第三話

 リーリュアは、城下の聖堂前広場に向かっていた。そこでは、戦により家を失った者たちが集められ、国による救済が行われている。穀倉から運び出した食糧を積んだ荷馬車のあとを追い、城を飛び出したのだ。

 破壊された家屋から巻き上がる砂埃が喉を刺激し咳が止まらないリーリュアを、お節介にも付いてきたキールが気遣う。


「大丈夫ですか?」

「平気。あたしだってこの国の王族なのよ。母さまや姉さまたちみたいに、なにかしたいの」


 袖を口にあて、ひっきりなしに行き交う人や荷車を避けながら通りを進む。

 さすがにもう道端に遺体が転がっているようなことはないが、至るところに戦禍の爪痕が色濃く残る。焼け落ちた屋根、崩れた壁、それらを黙々と片付ける民の、汚れて疲れきった顔。

 見たことのない街の惨状に、リーリュアの眉根が自然と寄っていった。


「やっぱり、危ないから帰ったほうが……」


 袖を引こうとしたキールの手をリーリュアがすり抜ける。


「おばあさん、大丈夫?」


 半壊した家屋の煤けた外壁にもたれて座る老婆の前で、躊躇いもなく膝をついた。

 泥と煤で汚れた衣服はほころびが目立ち、額には血の滲んだ布が巻かれている。リーリュアの呼びかけに、項垂れていた頭がわずかに持ちあがった。乾いてひび割れたくちびるが小さく動く。


「え? なに?」


 のぞきこむように顔を寄せたリーリュアの小さな耳が、老婆のかすれた小声をかろうじて聞き取った。


「みず……お水がほしいのね? いま持ってくる! ねえ、キール。ここから一番近い水場はどこ?」

「オレが行ってきます!」


 キールが走っていくのを見届けると、リーリュアは咳込む老婆の背中をさすってやる。虚ろだった目に、ほんの少し光が戻ってきたように思えた。

 リーリュアの上に影が落ちる。


「早かったのね」


 振り向くと、髪を頭頂で小さくまとめた男がふたり立ち、リーリュアたちを見下ろしていた。カラスのような黒髪と見慣れぬいでたちは、そこかしこで目にする葆の兵卒と同じものだ。

 そのうちのひとりが、のそりと腰を落として老婆の腕を引っ張りあげる。


「やめてくれっ! 離せ、離せ!」


 怯える老婆から、どこにまだそんな気力が残っていたのかと思うほどの声が出たが、振りほどくだけの力はなかったようだ。


『そんなに興奮したら、脈が診れんだろう』


 葆の男が彼女の手首を掴み早口でまくし立てるが、この場にいるアザロフ人で葆語を解する者はいない。


「手を離しなさい!」


不信感を露わにしたリーリュアが、横から男の身体を力一杯押す。


『なにするんだ、小娘!』


 転げた男に大声を浴びせかけられ思わず肩をすくめるが、キッと目を見開いて翠色の瞳でにらみ返した。


「乱暴はやめて」

『なんだ? ばあさんの孫か。ニふたおやはどうした』


 尻の砂をはたきながら立ちあがった男が辺りを見回してから、リーリュアに不躾な視線を向けてくる。


「姫さまに近寄るな!」


 手頃な器がなかったのだろう。小さな両手で慎重に運んできた水を、キールがぶちまける。しかし男を狙ったはずが大きく外れ、老婆の頭上に降らせてしまう。

 晴れた空から落ちてきた水滴と少女の素性に驚いた老婆は、飛び上がるように立とうとした。だが座り続けていた足はもつれ、前のめりに崩れていく。


「おばあさんっ!」


 リーリュアが手を伸ばすより早く、老婆の身体は葆の兵士の腕に収まった。


『ほれ、言わんこっちゃない。ばあさん、いつからここにいるんだ。ひとりで歩けるか? おまえたち、ちゃんと食わせているんだろうな』


 矢継ぎ早の質問の最後は、老婆と比べて格段に身なりも血色も良いリーリュアたちへのものだ。だが、当然その内容が通じるはずはない。それを伝えるつもりで横に振った首の意味もまた、男には正しく伝わらなかった。


『おい、ばあさんを頼む』


 眉をしかめた男は、もうひとりの兵士の背に老婆を預け、消し炭のようになった木片を拾う。彼女が寄りかかっていた壁に真正面から向き合うと、軽く目を閉じ小さく息を吐いた。


「どこへ連れて行くつもりだ。降ろせ! わたしはここで、息子の帰りを待たなくては――」


 背負われた老婆はじたばたと手足を動かすが、すぐに力尽きておとなしくなった。やれやれといったていで兵士が歩き出す。

 壁から離れた男も、『おまえらも来い』と、手にしていた木切れを放り投げて立ち去った。


「待て!」


 指図に従ったわけではないが、キールは追いかけようとする。けれどリーリュアは動かなかった。そのつま先は無人となった民家に向けられている。


「姫さま? あいつら、おばあさんをどこかへ連れてっちゃいましたよ」


 従者の端くれのつもりでいる彼も、老婆の行方を気にしつつ足を留めた。


「きっと、行き先は広場だわ」


 すっと伸ばした指先で、廃屋の壁を指し示す。そこには、いくつもの線で作られた図形が描かれていた。


「なんです、これ。あいつ、落書きなんかしていったんだ」

「葆の文字じゃないかしら」

「読めるんですか?」


 縦に並んだ文字を、キールが首を限界まで傾けて解読を試みるが、アザロフや近隣の国々とはまったく異なる字形は、どちらを向いているのかさえ不明だ。

 それはリーリュアとて同じ。ただ、見知らぬ遠い国のかすれた字が、老婆の消息を伝えているような気がした。リーリュアの推測を確定するように、彼らの姿が消えた道の先から厳かな聖堂の鐘の音が届く。


「行ってみましょう!」


 もとより目的地はそこである。みなを言い終わらぬうちに、リーリュアの足は地面を蹴っていた。


 辿り着いた広場にはいくつもの天幕が張られ、煮炊きする匂いも流れてくる。香りにつられて首を巡らせると、先ほどの老婆が藁で編んだ敷物の上に座らされていた。傍らに修道女が寄り添い、受け取った椀からは温かな湯気がのぼる。

 胸を撫で下ろしたリーリュアたちの横を、同じ年頃の子どもが走り抜けていく。


「ジル? おい、ジル!」


 脇目も振らずに走る少年の背にキールが呼びかけるが、彼は足を止めなかった。


「知っている子?」

「おやじたちが友だちで。けどたしか、この戦で……」


 言葉を止め息を呑むキールを訝かり、その視線の先を追ったリーリュアも目を見張る。

 ジルは、広場の一角にできた葆人の集団に近づいていた。そして、大きく振りかぶったかと思うと、そこへ石を投げ込んだのだ。

 それは輪の中心に届く前に失速した。石畳にあたって一度跳ねてから、葆の兵士の足元まで転がった。乾いた硬い音が、一瞬の間を作る。


『だれだっ!』


 鋭い声が飛んだ。突然の投石にざわめきが広がるなか、ジルが叫ぶ。


「父さんにあやまれっ!」


 甲高い声に反応した兵士たちに、ジルはすぐさま取り押さえられてしまった。ふたりの男に両腕をそれぞれ捕まえられ、頭の上から異国語で罵声を浴びせかけられる。それでもジルは顔をあげ、見開いた目で前方をにらみ付けていた。

 激昂した兵士がその頭を掴み、地面に押しつける。


「助けなきゃ!」


 駆けつけようとするリーリュアの目前で、集団が割れた。その中央に現れた、略式ながら戦装束に身を包んだ長身の人物には見覚えがある。


「葆の、皇太子……」

 

 膝をつかされたジルの前まで、苑輝は歩み寄った。腰にさがる鞘が甲冑に触れる耳障りな音が、リーリュアの足をその場に縫いつける。その間に、葆の兵士たちによって人垣がつくられ、さらなる前進を阻まれてしまった。

 地に伏すジルを見下ろした苑輝が、何事かを指示した。すると、ジルの拘束が解かれる。それでもジルは逃げようとはせずに苑輝を見据え、再び同じ言葉を投げつけた。


「おまえらのせいで父さんは死んだ。あんたが父さんを殺したんだ! 父さんに謝れ!」


 掴みかかろうと延ばした腕を難なく捕らえたのは、通訳の少年だった。

 ジルは腕をひねりあげられ、悲鳴を呑みこむようにくちびるをかんだ。


剛燕ごうえん。その孩子こどもはなんと言っている』

『どうやら、戦で親を亡くしたらしいですね』

『ほかには?』


 主に問われ、剛燕は一瞬躊躇いをみせてから、顔を歪めて応える。


『……苑輝さまが殺した。だから、死んだ父親に謝れ、と』

 

 苑輝がすうっと目を細め、その視線をジルに向けた。


『そなたの父は、戦災に巻き込まれたのか』


 剛燕を介して訊かれ、ジルは固く結んでいた口を開く。


「父さんは近衛騎士だったんだ。カラムさまを守って……」

『カラム? たしかこの国の第一王子の名だな』

「葆さえ攻めてこなかったら、戦になんてならなかったのにっ!」


 主の顔色をうかがいながら訳す剛燕に伝わるほど、ジルの声が、握った拳が、身体全体が震える。しかし、激情から生まれる熱を一気に冷ます平静な声が、苑輝から発せられた。  


『ほかに家族は?』


 反発心から言い渋るジルに、剛燕が問いを重ねて返答を促す。 


「……母さんと兄さんが」

『無事なのか』


 訝かりながらもギルがうなずいた。


『ならばよい』

 

 ため息とともに吐き出し、苑輝は背を向ける。それを追いかけるように、剛燕がジルの手を放した。

 身体中に入っていた力の均衡が乱れ、ジルが倒れる。


「ジルっ!」


 ゆるんだ包囲の隙間を抜けて、リーリュアとキールが駆け寄った。

 よつばいのまま立ち上がれずにいるジルに怪我を負った様子はないが、ぼたぼたと落とす涙で、地面に水玉の模様が描かれていく。


「どうして」


 ジルの父親は、リーリュアの兄を守って戦死したのだ。あるいはここで涙を流していたのは、彼女だったのかもしれない。


「勝手に攻めてきて。町を壊して。たくさん人を殺して! 悪いことをしたのに、どうして謝らないの!?」


 しぼり出すようなリーリュアの訴えが、苑輝たちの足を止める。振り返った彼らは、増えた子どもたちに戸惑うような顔を一瞬見せた。


「なんでって言われてもなあ」


 眉を寄せて口を開こうとする主を、剛燕の吞気な声がさえぎった。

 雑に髪をまとめた頭をかく剛燕を、リーリュアが睨めつける。視線がぶつかったとたんに、剛燕の瞳から一切の色が引くのがわかった。


「それが戦だから」


 無意識にリーリュアは唾を呑みこんだ。それはとても苦い味がして、ちくちくと喉を刺しながら胸の奥へ落ちていく。


「オレたちはが始めた戦をしているだけ。殺すのも殺されるのも、理由なんてたったそれしかない」

「そんなの……」


 先ほど呑みこんだものがリーリュアのなかで重みを増し、思わず胸元を握りしめた。

 剛燕は、くちびるを噛みしめ押し黙ってしまったリーリュアから、矛先の向きを変える。


「ところでさ、この国の騎士ってヤツは、「殺してしまってごめんなさい」なんて謝られたいの?」


 一瞬の間を置いて、ジルとキールの顔が怒りで真っ赤に染まった。

 声にならない呻きを喉の奥で鳴らし、キールが剛燕に飛びかかろうとする。その間に、リーリュアが滑りこんだ。

 両目をつぶり、大きく息を吸う。


「我が国の騎士を、ぶっ……侮辱することはゆるしません!」


 残った息を吐き出してゆっくり瞼を開けると、剛燕のにやつく顔が目に入る。


「な、なによ」

「許さない、ねえ。だったらこっちも、そいつを許すわけにはいかないな」


 剛燕の右手が、ごく自然に左の腰まで移動した。そこに佩く太刀は、身体の割に大きな物だ。音もなく、ほんのわずかに刀身が姿を現わす。

 背筋に冷たいものが走り、リーリュアはジルを振り返った。敗戦国の民が、戦勝国の皇太子に石を投げつけたのだ。苑輝のひと声で、彼の処遇は決められてしまう。


「ダメ!」


 リーリュアは無我夢中でキールとジルに覆い被さり、細い腕の中に掻き抱く。ところがいっこうに断罪の声は聞えず、刃が襲ってくる気配もない。

 おそるおそる身体をひねり剛燕の腰元を確認すると、苑輝の手のひらが柄頭を押し戻していた。


『なにをしようとした、剛燕』

『なんでもありませんよ。お子さまガキたちに、世の中のことわりを説いていたんです』

『おまえが? 適当なことを言うな』

『これは失礼を』


 剛燕は叱責を飄々とかわしてリーリュアたちに向き直る。咳払いをひとつして、尊大に言い放った。


「というわけで、御心の広い我が葆の皇太子殿下は、此度の不敬な振る舞いを不問に付すと仰せである」


 一呼吸ののち、胸の前で両手を重ねて頭を下げた。


「だからオレが、騎士の誇りを傷つけたことも許してほしい。――申し訳なかった」

「騎士の……誇り」


 リーリュアの左右で、父のようにと騎士を志す少年ふたりが反芻した。

 茫然とする三人を前に剛燕は、ゆっくり礼を解くと踵を返す。そのまま苑輝の腕をとり、遊びに誘う子どものように引っ張った。


『さあ、行きましょう。次は城で西の使者と会談ですよ』

 

 なにか言いたげにリーリュアたちを見やる苑輝を黙らせる。


『いいですか、苑輝さま。これ以上は無用です』

『――そうだな。わかっている』


 小声ながら強い語調で念を押されて、苑輝は諦めたように苦笑する。 

 皇太子の一行は、子どもたちをその場に残して広場から立ち去っていった。

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