愛し君に花の名を捧ぐ
浪岡茗子
序章 再会
第一話
静まりかえった
早く顔をあげたいという想いを押し殺し、あらかじめ教えられた作法に則り視線を床に落としたまま進む。あと数歩を残して
「アザロフの第三王女、リーリュア・シェッツナーが陛下に拝謁いたします」
殿内に玉が触れあうような声が響いた。
「遠路よくおいでになった、西国の王女。どうか顔をあげられよ」
ふた呼吸の後、麦の穂色の頭に落とされた声は彼女が記憶していたものよりも少し低く、遙かに威厳に満ちていた。
リーリュアはゆっくりと顔を上げ、けぶる睫毛に縁取られた新緑の野を思わせる瞳を正面に向ける。新雪のように白い
「お久しぶりです、
やや西方の訛が残るが、たしかな葆の言葉で挨拶をする彼女の視線の先で、二頭の黄金の龍が絡みつく漆黒の玉座に美丈夫が腰掛けていた。冠を戴く艶やかな黒髪と同じ色の双眸は、真っ直ぐにリーリュアを捉えている。
「あれから十年以上経つか? 姫はずいぶんと大きくなられた」
幼子の成長をみるかのように目を細められ、リーリュアははにかむ。
「わたくしももうすぐ
一方で苑輝はすでに三十五を過ぎている。だが紫紺の衣に包まれた堂々たる体躯は、かつて一国の軍を率いた将としての名残りがうかがえ若々しい。
見たまま感じたままを口にするリーリュアの直截な言葉に、苑輝はごく僅かにくちびるを歪めた。
「アザロフ王からの書状はたしかに受け取った。のちほど返信を届けさせよう。して、滞在はどのくらいを予定しておられる? 歓迎の宴を一席を設けるつもりなのだが」
「え……?」
終始微笑みを浮かべて苑輝と会話していたリーリュアの表情が強ばる。不安げな視線が、祖国から同行していた葆の官人を探して彷徨った。
険しい顔が並ぶ中で、冷たく感じるほど秀麗な容貌をもつ若い文官とたしかに目があったはずだが、素知らぬ顔で逸らされる。
しかたなく、リーリュアは自身で疑問の答えを得ることにした。
「わたくしはこの国へ、嫁ぐために参ったのですが」
「――だれに?」
訝しげな苑輝の問いに、リーリュアは小首を傾げる。
「もちろん、あなたさまに」
眉間に深いシワを刻んだ苑輝に向けていた緑の目を、不審をこめて再び文官へと移す。ほぼ同時に、壇上から苦々しげな舌打ちが聞こえた。静かな殿内の空気を、その小さな音が鋭く切り裂く。
「
つぶやきに、件の文官と、最前列に立つ五十がらみの高官が礼で応える。
苑輝は深いため息とともに玉座の背にもたれかかり、片手で額を覆う。大きな手の隙間から覗く両瞼は、軽く閉じられていた。
「すまない、西の姫」
弾かれたように顔を前方に戻したリーリュアは、低く重い声に耳を傾ける。
「どうやら手違いがあったようだ。姫をこの国に迎えることはできない」
「それはいったい……」
呆然とするリーリュアに、葆の皇帝は冷ややかな眼差しと冷酷な事実を突き付けた。
「
言葉を失した彼女の目の前で、苑輝は背中を見せて追及を拒む。
玉座の向こうへ消えていくその姿を追いかけることもできず、ただただリーリュアは立ち尽くしていた。
◇
天井板に描かれた花文様に向けてため息を吐き出す。リーリュアは、自分の身にいったい何が起こっているのか、まだ理解ができずにいる。
アザロフ王国は、葆の遙か西にある山間の小国だ。豊かな緑と山の幸以外、これといった特産もない。ただ大陸の西と東を繋ぐ要所として、多くの旅人や商人が通過することで国はそれなりに潤っていた。
大陸を横断する道幅の広い街道は、国土を挟むように北と南に連なる険しい山脈を避けて通っているため、先を急ぐ者にはアザロフ国内を通過するほうが便がいい。実際、迂回するより徒歩で十日以上も早く抜けられる。
それゆえに、西へ東へ領土を広げようと試みる隣国から侵略を試みられることも多かった。
一度に大軍を送り込めない狭隘な地の利と、他国の王家と積極的な縁組を行うことで、どうにか独立を守ってきたという歴史がアザロフ王国にはある。
それゆえ今回も、近年国内で発見された鉱脈を調査する技術と人手を提供する代わりに、採掘品取引の優先権と縁組を、という葆からの条件になんの疑いももたず、末姫であるリーリュアを差し出したのだ。
「でもオレは、婚姻は余計なんじゃないかと思ってたんですよね」
「どうして?」
茫然として働きの鈍い頭を、アザロフから護衛として付き従ってきたキールに向ける。彼は騎士団長の息子で、リーリュアとは幼馴染みともいえる間柄だった。
「逆ならわかりますよ。葆から姫を迎えるならね。だって、こっちはお宝の山かもしれない場所に、他国の人間を入れることになるんですから」
「そういわれれば、そうだけど」
常に緊張感を持たなければならない地理にもかかわらず、アザロフの国民性はおおらかで楽天的だ。その筆頭が王家だといってもいい。
『我が国にはいまだ皇后がおりません。こちらの王家にいらっしゃる麗しい姫君のお噂は、遠く離れた葆の
アザロフを訪れた葆の勅使であった
『わたくし、苑輝さまの妻になります!』と。
自分は先方に望まれて、大陸の東の果てまではるばるやって来たのではなかったのか。投げつけられた拒絶の衝撃は、いまなおリーリュアから抜けない。
それにキールが追い打ちを掛ける。
「帰れって言われたんですから、アザロフに帰りましょうよ。姫さま」
榛色の目を細くして渋面を作る。彼は初めから、この結婚には異を唱え続けていたのだ。
「この国って、正妻のほかに側室を何人持ってもいいって聞きましたよ。あの方が、姫さまのほかにも妃をおいてもかまわないんですか?」
「それは……」
永菻に着くまでの長い道中を持て余し博全から聞きだした、葆の風習や思想などの中でも、リーリュアが最も動揺した異文化である。
一夫一妻制を唱えるアザロフの王宮でも、過去の歴史の中には王の愛妾といった立場の者がいたこともあるが、日陰の身というのが常だった。葆のように堂々と宮中に殿舎を与えられ、公に身分を保障されるものではない。ましてや、その
数多いる妃嬪同士で寵を競い、国母の座を奪いあい、正妻をも脅かす存在となるという。その状況にリーリュアは耐えられるのだろうか。
使い慣れない茶道具で侍女が淹れたこの国の茶を口に含み、その渋味に眉をひそめる。
アザロフから同行した者たちは、葆の言葉をほとんど解することができない。リーリュアの手に収まった茶杯も、腰掛ける長椅子も。客室として与えられた殿舎全体が、祖国とまったく異なる様相を呈していた。
夏が近づき日に日に強まっていく陽が、木枠で組まれた幾何学模様の窓にはられた絹を通ってやわらかく射し込む。。そんな光景さえ、山を切り崩して建てられた石造りの城で育ったリーリュアの目には珍しいものに映った。
『ここの人って、オレたちのことをじろじろ見て、なんか感じ悪いし』
随行したアザロフ人の中で、リーリュアを除いて唯一葆での日常会話に不自由しないはずのキールが、わざと母国語で言い放つ。少しクセのある亜麻色の髪をかき上げ、あちら側に衛士がいるはずの扉を睨み付けたが、それはその目と髪が原因なのだ。
黒目黒髪の者が大半のこの国で、薄い色の髪や瞳はまだ珍しい。特にリーリュアのような金髪翠眼は悪目立ちしてしまう。
葆の宮処を出たことがない者たちが、異様なものを目にしたような視線を向けるのも無理はなかった。この国の民からすれば、自分たちのほうが奇異ともいえる存在なのだ。
異なる外見と文化を持つ者同士では、相容れる事ができないのだろうか。
蒼世殿で苑輝から向けられた冷淡な視線を思い出し、リーリュアはゆるりと頭を振る。
そんなはずはない。あのとき、たしかに彼はリーリュアと同じ想いを抱いていたはずなのだから。
「それほど帰りたいなら、キールひとりで帰ればいいわ。わたくしはここに残り、苑輝さまの妻になります」
リーリュアは祖国を出るときにした決意を口にすることで、再度胸に刻みこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます