第一章 回顧

第二話

 石壁を四角くくり貫いた小さな窓から、踏み台を使って外を覗いたリーリュアは息を呑んだ。

 高台に建つアザロフの王城から見渡すことができる王都のいたるところで、黒い煙がくすんだ空に向かって昇っていたのだ。人々の営みからのものでないことは、その異様な色から一目瞭然である。

 そして、煙の数以上にはためいている群青と深紅、二種類の旗。そのどちらも、緑を基調とするアザロフのものではない。


「姫さまっ! 失礼します」


 部屋に飛びこんできた近衛兵が、リーリュアの小さな身体を抱え上げた。


「どこへいくの? 母さまたちは?」


 無言のまま廊下を早足で進む近衛兵の逞しい腕の中から、厳しく引き締められた顔を見上げて訊いてみても、応えてはくれない。

 やがて物々しい警備の兵たちが入り口を塞ぐ一室へと連れて来られた。

 彼はリーリュアを中へ押しこむように入れると、自分は外に出て固く扉を閉ざす。


「リーリュア!」

「母さま! 姉さま!」


 今朝も顔を合わせたばかりなのに、もう幾日も会っていなかったかのように母子は抱き合い、互いの無事を確かめる。

 リーリュアは輪の中に、この部屋の主がいないことに気がついた。


「父さまはどこ?」


 国王の執務室の広さはたかが知れている。少し首を巡らせれば、父王の不在は一目瞭然だった。


「父さまはいま、兵を率いて城下に……」


 悲痛に眉をひそめた母の代わりに、一番上の姉が教えてくれる。城下といえば、先ほど黒煙が上がっているところを目の当たりにしたばかりだ。

 山間を抜けていく風に乗り窓から喧噪が届くたび、王妃と三人の娘、そして剣を取るにはまだ幼い、リーリュアのすぐ上の兄は、身を固くする。

 王妃は、いよいよとなればこの部屋に備えられている非常通路から裏山へと逃げよ、という王の指示を、いつ決行すべきかを苦悩しているようだ。

 城を捨てるということは、国民を、夫と息子たちを捨てることになるのだから無理もない。

 時間の感覚さえわからなくなるほどの、緊迫した時が流れていった。


 ふと、リーリュアは母の腕の中から抜け出し、姉の制止も聞かず窓に近寄った。耳をそばだてても、あの背筋の凍るような音が聞こえてこない。

 勝敗が決したのだろうか? 父王は? 兄王子たちは無事なのだろうか?

 不安を抱えたまま再び身を寄せ合っていると、荒々しく扉が叩かれた。

 さきほどリーリュアをここまで連れてきた兵士が入室し、膝をついて頭を垂れる。


「陛下がお待ちです。皆様には広間までお越しいただきたいとの仰せにございます」

「この子たちもですか」


 王妃の指が痛いほどリーリュアの肩に食い込む。

 兵士は頭を下げたまま「皆様で」と繰り返した。

 王妃に手を引かれ歩く廊下には、自国の兵とは違う武装の兵士たちを幾人もみかけた。

 身を守るための鎧も手にした武器の形も、そして彼らの顔立ちも、リーリュアには見慣れないものだ。

 せわしなく目を動かしているうちに、両開きの大きな扉の前に着いていた。左右にはそれぞれ別の色をした旗が掲げられている。

 片方は、よく知る緑地に国樹であるモミの木と実の描かれたアザロフの国旗。そしてもう一方は、深紅に漆黒で文字らしきものが書かれたものだ。

 厳かに開かれた扉の向こうには、玉座へと道が続く。まっすぐ絨毯が敷かれた両側に、旗と同じ並びで、アザロフと見知らぬ国の者たちが互いを牽制するように向かい合う。

 リーリュアたちは、両者の鋭い視線の間をおののきながら進むが、正面に鎮座する至高の椅子に着く父王の姿はない。

 その代わりに彼女らを出迎えたのは、長身の涼しげな面立ちをした青年だった。

 困惑に巡らせた視線がやや距離を置いた場所に父をみつけて、リーリュアはほっとする。最後に会ったときより面やつれしたようにも見えるが、大きな怪我などはなさそうだ。

 王妃も夫の無事を確認できたのだろう。リーリュアの手を握る力が少し弱まった。

 青年が王妃にの前に立ち、胸の前で手の重ねて上体を傾けた。それが彼の国の礼なのだろう。王妃たちも自国の礼で応える。


『お初にお目にかかります』


 彼の口から言葉が発せられたが、リーリュアはもちろん、王妃やほかの姉兄きょうだいも理解できない。

 青年は少し困ったように苦笑を浮かべ視線を動かす。すると、斜め後ろに控えていた、さらに若い、少年といっていい年齢の男が前に進み出た。


「ええっと。我が主が「はじめまして」って言っています。王妃さまで?」


 どうやらこの少年は通訳を仰せ付かったらしい。若干口調がぞんざいなのは、言葉に慣れないせいか、元からの性分なのかはわからないが、意思の疎通をはかるだけなら十分だった。

 少年を介しての挨拶を済ませると、この背の高い青年は遙か東にある大国、葆という国の皇太子だと判明する。

 母の陰から仰ぎ見た禍々しくも雄々しい鎧姿が、リーリュアが初めて見た琥苑輝だった。



 大陸の極東に位置する葆は広大で肥沃な土地を有し、独自の文化を築いてきた歴史ある国だ。

 ここ数代の間は、接する近隣国との多少の小競り合い程度は日常茶飯事ながら、積極的な他国への侵略などはほとんど行われていなかった。

 ところが苑輝の父、宗達そうたつが皇帝の座に就くと、強大な武力を用い、強引に領土を西へと広げ始めたのだ。それはこの数年で急激に速度を増し、ついにはアザロフのすぐ東の国にまで及ぼうとしていた。

 もちろん、西側諸国は葆の台頭を快く思うはずもない。東西を繋ぐ要所であるアザロフが葆に横取りされる前に我がものに、と考える国が現れるのも当然だ。

 軍事弱小国であるアザロフを属国にしようと、様々な国が言葉巧みに言い寄ってきたが、国王はなかなか首を縦には振らなかった。

 いくらお人好しの王でも、国内を我が物顔で横行されたり、警護と称して他国の軍が駐在し、その費用まで負担することを良しとは思わなかったのである。

 業を煮やした西隣の国が、とうとう軍を進めてきた。その報が届くのと前後して、東隣の国も葆の手に落ちる。

 間に挟まれたアザロフが戦場となることは目に見えていた。

 国王はとにかく国民の安全を一番に考え、東西の関で時を稼がせ、自ら指揮をとり城下の民を逃がすために城を発った。

 だがその半ばで、先に西の国が王都になだれ込んできたのだ。そのうえ間を置かず、東側の山中からは葆の軍が姿を現す。両側からの攻撃にアザロフ軍が体制を整え直す暇もなく、城下に戦が広がっていった。

 王と城を守りつつ、民を戦禍の届かない場所へ誘導しようとするアザロフの兵。城を目指し突き進もうとする西の国。そして、それを阻止しようしている葆の軍。

 三国の軍が入り乱れた戦いは、そう長くは続かなかった。

 圧倒的な強さをみせる葆軍を前に、これ以上の犠牲と混乱を生むわけにはいかないと判断したアザロフの王が膝を折ったからである。

 二国に手を組まれてしまった西側の国は、捕らえられた将を置き去りにし、ほうほうの体で自国に逃げ帰っていった。

 己の首も含め、さぞ無理難題をふっかけられるだろうと腹を括っていたアザロフ王は、葆側から提示された和睦の条件に面食らう。

 西を警戒するための軍は置いていくが、滞在にかかる費用については、アザロフ側の負担は一切不要。葆の民が国内を通過する際の通行料も従来どおり支払う。その代わり、葆が西側諸国と取引をするための商いの拠点を王都に新設する。

 最後に。王家から娘をひとり、葆にもらい受けたい。端的にいえば人質として。

 これらは、武力によって征圧された国に出されるものとしては異例の条件ばかりであった。

 皇太子である琥苑輝は、いまだ未婚ときく。つまりは次期皇帝の妻に、アザロフの姫を迎えようということなのだろう。

 リーリュアの一番上の姉が、当時十七になったばかり。運良くとでもいおうか、まだどこの家とも縁談はまとまっていなかった。



 もとがそれほど大きくはないアザロフの王城に多少の人が増えたが、リーリュアたちの生活にさほど変わりはない。

 あちこちで火の手が上がった城下にも人が戻り始め、着実に復興の道を歩んでいた。

 驚いたことに、戦死者の埋葬や瓦礫の撤去など自国の民でも躊躇うような仕事を、葆の兵士たちが手伝っているという。

 占領地で当然のように行われる略奪などの非人道的な行為の報告も、あがってきてはいないようだ。

 よほど大将である琥苑輝の指揮が行き届いているようだ、とは、戦闘で左肩を負傷し腕を吊っている一番上の兄の談である。ときおり痛みと悔しさに顔をしかめながらも、敵将の手腕を讃えていた。


「姉さまは、本当に遠くへお嫁にいってしまうの?」


 いくら父や兄が相手を褒めそやしても、リーリュアにとっては、大切な自分の国を戦場にした張本人だ。そんな者のところへ嫁がなければならなくなった大好きな姉が、心配で仕方がない。


「そうね。ちょっと寂しくて怖いけれど、それが私の役目だもの。喜んで葆へ行くわ」


 この国に生まれた王女は、幼いころからそう言い聞かされて育てられるのだ。リーリュアも、年頃になればどこかの国の王家と縁組することになるのだろう。そこに疑念は抱かない。

 ただ、あの皇太子が姉を預けるに足る人物だと、この目で確かめたかった。

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