第六話
◇
国内初の鉱脈がみつかったアザロフから助力を請う書状が届いたのは、昨年の暮れ。それを受け、葆の皇帝
各地より集まった文書に目を通していた苑輝は、眉根の寄った顔をあげた。
「ではやはり、鉱夫の扱いが不当だという情報はまことだったのだな」
「はい。訴えた者の証言がすべてではないにしても、かなり劣悪な環境での労働を強いられているのは間違いないでしょう」
この葆では、生活にも戦にも欠くことのできない鉄は国の専売となっている。その採掘から製鉄、流通までを朝廷が管理し、国内にある鉱山には官吏が置かれていた。
そのなかのひとつ、葆の西方に位置する
採掘は重労働の上に危険が伴う。そのため、罪人が多く当てられているが、それを生業にしている者も少なくはない。当然、彼らの報酬は国庫からの支出だ。それが正当に支払われていないとの訴えだった。そのうえ、保障されるはずの衣食住も、十分に行き渡っていないという。
「ほかでも気になる点があるようなので、引き続き調査をさせてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。漏れのないよう、慎重に頼む」
「御意に。では、李宰相にもまだ公にせぬように伝えておきます」
恭しく拱手した博全が、「鉱山といえば」と話を繋ぐ。
苑輝は、鉱山ごとにまとめた採掘量の推移の報告書に戻していた目を意図的に上げなかった。
「アザロフの姫君は、いかがなさっているのでしょう」
「……知らん」
想定どおりの話題に内心で嘆息した苑輝は、黒檀の卓に片肘をつく。気怠げに頬を左手に預け、博全を眺めやる。まだ父親ほど腹芸が完璧ではない若い文官の表情からは、不満や困惑が感じ取れた。
「しかしながら、歓迎の宴を用意されていたのでは?」
今度は、不平を包み隠さず訊いてくる。
「李家の独断で連れてきたのだろう。そなたがもてなせば良いではないか」
「我が国へ正式な遣いとしていらしたのです。そのように大人げのないことをおっしゃらずとも」
「その老体に、娘でもおかしくはない年の姫を妻取らせようとしたのはだれだ?」
「なにも、珍しくはございません。このままでは、龍の加護がある皇家のお血筋は途絶えてしまうのですよ!? どうか、御再考を!」
苑輝は平伏する博全にも冷やかな視線を投げた。
「この国を統べるに必要なものが琥氏の血だというのなら、傍系でも事足りる。 雷珠山の龍が、その濃さを問うとは聞いたことがない。ならば博全、そなたにも次の資格があるということではないか」
葆の建国前から琥家とともにある李家の系譜には、四百年あまりの間に降嫁した公主が複数存在している。皇統への近さは、臣下の中でも一二を争うだろう。
「陛下っ!」
博全が声を荒らげるほど、苑輝は頑なになっていく。
「
帝位を継いだときから言い続けていることだ。諦めの悪い臣下たちに、苑輝は眉間を揉む。
そこへ侍従が遠慮がちに来客を報せた。
「では、私はこれで」
「いや、いてくれ。剛燕にも西国の状況を教えてやってほしい」
さがろうとする博全を引き留め、来訪者の入室を許可した。
「陛下に拝謁いたし……」
「挨拶はよい」
苑輝は形ばかりの口上を遮り、剛燕の後ろにいる目通りを許した覚えのない者へ非難の視線を向ける。拝跪し頭を垂れているが、その髪の色は見間違いようがない。
喉まで出かけた文句を抑えてふたりに立ち上がるよう促すと、葆の装束に身を包んだ異国の姫はゆっくりと頭をもたげる。薄化粧を施した
「こうでもしないと陛下、逃げますよね?」
「おまえではあるまいし、そのようなことは……」
颯璉から、リーリュアが面会を希望しているとはきいている。だが多忙を理由にはね返したのは事実だ。真正面から向けられた感情を素直に映す瞳が、後ろめたさを刺激してくる。
「帰国の日取りは決められたのだろうか。それまでにはあらためて、会談の場を設けると約束しよう。見送りの宴も盛大に。姫はなにが好みだ? 海の幸などはいかがか」
苑輝の提案に、彼女は目を見開いた。
長いまつ毛が密に縁取る瞼が、不思議そうに瞬きを繰り返す。また大粒の涙が落ちるのではないか。脳裏に在りし日の光景がよみがえるが、それは苑輝の取り越し苦労だった。
「アザロフには戻りません」
リーリュアのくちびるが、悠然と弧を描いたのである。
「葆に嫁いだのです。もうここがわたくしの“国”です」
「鉱脈の件なら心配せずとも、協力を惜しむつもりはない。その旨はきちんと書にしてお父上にお知らせする。昔とは違う。あなたが若い身を犠牲にせずとも、両国の友好が揺らぐことはない」
苑輝は、アザロフの城に滞在したわずかな期間を思い出す。情に厚い国王夫妻が、遠く離れた異国に愛娘を送り出した心境を察するのは容易いことだ。一日でも早く、王女を親元へ帰してやらねばという使命感に駆られる。
だが、その厚意はリーリュアには届かなかった。
「苑輝さまとお会いしてからの十年間、わたくしは葆を訪ねることばかりを考えていました。自分が生まれ育ったアザロフとはまったく違う国。どんなものを食べ、どんな音楽があって、どんな暮らしをしているのだろう。そして、苑輝さまはどのような国を創られたのか。この目で、耳で確かめてみたくて、アザロフにできた葆商人たちの商館に通い、言葉も習いました」
それでこれほどまでに葆語を流暢に扱えるのかと納得すると同時に、どうしてそこまでしてこの国にこだわるのかという疑問も生まれる。
「ならば気の済むまで滞在し、国内を観て回られるといい。必要ならば案内役をつけよう。そうだ、博全。引き続きそなたに任せるとしよう」
おそらく生国とはまったく異なる文化をもつ葆に興味を持ったのだ。苑輝はリーリュアの熱を、そう結論づける。
すると、どこからともなく大きなため息が聞こえてきた。出所を辿れば、剛燕が顔を手で覆い天井を仰いでいる。
不審に思う苑輝の元へつかつかとリーリュアが近寄り、卓越しに見下ろした。
「わたくしは、あなたさまの妻になりたいのです」
切なげに眉を寄せた彼女から吐息とともにこぼれた願いは、苑輝の耳に届くまでに消え入りそうに小さく、聞き間違えたのだとさえ感じた。
「先日も、先ほども告げたとおり、その話は今回の件に関わりのないこと。姫には、お父上が相応しい相手をみつけてくださるだろう」
さらにリーリュアの眉根が寄る。ふるふると駄々をこねるように振られた頭の歩揺が、繊細な音を立てた。
「でしたら、あらためてアザロフから縁組を申し込みます。わたくしは、苑輝さまの妻としてお傍にいたいのです」
誤解しようがないほどはっきりと聞こえた要求に、苑輝は頭を抱えてしまう。二十歳になると聞いたが、蝶よ花よと育てられたゆえに浮世離れしているのかもしれない。
「どうやら姫君は、婚姻をままごとかなにかと勘違いしておられるようだ」
嘆息混じりで咎めると、リーリュアは柳眉を逆立てた。
「そんなことありません! ともにアザロフの城下を、昇る弔いの煙を眺めたあの日から。ずっと……ずっと苑輝さまのことを想い続けていたのです。決して中途半端な気持ちで葆へ来たのではありません!」
苑輝の視界の端に、笑いを堪えているのか肩を振るわせる剛燕の背中が目に入る。
目を潤ませたリーリュアは湯気が上りそうなほど顔を紅潮させ、細い首から胸元にかけてのぞく雪のように白い肌も、紅を刷いたように染まっていた。
満を持して綻びはじめた花のように可憐な様は、むしろ苑輝の思考を冷静に導く。
この美しい花が咲く場所は、後宮などではない。手折るのは、自分のような者であってはならない。
自嘲の笑みが浮かんだ。
「姫はやはりなにもわかっていない。この
「知っています! それもすべて受け入れた上でお願い申し上げました」
一歩も引かず卓上に手をつき身を乗り出してきたリーリュアに、苑輝はしばらくの逡巡ののち、冷ややかに言い放った。
「そこまで言うのなら、望み通りあなたを後宮に迎えよう。ただしこれより先は、この国のしきたりに従ってもらう。葆の言葉以外を話してはならない。それから、あなたが伴った者たちは全員故郷へ帰すこと。これらの条件を呑むのならば、だ」
勢いを収められずにいるだけなのだろうと踏んだ苑輝が無理難題を示す。案の定、前のめりだったリーリュアの身体から力が抜け、目が泳ぎ始めた。
「君主の妻となるということは、一生をかけ国に身も心も捧げるということ。それほどの覚悟がなくては務まらぬ」
世間知らずの王女なら、これで目を覚まして諦めるに違いない。気落ちするであろう彼女を慰める役目は、ここへ連れてきた責任で剛燕に引き受けてもらえばよい。
「それができぬというのなら、明日にでも父母の元へ戻られよ」
苑輝は退室を促そうと片手をあげた。その右手が宙で静止する。
スッと背筋を伸ばしたリーリュアが、見様見真似で覚えた葆式の礼をしたのだ。
「承知いたしました。供の者たちには、支度が調い次第アザロフへ発ってもらいます」
「姫さんっ! 陛下、なにもそこまでしなくても」
それまで成り行きを見守っていた剛燕がたまりかねて口を挟む。
「いいのよ、剛燕。故郷に家族を残してきた者も多いわ。先にわたくしが気づいて、帰してやるべきだったのです」
凜と張られたリーリュアの声に、もう迷いは感じられない。いまは、彼女にこれ以上なにを言っても無駄だと悟った苑輝は、おもむろに立ち上がった。
「方颯璉を呼べ。
侍従を呼び寄せ皇宮の奥にある離宮の名を告げると、博全の顔色が変わった。リーリュアの耳に入るのをはばかるように、青ざめた顔を苑輝に近づける。
「陛下。あの宮殿は……」
「不服か?」
「いえ、そうではございませんが」
「なにかあるのか?」
無遠慮な剛燕の大声で、博全の配慮は無に帰する。リーリュアまでもが不安げに、しかし逃げはゆるさないといった目で博全に問う。内心でほくそ笑みながら、苑輝は傍観を決めこんだ。
観念した博全が、渋々リーリュアと向き合う。
「……皇帝の寵を失った皇后が不貞を働き、その相手もろとも死罪になった話を覚えていらっしゃいますか? アザロフを出立して二十二日目のことでしたが」
「『ちょう』は愛情のことよね。『ふてい』は道ならぬ恋、で合っているかしら」
「どこでそのような……。まあ、そのような意味です」
少々気が抜けたように大きくため息をついて、博全は本題に入った。
「それで、その皇后が賜死――つまり、下命により首を吊った場所が思悠宮なのです。以来、妙な噂が絶えず、建物は永いこと使われておりません」
「……噂?」
そのような曰く付きの所にたつ噂など、想像に難くない。
潤む瞳でなにかを訴えようとするリーリュアを、苑輝は突き放す。
「そう、ただの噂だ。あそこは静かで緑も多い。異国より来た姫にも過ごしやすいと思ったのだが、無理強いはしない」
これで諦めてくれるのなら楽な話だ。しかし残念なことに、この跳ねっ返りの姫君は、苑輝の思惑通りには動いてはくれなかった。
「苑輝さまがそうおしゃるなら、わたくしはその言葉を信じます!」
一足早くやってきた夏の嵐に、苑輝は深いため息をついた。
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