった。彼は髪を油で撫でつけていていつも身なりが清潔だった。また彼は、子供の給仕と監視に来るだけのようで、来ても別に口も利かず、弥兵衛とは違う座に座ったままで動かない。

 初め、可為武は瀬人もまた兄か姉か、何かしら自分たちの家族に相当するのかと想像したが、彼の弥兵衛に対する言葉遣いや物腰から、どうやら「家族」の他に「使用人」という立場があるらしいということを理解した。他方、村の他の子供の家で、「使用人」がいるような家族は見当たらず、やはり弥兵衛は他の村人と違うのだと思った。

 また瀬人は、初めから「家族」用に出来てない人間に見えた。彼の洗練された物腰や独特の言葉遣いは、いわば桑や鋤のような、何かしらの目的に特化して作られた道具を思わせた。また彼はいつも、短い期間しか小屋に滞在せず、弥兵衛が戻るとまた発ってしまう辺り、鳥のように空中に滞在する飛翔を主な生活にしている人種に見えた。

 ただ、可為武は瀬人を知っていても、瀬人が属しているものについてよく知らなかったから、己がこの青年に感じる違和感についても「弥兵衛のように、他の村人とは違う」としか考えられなかった。「どうも生活をしないせいであるらしい」というところまでは思い至ったものの、それを他人に言うことはしなかったし出来なかった。

 彼は無口な老人と青年からは特に教えられず、恐れて問いもせず、仕方なしに周囲の世界を自らの観察によって色づけていった。彼の観察では、生活らしい生活のない点では弥兵衛も同じだったが、彼は老人になるまでに清潔さが何にも変化しないまま堆積してゆき、ああした綺麗な柿色の皮膚を持つに至ったものに見えた。

 しかし、弥兵衛にもこの村における役割があった。そのことに気づいた時、可為武はそれまで見事な獣のように想像していた弥兵衛の像が変わるのを感じて、多少の失望の痛みを感じた。村における老人の役割は、別に生産でも供給でも戦闘でも犠牲でもなく、「祈祷」という静かなものであるらしかった。彼は米や塩や布の代わりに「祈り」を村人全体のために納めており、そのために小屋のある一画を村から切り取っていた。

 弥兵衛は別に存在が特別だったわけではなく、課せられた役割が特殊であったに過ぎなかった。可為武は十歳頃になると、養父と村との力関係についても目を走らせるようになったが、そうしたことへの己の感想を他人に漏らしたりしないだけの聡明さと慎重さを併せ持っていた。

 十歳の少年をさほどに賢くしたのは、孤児から拾われて庇護されているという、己の立場の不安定さではなかった。彼の弟である阿比留が、一向に獣から人間に進化しないためだった。可為武は人間とは言えない弟を死なせないために、弟の分も併せて二人分の人間の知恵を必要とした。

 他の子供と遊ぼうとして弾かれた可為武と違い、阿比留は初めから人間に関心を示さなかった。初め、可為武は阿比留が幼過ぎるせいだと思っていたが、六歳になっても彼は殆ど人間の言葉を話さず、また動物の方を己の仲間と思っているのか、可為武が目を離すと山に入ったまま、行方が分からなくなることもあった。

 ある時、可為武が山中でようやく彼を探し当てると、雌の山犬に他の子犬と共に抱かれていたことがあった。彼が寝返りをうちつつ、当たり前のように山犬の乳に吸い付いていたことを、可為武は恐れて弥兵衛には告げなかった。

「いいか、少しは人らしゅうしなければ、」

 あの家に置いてもらえんのだ――と可為武は人目のない所にわざわざ弟を誘い、その肩を揺さぶりながら言った。風の音や草がなびく音も、この時可為武には邪魔に思われた。多少の暴力を伴わないと、彼が本気で喋っていることすらこの弟には浸透しないのだった。

「分かったか――分かったら」

 ふと兄を見上げた阿比留の目には、全く理解の芯が見当たらなかった。

 可為武は次第に、弟が人間全体に――つまり自分にも興味を失っていくのを、日暮れのように仕方なく、また取り返しのつかない現象として悲しく見送った。

(何とかしなくちゃいけない――)

 反応のない時、可為武はつい弟の頬を掴んで揺さぶるようなことをした。まるで無反応の弟の首は手に従ってぐらぐらと揺れた。また時折、頬のなかに硬い手触りがあるのが感じられ、可為武が見咎めて吐き出させると、それは木の実の殻であったり、あるいはただの小石であったりした。

 吐き出された物を見ると、可為武はどんな言葉で言っても、阿比留の無理解を破砕することは出来ないように感じた。

 要するに、阿比留は無目的に放浪しているわけでなく、確かな舌触りを求めて煩悶している最中らしかった。早くに母親を失った彼は乳離れが出来ず、何でもよく口に入れてしゃぶる癖があったが、弥兵衛の影のないような小屋、また可為武の鋭い叱責からはそんな乳は得られず、泥のついた石や山犬の乳房だけが彼の求める感触を与えうるということらしかった。

(僕が女であれば――)

 彼は山犬の雌に嫉妬して、そんなことすら思った。



 十一歳になった時、ふいに彼らの生活の風向きが変わった。

「もういいだろう」

 弥兵衛は突然、彼ら二人を目の前に座らせて言った。可為武はそれが独り言なのか、あるいは自分たちにいったのか、あるいは使用人の瀬人に言ったのかと思い、彼が潜んでいやしないかと混乱して見たほどだった。

「可為武、お前外に友達はいるか」

「え、」

「その辺の子供と遊んだことはあるかって訊いてるんだよ、」

「ありません、」

 可為武は、弥兵衛の子供が来た、と囃し立てられることについては口をつぐんだ。弥兵衛は首をひねると大きな手で顔をゴシゴシとこすった。

「阿比留は、そいつはどうなんだ」

「阿比留は……」

 彼らはともに癖で、阿比留がそこにいないかのように喋った。七歳になった阿比留は三歳の頃と変わらず、背中を丸めて獣がするような胡坐をかいており、あちこちに虱のたかった身体を無造作に掻いている。

「……、」

 可為武は説明しようとした言葉を自ら遮って、ただ首を振った。

「そうか、チト放っときすぎたな……」

 そう言って弥兵衛は何やら珍しいほどの敏捷な動作で立ち上がると、荒々しく小屋の戸を開け放った。パン、パンという弾けるような明るい音とともに、外のきらきらした空気がたちまち殺到した。それから弥兵衛は戸を抑えるつっかえ棒を外し、

「お前ら外行け、俺がいいと言うまで戻ってくんな」

 と言って外に向けて柿色の顎をしゃくった。外は雨が上がったばかりで、滴が掛かった緑の葉と土のいろが匂うように鮮やかに見えた。


 可為武は田に入る時、必ず阿比留をまず近くの木に縄で括り付けた。外で出来た彼の友達は、とても優しくて聡明な彼が、弟にだけはそんな振る舞いをするのをむしろ不思議がった。

「おとうと、かわいそうじゃない」と言われても、

「いいんだ、」と抑揚のない声で可為武は言った。「目を離すとどっかに行って危ないから、それよりはこうしていてやる方がずっといいんだよ」

 可為武はそう言って、阿比留の腰縄の結び目をよく点検した。彼の日ごろのなだらかな優しさは、弟を縛る時の手つきにさえ現れていた。そして脱走、失敗、叱責を経て、可為武はそれを結ぶのが上手くなった。それは彼が覚えた田植えと違い、誰かに教えたり受け持たせたり出来ない仕事だった。それは機織りのような作業でありつつ、同時に祈りでもあったから。

 ある時、可為武はふとした胸騒ぎに駆られて、阿比留を残していた木の元へと走った。彼が赤ん坊のような弟をひどく心配することは、仲間内で彼の愛嬌として受け取られていたから、「また阿比留の番をしに行った」と言い合い、彼らは可為武の脱走を許した。

 可為武はその痕跡を見て、阿比留が成長したことを知って舌打ちした。「くそっ」と彼は我知らず、罵り言葉をその木に向かって浴びせた。

 阿比留は縄をしゃぶりしゃぶり弱らせ、歯で嚙みちぎって脱走していた。よく目を凝らすと雨上がりの赤土の上に、彼がつい弱らせた乳歯の一つが零れ落ちていた。

 可為武は草深い野のなかで、ようやく阿比留の背中を見つけた。小柄な彼の姿は草に隠れ、ろうじて背中の一部が見える程度だったが、可為武にはすぐ見分けがついた。

「阿比留、」

 と彼は叫んだが、阿比留はよくあることで――白熱した集中のなかにいて振り向きもしなかった。何かしゃぶるものを見つけたのかと思いつつ可為武が近づくと、阿比留は猛然と走り出した。

 可為武は自分から逃げ出したのかと思ったが、違った。阿比留は助走の勢いそのままに身体をしならせると、見事な弧を描いて空に向けて石を投げた。それはきらりと太陽の光線を浴び、飛んでいた雀の胴にぶつかった。チッという短い悲鳴の後で、雀の体は石の影のように音もなく落ちた。


 可為武は、その時小石によって空中に描かれた弧が、阿比留の思考の軌跡であることを感じ、その線の美しさに惚れ惚れして言葉を失った。それは可為武の停滞しがちな思考と違い、一切の停滞なしに目的に到達する眩しい反射に見えた。

 それは可為武の知っている阿比留ではなかった。弟はもっと曖昧模糊とした乳色の幻のなかで暮らしているはずだった。どうやら可為武が友達を得、田に浸かっている間、遊ぶ相手を失った彼を訪れるのは鳥の影だけであったらしく、彼はそれを獲得する方法を思案し、練習していたようだった。

 時折、彼自身は脱走していないのに、彼の腰紐を結んだ幹に傷がついていることがあった。彼は束縛されていては自分の想像する運動がしきれないことを多少の試みの後で感じ、果たして自分を解き放ち、また狙いをつけた獲物を獲得することに成功したらしかった。

 こんな見事な行動の成果は、田のなかで友達と戯れている可為武自身、まだ収穫したことがないものだった。

「阿比留、」

 可為武は自分が悲鳴とも歓声ともつかない声で、弟を呼ぶのを聴いた。そして草のなかで弟に追いついて見ると、阿比留は血だらけの手で、まだ息のある雀の羽根を毟っているところだった。阿比留が振り向いた時、その眼にはそれを殺すことに罪があることに対する淡い理解の影が浮かんでいた。彼は咄嗟に、兄に向かってその獲物を隠そうとさえした。

 阿比留が、己の罪に対する処罰への恐れなどという、およそ人間らしい反応をを示したのはこの時が初めてだった。

「阿比留、」と可為武は、全くの歓びに弾んだ自分の声を聴いた。「そんなことをやっちゃいけない、まだ生きているものを殺すなんてそんな可哀想なこと、――そんなこと決してやっちゃいけない」

 そう言って、彼は弟の顔めがけて何度も拳を振り下ろした。


 ある時、阿比留は口からぺっと血を吐いた。彼はなお苦しそうに喉を抑えた。

「どれ、見せてごらん」

 また歯でも抜けたのだろうと思って、可為武は彼の顔を持ち上げた。彼は阿比留が傷を作ったり血を流したりすること自体には驚かなくなっていた。彼が驚かされるのは主にその方法を知った時だったが、それを知るまではいつも薬師のように冷静だった。

 彼の手に従って、阿比留もまた口を開いた。彼は恐らく兄に見つけられるまいとして、頬の方に石を含んでいた。

「矢じりだ、」

 と、後で可為武からそれを受け取った弥兵衛が呟くように言った。

「これを使った人間自体は見たのか」

 可為武はかぶりを振った。阿比留は横にいて、まだ頬のなかの不思議な石を取り上げられたことを拗ねて寝転んでいた。

 弥兵衛は火灯にかざしてその金属片を裏返したりしてつぶさに眺めつつ、「まア、これがその辺にあるってことは、直に見ることになるかもなア……」と呟いた。


 やがて別れの時が来る。いつかは分からないが、それはすぐ側まで忍び寄っている。

 阿比留が思わぬ形で拾ってきた金属片は、可為武には「生活」のまねごとをしながら漠然と感じていた破局の予感の、動かぬ証拠のようなものになった。

「友達」とも、「田」とも、「村」とも、あるいは「弥兵衛」とも……、可為武が彼らの近くの木に括り付けられているような生活から、突如離別を宣告される未来がそのうちやって来る。

 弥兵衛は彼を追い出すと言ったわけではなく、もし戦がこの近くまで来たら、すぐ逃げられるだけの準備をしておけ、ということを言っただけだった。しかし、元々自分のみが現在の生活から追放されるような予感のあった可為武にとっては、近づいている戦も村全体を覆うというより、矢じりの先が一点めがけて飛ぶように、ただ一人自分をめがけて近づいているように感じられて仕方なかった。

「阿比留、こっちへ」と彼はよく飼い鳴らした獣を呼ぶように、この口を利かない弟を呼んだ。

「僕がいい物をあげるから来てごらん、」

 この頃は可為武が暴力を振るうことを恐れてか、阿比留は何やら餌めいたものがないと容易く兄の身体に近寄らなかった。なお躊躇している彼に向かって、可為武は鉄製の尖った矢じりをちらちらと振って見せた。


 ――半年後、阿比留は袖を引き、兄に見せる準備が出来たことを告げて来た。可為武は「阿比留を遊ばせてきます」と弥兵衛に正面から断って小屋を出た。別に嘘をついているわけではなかった。ただ何をするのか言わなかっただけで。

 てっきり、可為武は阿比留がその石を直接投げるものだと思っていた。しかし、阿比留は兄に少し離れた所にいるように言い、また実際に行動に移るより前に、何度か兄のいる位置を確認する素振りさえした。やがて彼は風を読む体勢に入った。それから草のなかからおもむろに、彼が動物の骨と皮を組んで編み上げた鳥の骨のような道具を取り出した。そして矢じりを弦に引っ掛けると、彼の思考が形を取って筋肉の影となり、たちまち彼の背に反映された。一瞬ののち、空気が彼の描いた弧によって裂けた。土の上に獲物の落ちた音が淡く上がった。

 直後、阿比留はけたたましい歓声を上げた。それは既に短い歌のような一定の調子すら持っていた。彼は可為武に見せる前、何度もその練習をして成功するうちに、獲物を仕留める快感をこうして身体から放出することまでを習慣に入れてしまったらしかった。辺りにびょうびょうと響く阿比留の歌を聴きながら、可為武は唇を噛み、己の弟に対する試みが破れたことを仕方なく認めた。

 小屋の裏から夥しく出た動物の骨を見て、彼は弥兵衛に言うことも出来ず、どうせ殺すことを取り上げられないのなら、せめて殺す手段を人間らしく仕立てようとしたのだった。しかし、せっかく人間の思考の現れのように見えた阿比留の狩猟も、その運動をより強力にする道具を与えたことで、獲物を捕らえる快楽を増幅させただけになった。獲物を仕留めるまでの彼の思考は、慣れるうちに身体を貫くただの一本の運動になり、己が考えた手立てで獲物を得たことへの理解は、その死体を解体する歓びに蕩けてしまうらしかった。彼の歌には何の言葉も含まれていなかったが、彼の身体のなかで起こっている一切の現象を説明するような節があった。

「阿比留、もういい、戻って来い、戻って」

 懇願するように制止した声も、風とともに吹きすさぶ阿比留の歌声の前にかき消された。



 可為武は音を立てて戸を開けた。それも途中で抵抗にあって引っ掛かった。彼は薄い皿に入れた灰を吹き飛ばさないように注意しつつ下ろし、全身の力を入れてようやく戸を引き切った。

「弥兵衛さま、」

 彼は戸を開けるのに手間取ったことを悔やみつつ叫んだ。少しのろまなことをしているうちに、老人が死んでしまうことを彼は恐れた。

 弥兵衛が病の床についてから、既に五日が過ぎていた。熱は一向に引かず、老人の身体は汗を余り発することなくただ加熱していくようだった。彼のしわぶきは衰弱が増すほどに、彼の土塊のような身体を少しずつ崩すかのようだった。

 瀬人が相変わらず白い顔で看護していたが、三日を過ぎた時に可為武に対し、弥兵衛の薬とするため、彼の指示する草を取ってきて焼くことを命じた。彼自身が行かない理由として、一瞬でも彼が側を離れれば老人の命が保証できないということを言った。可為武に対する最後の念押しは、ただの目配せの形になった。可為武はその瞬間、自分の瀬人に対する信頼の大きさを感じ、またその瀬人に言葉を使わずに指示されることに眩いような陶酔を感じた。

 彼は阿比留の姿がないことも忘れ、また阿比留のことも暫時忘れ、山の中腹にあるという草を取りに向かった。

 二日掛かって彼は戻って来た。途中大雨に降られ、ぬかるんだ道で足を挫き、下山することをあきらめ、闇夜に鳴き交わす山犬の吠え声を聴いた時は、彼自身の命が危ないとも感じた。しかし、彼は自分が戻らなければ弥兵衛が死ぬと思い、またもし弥兵衛が回復すれば、今自分が全身に浴びている困難を拭うぐらい褒めてもらえると想像した。

 そして最後に、阿比留のことを思い出した。彼の側には人間がいてやらなくてはいけない。ここでもし弥兵衛を失ったら、彼らは庇護してくれる大人を失い、住む小屋を失い、友達を失い、食料を失い、――再び人間であることを失うのに違いない。彼は己の握りしめている草の束のなかに、弥兵衛のみならず、彼ら兄弟の命もまた含まれているのだと思い、半ばその重みに縋るように必死に悪路を急いだ。

 やがて、三度目の夕日が地平線に掛かった頃、彼はようやく人家のある麓に辿り着いた。一刻も早く小屋に戻りたかったが、まだその草を灰にする作業が残っていた。彼は言われた通り、人目に付かないところでそれを焼いた。風のなかで渦巻くような匂いがむっと来た。煙に惹かれるように近寄って来た子供たちに、可為武は咄嗟に山犬のように吠えかかった。


「弥兵衛さま、」

 彼は縋るように、また任務を果たしたことに対する多少の満足の歓びを持って、小屋に飛び込むとすぐにその名前を呼んだ。

 可為武が最初に突き当たったのは、振り返った阿比留の目だった。薄暗い小屋のなかでそれは空気よりも濃い闇を宿しているだけのようだったが、どこか怒りを含んで閉ざした唇のように見えた。

「戻ったか」という瀬人の声にも、既に微かな失望の色が滲んでいた。「ご苦労だった――思ったよりは遅かったようだが」

 瀬人の口調の終わりには、どこか仄かな明るさがあった。一瞬、可為武の胸に過った破局の予感はそれによって拭われ、どうやら弥兵衛は助かる見込みがついたものだと分かった。しかし、弥兵衛の身体は相変わらず床に横たえられたままだった。可為武はふと、床に座っている阿比留の隣に、何か黒い物が蠢いているのを見つけた。

 それは、半身を既に毟られた烏だった。羽根が黒いせいで、小屋に満ちている薄闇のなかですぐに分かりかねたが、それは確かに血を流している烏だった。また半分ほどの肉を毟られてなお、完璧に絶命させられていないために痙攣的に足が震えた。その足は一本しかなかった。

 瀬人がごく僅かに、弥兵衛の方へと顎を動かすのを可為武は見た。弥兵衛の額には熱冷ましの白布が掛けられ、鼻から下しか見えなかったが、その岩のような鼻の下で、暗い口が微かに動くのが見えた。

 可為武は咄嗟に、己の口を抑えて小屋から飛び出した。まるで、その肉を口にしたのが自分であったかのように、彼は必死で唾液を吐きだした。

(だめだ、だめだ肉なんか、)

 彼は逃げながら、阿比留が密かに射た鳥や兎の肉を食っているのを見咎め、彼をひどく痛めつけたことを思い出した。

(いいか阿比留――殺してその肉を食うのなんかだめだ、絶対に)

 見上げた阿比留の目には、彼の言うことに対する理解なんか、矢じりの先の光ほども含まれてはいなかった。彼は呆然と、打擲する兄の身振りを不思議なものを見るように見上げていた。

(肉なんか食ったりしたら――)

 彼の想像のなかで、阿比留の顔がふと老けた。その貌はまるで大人だった。瀬人よりも年上で、弥兵衛よりは大分若い。しかしその貌には、老いが刻むような辛苦のための皺があちこちに刻まれていた。髪は抜け落ち、頬の肉は削げて目が飛び出ているかのように大きい。錆びた鉄のような赤い色の皮膚をしており、疎らに髭の生えた頬が、可為武に対して何か物を言うように震えた。

(あれは――)

 不思議なことに、今度は可為武は想像のなかで己の姿を見た。それはまだ弥兵衛に拾われる前の、まだ五つの頃の自分と、背に負ったまだ乳離れのしていない阿比留の姿だった。

 その赤い頬をした男は、阿比留の老けた姿ではなかった。どうやらその男が、戸口に立っている可為武と阿比留を振り向いて見た時の記憶を、可為武が想像のなかで見たらしかった。

『ちちじゃ、』

 とその男に向かって可為武は呼びかけていた。それがどうやら「父親」を指す言葉であるらしいことを、その記憶を眺めつつ可為武は朧げに思い出した。

 父親であるらしい赤い頬の男は、可為武を見て僅かに頬を震わせた。しかし声は出なかった。疎らな髭のある頬に、声の代わりに何か懇願の気配が滲んだ。

 可為武はふと、促されたように男の前に落ちている白い物を見た。それは肉を半ば毟られていて血を流していた。

(ははじゃ――)

「あにじゃ」

 可為武が嘔吐していると、背後から兄を呼ぶ声がした。振り向くと、阿比留が例の半壊した烏を手に持って、まるでそれ自体が彼のこれから言わんとする言葉であるかのように、元型を留めない肉を手のなかで捏ねながら立っていた。

「あにじゃ、これを食べて下さい。瀬人さまの立てて下さった卦で、烏の肉が良いというので、わしが仕留めて弥兵衛さまに差し上げたものです」

「それを、食べさせたのか、」

「はい、」

「お前が、弥兵衛さまに、その肉を――」

 阿比留はちょっと眩し気に目を細めた。それは彼にとって、見知らぬものを見て驚きつつ興味をそそられた場合にする表情であることを、可為武は知っていた。

「まだ半分あります、あにじゃの分も、」

 そう言って彼は、抱いていた烏の首を毟り取るように曲げた。

「阿比留ッ」

 可為武は叱る時の癖で、阿比留に手加減せずに掴みかかった。


 地面に倒れた阿比留は泣いていた。

「あ……あ、……あ……、」

 彼は地面に仰向けに倒され、後頭部を石で強く打った。頭の皮膚が切れてたちまち血が滲み出た。彼はしばらく激痛のために身動きも出来なかったらしいが、数秒して身体を震わせると、倒れたまま激しく泣きだした。いつも殴られても呆然としているばかりで、明瞭な反応を見せない彼が、これほど激しく兄の非を訴えるように泣き喚くのは初めてだった。

「瀬人さま……弥兵衛さま……、弥兵衛さま………、」

 滅多にその名前すら呼ばない弥兵衛の名さえ呼ぶので、可為武は冷静に驚きを感じたほどだった。瀬人に命じられたとはいえ、彼は快楽に任せて生き物に弓を引いただけだというのに。その肉をしゃぶることについて、快楽をしか感じない人間であるというのに。また可為武はそのことを人間として少し咎めようとしただけなのに。ただその場が斜面になっていて、彼が足を滑らせて怪我をしただけだというのに。彼の泣き方ときたら、まるで可為武が阿比留に向かって弓を引いて殺そうとしたとでも言わないばかりだった。生き物を殺した凱歌を上げる時のように、彼は辺りに響き渡るびょうびょうとした声で泣いた。

「弥兵衛さま……」

 彼ははっきりと縋るように言い、うつ伏せになって斜面を這い出した。弱ると、四つん這いになって歩く方が彼にとっては都合がいいらしかった。

「弥兵衛さま……、弥兵衛さま、……」

 震えながら前進する弟の背を見つめて、もしこの弟が先に小屋に戻れば、自分はどうなるだろう、と可為武は考えた。

 阿比留の後頭部からは、傷口から血がふつふつと沸くように流れている。自分がやったものではない、と言えば信じてもらえるかもしれないが、確かに彼を押したのは自分だ。

 また阿比留が言うには(また彼にはそんな知恵はないだろうから、恐らく事実だとして)瀬人は自分だけでなく、阿比留にも同じように弥兵衛の回復のために必要な薬の指示を与えていた。瀬人は弥兵衛の使用人であり、ここで生活も立場もない以上、彼の求めないことなどするはずがない。そうであれば、弥兵衛は来るべき何らかの局面に備えて、自分たち二人の兄弟のうち一人を選ぶ必要があったのではないか。そして弥兵衛の意を受けて、瀬人は彼ら二人を同じ条件の元に試したのではないだろうか。

 自分が慣れぬ山に分け入り、泥道を進み、また阿比留の命のことも考えつつ雑草を握りしめ、それを丁寧に灰にしたりしている間に、阿比留はただの跳躍と、けたたましい笑いと、もはや習慣化した殺戮の成果として、可為武が手に入れられなかっただけの巨大な獲物を得ていた。――彼らの父親という、もはや他では手に入らない巨大な獣を。

 ただ、可為武の草取りがそうであったように、狩猟もまた、獲物を掴んで持ち帰るまでに至らなければ、何の収穫もないことと変わらない。

 可為武は、阿比留を小屋に帰さないことにした。

 彼は阿比留の背にまたがり、近くにあった石で彼の後頭部を思いきり殴りつけた。彼は苦し気に身体を反らせたが、背中に兄が乗っているために身体を動かすことも出来ない。彼は苦し気な悲鳴を上げ、生きたまま肉を毟られる鳥のように手をばたつかせた。また、さっきまで彼が毟っていた烏は、彼が身動きするとこぼれる斜面の土に誘われて、はるかに彼の下の方で留まっていた。

 可為武は、人間の頭の骨が固いということを初めて知った。いくら殴りつけても、こぼれていく血の量が増えていくだけで、なかなか彼を死に至らしめるほどの傷をつけられる気配がない。

 可為武は、生き物を殺すなんてことをしたことがなかった。弟を殺すのが初めてだった。果たして弟であれば、人間を殺すのにどの程度の傷を負わせればいいか、分かるものだろうかなどと思案した。

 ふと見ると、阿比留のすぐ脇に、彼が懐に含んでいたらしい矢じりが土に紛れて転がっていた。それは可為武が最初に見つけたものと、多少形状が変わっているようだった。金属の肌に横断するように筋がついており、使用しているうちに自然についた傷ではなく、恐らく刺さった時に肉を傷つけて抜けないようにするための、阿比留のした工夫の痕跡らしいと彼には分かった。

 可為武が手を留めている間に、身体を動かして逃れようとした阿比留の肩を抑えて、可為武はその皮膚の柔らかいことを彼が知っているところ――阿比留の首筋めがけてその矢じりを振り下ろした。


「知りません――」

 彼自身が三日の潜伏の後、彼を追いかけて小屋を出たという阿比留のことについて、可為武ははっきりと言った。

「僕は、永遠にあいつの番人なんですか?」

 可為武の田の側の木には、阿比留の腰縄が、阿比留が噛み千切ったままの状態で放置された。

 可為武がそれを見つめているのを、周りは皆、山へ入ったまま行方知れずになっている弟を心配してのことだと思った。

「きっとひょっこり戻って来るよ、」

 それが呪いのように響くとも知らずに、彼の周りの善人は、彼らが善人と思っている可為武に向かって次々と慰めの言葉を吐いた。

 実際、その言葉が可為武の頭のなかで一つの像になってしまう場合もあった。彼は何度も、風雨の叩く音のなかに阿比留が戸を叩く音を聴いた。雷のなかに阿比留の歌声を聴いた。小屋の前で泣いている子供に声をかけると、顔を血だらけにした阿比留であったという夢を見た――。

 それからも瀬人は来た。しかし初めから阿比留などいなかったかのように何も口にせず、彼が阿比留に烏を取るように命じたことなども、阿比留がそう言ったこと以外何の証拠も現れなかった。

「あいつは、」と弥兵衛だけが頬に手を当てつつ時折尋ねた。

「あれっきりさ。阿比留は、お前の後を追って出たっきりだよ。どこをほっつき歩いてやがんだろうなあ……、まだ戻らないか」

「ええ、」

 答える側の可為武も、何度も尋ねられるうちに、答える時の態度というものを身に着けていった。

「まだ見つかっていません」

「そうか、」

 可為武は、自分が埋めた阿比留の死体のことを思った。それは阿比留がしばしばやった、捕らえた獲物を可為武の目から隠すために埋めていたのと同じやり方をしたつもりだった。別に何の工夫もなく、ただ浅い穴を掘って全身が隠れるほどの土を被せただけのことだった。見つかる場合もあるかもしれない。また自分が疑われる時もあるかもしれない。

(もし僕がやったことを見抜いてくれる誰かが現れたら、その時はうなずこう――)

 と可為武は心のなかで思った。

(獲物を殺して、持ち帰ってこれがそれだと言って初めて狩りなんだ。僕だってそうだ。誰かが僕を見つけて、こいつが殺したんだと他人に見せない限り、僕はまだ見つかっていないのと同じだ。阿比留にしたって、誰かが阿比留の死体を持ち帰らない限りは、誰も阿比留を殺したとは言えないんだ。僕も阿比留も、まだあの山中から戻っていないだけなんだ)

 彼はそう思い、半ば虚構のような自分を生きることでかろうじて狂気を避けた。また、彼の心があの山中を去ることはなかった。降る雨が強くなると阿比留の骨が露出することを思い、晴れればまた阿比留が乾くことを絶えず想像しながら。


 そのまま一年が過ぎた。

 可為武は十二歳になった。阿比留は生きていれば八歳になっていたはずで、死体が見つからないから墓もなかった。また山中に入って消えたことから、子供たちの間では「山犬に誘われて山犬になった」ということになっていた。

 ある時、弥兵衛は小屋にいてしわぶきを一つした。彼こそ幾つになっているのか不明だったが、このところ風邪でもないのに軋むような咳をすることが度々あった。

「弥兵衛さま、」

 と大人と同じ髪形をした可為武が言った。彼は挙措や話し方がどうも瀬人に似てきているようだった。特に阿比留がいなくなってからの、可為武の大人びようというものはまるで蝶の脱皮のようだった。

「何だ、」

「烏を取ってまいります」

 そう言って彼は小脇に弓を抱えてすらりと立ち上がった。矢じりは、鳥が痛かろうと憐れんで彼が作った木製の丸い物に付け替えたものである。弥兵衛は、日頃大人しくて優しい、生き物を殺すと弟を叱りつけてばかりいた兄が、ある習慣につくときの無表情で狩りに行くと言い出すことに軽い驚きを感じた。しかし瀬人の言うことを守っているのだろうと思い、「気をつけていけよ」と言った。

「行ってまいります」と可為武は答えた。


「お前のせいなんだぞ、阿比留……」

 と、可為武は大声で言いながら歩いた。

「お前がいつまでも戻って来ないから、僕ばかり疑われて仕方がないじゃないか……」

 頭上を、のどかに烏が鳴き交わしながら飛び去った。

 彼はそちらを見もせず、ただ楽器に触れるように弓の弦を弾いた。阿比留がいなくなってから、彼はその仕組みを仔細に見つめてようやく理解したが、あの獣のような弟が作ったと思われないぐらい、あの弓というものは実に巧妙に出来ていた。押せば震えて、引けば力を増幅し、弾けば確かに突出して出ていく。これを作るには彼に入れ知恵する誰かがいたか、あるいは、動物の骨格を参考にしたかのどちらかに思われた。

 阿比留は動物を殺した後よく解体したが、無造作に肉をしゃぶっていたわけではなく、骨の形や筋肉の付き方、それによってどこを壊せばよく壊れるかを調べながら、その成果を口に入れて味わっていたようだった。彼が兄に向かって隠そうとしたのは、彼が歌にするほどの剝き出しの殺意ではなく、それによって得られた獲物の身体の方だった。

 彼の作った弓はあるいは、彼が殺した動物から抽出した、彼の理想とする骨や筋肉の組み合わせであり、あの口に入れるほど獣を愛した彼の、理想の愛玩動物のようなものであったかもしれなかった。

「射てるか、こんなもん」

 可為武は無造作に弓を引き、乱暴にぽいと放った。弓は力なくその辺りに落ちた。実際、彼は何度か木製の矢じりの弓で試したことはあった。しかし弓は飛ばない。弦の強さ、弓の弧の大きさ、それらはぴったり阿比留の身体のために設計されているかのようだった。まるでそれは阿比留の身体の一部のようで、その仕組みを理解している可為武が動かしても、まるで阿比留の死体を揺さぶっているように弓は動かなかった。

「なあ、おい」

 可為武は阿比留を埋めた辺りの斜面に来た。既に盛り土の上には蔓草のようなものが生え、容易にその土は動かない気配である。

「出てこいって言ってるんだよ」

 可為武は無造作に手で蔓草をぶちぶちと切った。それから埒が明かないと分かると、彼が稲を刈るのに使っている月型の刃物を取り出した。

「さっさと出てこないと、また脅かしてやるんだからな」

 彼は軽く振りかぶって、それからカマと皆が呼んでいる月型の刃物を斜面に向かって投げつけた。それは土に当たって淡い音を立てて落ちた。木漏れ日が当たって刃が時折光に濡れた。

「出てこい、阿比留」

 可為武は落ちた刃物を拾うと、斜面に向かって何度も刃物を振り下ろした。弦が解けるとうるさそうに手でちぎったりしながら、彼は刃物と素手によって弟の墓を掘り起こした。

 やがて白っぽい布が、なお腐りきらずに土のなかから出て来た。それを見た時、可為武はその白い土塊に向かって殺到し、必死に土をほじくって取り出そうとした。弟の着ていた着物の一部らしいと分かった時、可為武は嬉しさのために声を上げて泣きさえした。

(ようやく、ようやく会える)

 既にさんざん夢で会い、幻で会い、その幻を恐れて祈り、時には幻に向かって罵り、現れた辺りに火を放ち、呪詛の言葉すら口にし、――何より殺し方を知らないまま嬲るように殺し、また見つからないように埋めさえした弟であったが――とうとう幻ではなく、その朽ちた実態に会うと思った時、予期しないことではあったが――可為武は自分が罪から解放されたかのような歓びに震えた。

 それまで彼の考える罪とは、彼が手を下した直後に見た、あの弟の無残な身体だった。しかし彼のごく断片的な部分を見、もはや全身の原形がないことを感じた時、彼の罪もまた、土のなかで大部分が既に癒され、自然の一部となったように思われた。自然は阿比留の身体を、他の獣と等しく扱いただの土塊にしてくれた。獣より人間を上位にし、絶えず弟を自然から引き剥がして人間に近づけようとしてきた可為武だったが、人間でないものは何て優しいのだろうと思われた。少なくとも彼を試したりしない点でとても寛容だった。

 阿比留は生前の姿を失い、もうあれに会うことは不可能だ。しかし死後の姿もまた、既に土の一部になっているために見ることが不可能だ。これから土のなかから出て来るのは、年月と土と彼の思いに濾され、既に血も肉も失った、ただの概念に成り果てた阿比留だろう。生前もさんざんその物をしゃぶる癖に、虱だらけの身体に、遠吠えに悩まされた兄は、ただの透明な魂になった弟を抱くことに、彼自身が煩悶から解放されたかのような喜びを感じた。たとえ人間らしくなくとも、もし初めから、弟がこんなものであったなら、きっと殺しなんかしなかったはずだ。

「阿比留……」

 彼は着物を引きずり出したが、夥しい土が同時に出て来ただけで、決定的な彼の骨には突き当らなかった。髪の毛であるかと思われたものを引いたが、絡まった草の根だった。阿比留の小柄な肉体は、雨と土に混ざってもはや目で見ることは叶わないらしかった。

 ふと、土から外れて音を立てて転がったものがあった。

 阿比留の首に差し込んだ鉄製の矢じりだった。それを押し込んだ時、阿比留は苦痛のためにわっと手を上げ、そのままの姿勢で動かなくなった。可為武はむしろ彼の絶命後、彼のためにそれを取り除こうとしてやったのだが、硬直が始まって動かすことが出来ず、仕方なく突き刺したままで埋めていた。矢じりの根本まで血が付着し、阿比留が付けた溝のなかまで血で埋まっているのを見たのが、それの最後の状態だった。

 阿比留の全身のなかで、この骨だけが溶けなかった。雨にも腐食にも耐え、まるで地上から蒸発してしまったかのような彼の全身のうち、致命傷に刺さった矢じりだけが、まるで殺害されたことの証拠のように頑なに存在を続けていた。

 もはや地上に存在しなくなった弟の、途切れることのない凝視を可為武は感じた。

(阿比留、お前は僕がここに戻ることを、知ってて――)

 可為武はそっと、阿比留自身の骨に触れるように矢じりを掌に載せた。彼が弟の墓を掘るために持ち出した刃物と比べ、それは見る影もなく黒ずんでいた。よく見ると、阿比留の首に埋まっていた部分だけが血によって錆び、彼の首から突き出ていた部分は、土に護られていたように傷のない表面をしていた。

 ふと、彼はそれをつまんでいた指先が、恐ろしい速さで錆びるのを見た。

「わっ」と彼は火傷をしたようにその矢じりを放り出し、また指が手から離れないところを見ると、激しく手首を叩いた。

「なんで、なんで、」

 どうして錆びた指が離れないんだと、暗い木陰の下にいて彼は己の手を叩き続けた。

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