第二章 宣言

第五話

 こうして苦い茶を飲んでいてもらちが明かない。リーリュアは直接苑輝に理由を訊ねに行こうと立ち上がり、扉に手をかけた。

 が、押しても引いても開かない。引き戸というわけでもなさそうだ。


「もしかして、閉じこめられているの?」

「そんなバカな。おーい、開けてくれ!」


 キールが力任せに扉を叩く。


「なにかご用でしょうか」


 ほどなくして、蝶番を微かに軋ませながら扉が開いた。姿を見せたのは、痩せぎすの見るからに気難しそうな女だ。アザロフの使節団が永菻に到着して以降リーリュアの身の回りの世話をしている、ほう颯璉そうれんという名の女官である。


「苑輝さまにお会いしたいの。どちらにいらっしゃるのか、教えてくださらない?」


 無邪気に訊ねたリーリュアに、颯璉は器用に片方だけ眉を上げてから頭を下げる。


「大変申し訳ございませんが、陛下はただいま政務中でございます。お目通りは叶わぬかと」

「ではいつお仕事を終えられるのかしら? それまで待つわ」

「あいにく、本日中は難しいと存じ上げます」


 取り付く島もない返答に、次第にリーリュアの苛立ちが募っていく。


「でしたら、いつなら大丈夫なの!?」


 思わず声を荒らげても、面のような表情は露ほども揺るがない。

 強行突破をするしかないのだろうか。リーリュアは、扉が開いたままになっている彼女の背後を盗み見る。その視線を移動させキールに瞬きで合図を送ると、彼は「仕方がないな」というふうに肩をすくめ、うなずいて了承を示した。


「ごめんなさいっ!」

「悪いな、おばさん」


 正面に立ち塞がる女官の脇を左右に分かれてすり抜ける。幸い大人がふたり並んで通っても余裕があるくらい、両開きの扉は大きく開かれており、控えているはずの衛士は脇に除け、すっかり油断していた。

 数段あるきざはしから飛ぶようにして庭に降り立つ。周囲には揃いの瓦を葺いた屋根が山脈のように連なり、リーリュアにはどれが皇帝のいる宮殿かなどわからない。とりあえず謁見をした蒼世殿の方角を目指すことにして駆けだした。

 だが、それもすぐに頓挫してしまう。


「おい、颯璉。仔リスが逃げだそうとしているぞ」


 リーリュアの前に、低い声でしゃべる熊が現れたのだ。

 進行方向を壁のような巨体で阻まれ、声の主を仰ぎ見る。目が合うと、黒々としたヒゲに覆われた厳つい顔に似合わず人好きする目が、嬉しそうに弧を描いた。


『あいかわらずですな、西の姫さんは』


 旧知のように熊が発したのは、アザロフで使われている言葉である。


『……だれ?』


 葆の宮中に知り合いはいない。ましてや熊になど。混乱して後退ろうとするリーリュアの腕を、キールが引いて背に庇い警戒した。

 その様子を見て熊男が豪快に笑う。


『チビも変わっていないようだな。まだお姫さまのお供のままか』


 大きな手が、決して低くはない位置にあるキールの頭をがしがしとかき回す。


『なにをする!』


 手を払いのけられても、熊のニヤニヤとした笑いは収まらない。その不敵な笑みに、ふとリーリュアの古い記憶が呼び起こされた。


『もしかして、あのとき苑輝さまといっしょにいた!?』

『おっ。やっと思い出してくれましたか』

 

 あまりにも当時とは違う姿に、キールも目を見開いて、頭のてっぺんからつま先までじろじろと見回している。

 苑輝は彼のことをなんと呼んでいただろう。リーリュアは懸命に記憶を辿る。


「……え、ん。ごう、えん?」

「お久しぶりです、姫君。初めて訪れた葆はいかがですか?」


リーリュアがたどたどしく口にした名に、勇ましい武官へと変貌を遂げたりゅう剛燕ごうえんは満面の笑みで応え、慇懃に拱手した。



 へやへと連れ戻され、リーリュアは剛燕に促されるがまま元の椅子へと腰を下ろす。キールは不機嫌を隠すことなく柱に背を預けて立ち、胡乱げに剛燕を睨みつけていた。

 卓上では颯璉が用意した茶が、リーリュアの侍女が淹れたものとは比べるべくもないふくよかな香りを放つ。ひと口含めば、舌にまろやかな甘みがひろがり、鬱々とした気持ちを多少は和らげてくれた。


「それで、鬼より怖い颯璉殿から逃亡を企てようとしたわけですか」


 呆れつつも面白がっているのが、剛燕の声音にはありありと表れている。リーリュアが謁見からの顛末を話している間にも、剛燕は茶を飲み干し、干し棗に手を伸ばす。

 空の茶杯に新たな茶を注ぐため傍らにいた颯璉は、自分に対する彼の暴言に手元を狂わせることはない。淡々と己の仕事をこなすのみだ。 


「逃げようとしたわけではないわ。陛下に直接お会いして、きちんとお話をしたかっただけよ」


 面会ひとつとっても、自国とは勝手が違う。王女という身分を笠に着ても融通の効かない相手に頬を膨らませ抗議すると、剛燕は苦笑いで立派に生えたヒゲに隠れた頬を掻く。


「まあ、たしかに宮中ここは面倒なことばかりですからね。オレだって、仕事でなければできるだけ近寄りたくはない」


 彼は禁軍の将として一翼を担うという。それを聞いたキールの機嫌がますます斜めに傾いていく。


「わたくしがアリーシャ姉さまじゃないから、苑輝さまはおいやなのかしら」


 自分ではこの国の皇后として相応しくないと思われたのかもしれない。己の振る舞いを省みる。

 苑輝はアザロフとの縁組を一度は承諾している。姉なら良くて、自分ではダメだということのなのか。懸念を手の中の茶杯に零す。母や教育係の口癖はいつも「淑やかな姉たちを見習いなさい」だった。


「姉君? それはないと思いますが」


 しかしそれはあっさり否定され、リーリュアがその根拠を問う。

 剛燕は少し躊躇った後に、苦々しい面持ちで答えた。


「実を申し上げますと、あのとき姉姫さまの縁談のお相手は、先帝――つまり、苑輝さまの父君だったんです」


 リーリュアは息を呑み、剛燕以上に苦い顔になった。


「そうです。十年前の当時でさえ、姫の父上、アザロフ国王のいまのお歳より上の方の花嫁にされるところだったんですよ。それも正室ではなく、すでに幾人もいた妃嬪のおひとりとして」


 初夏だというのに、ぞわりと袖の中で鳥肌が立つ。年齢差や置かれる立場などによるものだけではない。苑輝の父望界ぼうかい帝は生前、非情で残忍な性格だと多くの人の口にのぼっていたという。いくら国のための政略結婚とはいえ、そのような者にあの優しい姉は嫁ぐところだったのだ。


「帰国の際に姫君を連れて帰らなかったのも、苑輝さまの独断でした。さすがに、異母妹いもうとよりも年若い姫を父親に差し出すことを躊躇われて」


 その判断が、結果としてアリーシャを救ったのかもしれない。いまは友好国の王太子妃として幸せに暮らしているはずの姉のかわりに、安堵のため息を吐き出した。


「ただね、姫さん」


 声を低めた剛燕が、卓の上に両肘をつく。組んだ手の上に顎を乗せ、真っ直ぐにリーリュアを見据える。


「それもこの葆では特別なことではないんですよ。理由が公的でも私的でも、必要とあらば複数の女を囲うことが許されている。それが皇帝という至高の地位にあるお方ならなおさら」

「……知っています。ここへ来るまでに、李博全から後宮のあり方を教えられました」


 後宮は、皇帝の血脈を維持するために存在する。現在はひとりの妃嬪ももたない苑輝だが、今後もそうとは限らない。後宮の主たる皇后はその地位に驕ることなく己を律し、妃嬪をまとめ、秩序を保つよう努めなければならない。

 愛想とは無縁の文官は、過去、葆の後宮を舞台に繰り広げられた数々の諍いを例に挙げ、同じ轍を踏むことのないようにと、長い道程を使って事細かに説いた。


「あの石頭。ホント容赦ねえな。――で、それを知っても姫さんはここへ来た。陛下の后になるために」


 表情を硬くするリーリュアとは逆に、剛燕の口調はすっかりぞんざいになってしまっているが、問いかける瞳は真剣だ。茶で潤したばかりのはずの喉が、やけにひりひりと渇く。

 こくん、と唾を飲み込んでから姿勢を正した。


「わたくしは、アザロフの王女としてここへ来ました。国によって様々な習慣があるのは当然のこと。そこにいちいち異を唱えていては、国と国を結ぶ架け橋になどなれません。その覚悟はあるつもりです」


 ちゃんと王女らしく言えただろうか。リーリュアは、最後、震えそうになった唇を引き結ぶ。

 剛燕が組んでいた手を解き、長嘆息と独り言を吐き出した。


「大人になったんだなあ、姫さんも。でも、なんかちょっとつまんねえな」

「え?」


 真意を訊ねる前に、剛燕は席を立つ。


「姫のご意思の固さはよくわかりました。あなたを皇后にと推挙した責任もありますし、早急に陛下とのお目通りが叶うよう手配いたしましょう」


 葆の形式で辞去の礼をとってから、解いた片手でリーリュアの金色の頭を撫でる。


「せっかく、これだけ上手にしゃべれるようになったんだもんな。十年分の想いを全部ぶつけてみればいい。もしかしたら、あの頑固者のなにかを変えられるかもしれない」


 剛燕は言いたいことだけを早口で告げ、殿舎を出ていってしまった。



 翌日。劉剛燕は再び、アザロフ一行が宿舎として与えられている殿舎を訪れた。


「その大荷物はなに?」


 大きな櫃を運びこまれたリーリュアは、目を輝かせながら蓋を開けてみる。中には色鮮やかな絹の衣、精緻な細工も見事な歩揺や笄などが、目一杯に詰められていた。


「どうせ苑輝さまに会うなら、存分に着飾ってみてはどうかと思いまして」


 剛燕はヒゲの下で口角を上げ、衣を一枚手に取る。ふわりと空色の上襦が広がった。深い青と光を受けてきらめく銀の糸で小花が刺繍された愛らしい品だ。


「嫁が若いころに着ていたものなんでちょっと身丈が足りないかもしれませんが、そこは颯璉が上手くやってくれましょう」

「え? おっさん、結婚してたの!?」


 キールが些細なところを拾って問い質す。


「おう! もうすぐ三人目の子どもが産まれるぞ。女、男ときたから、今度はどっちかな」


 二十代半ばと思われる剛燕の公私にわたる充実ぶりを知り、キールは壁を相手にぶつぶつと自分が過ごした十年を振り返っていた。


「では殿方は、外に出てらしてくださいませ」


 半ば無理やり了承させられたらしい颯璉が、男たちを屋外へと追い出した。

 彼女の指揮の下、アザロフのものとはまったく様相の異なる衣服や装飾品に、侍女たちは四苦八苦しながらリーリュアの身支度を始める。

 空色の襦に合わせるのは、裾から薄い桃色のぼかしが入った白い長裙。胸元で締める桔梗色の帯には、複雑な幾何学模様が刺繍されている。

 緩やかに波打つ柔らかい髪は、耳から上で髻を作り、残りを背に流す。動くたび涼しげな音を奏でる金歩揺を挿し、揃いの耳飾りも着けた。

 素肌の白さと滑らかさを活かし、白粉は最低限に控えたかんばせの仕上げにかかる。


『紅はどうしましょう』


 幼いころから仕えてくれている侍女が、リーリュアを通して颯璉にお伺いを立てた。


「陛下は、あまり華美なものをお好みになりません」


 そう言って彼女が手にした紅の色は極薄い。それでもリーリュアの唇に塗れば、たちまち咲き始めの桃の花びらのように色付いた。

 最後に、秀でた額の中央に紅い花鈿を施し完成する。

 人形のようにされるがままだったリーリュアは、自分から手を離した侍女たちが、なにも言わないので不安になった。


『……似合わない?』


 その言葉が合図だったかのように、次々に主人の美しさを讃えだす。

 あまりに褒めちぎられるものだから居たたまれなくなり、表で待っているはずのキールたちを呼び込んだ。だが、彼らもリーリュアの姿を見て言葉を失ってしまう。


『ねえ、やっぱり変なのよ。いつもの服に着替えたいわ』


 侍女の袖を引いて情けない声で懇願した。


「こりゃあ、驚いた。あの衣装は華月かげつ以上に似合う者はいないと思っていたが、なかなかどうして」


 剛燕は顎ヒゲをしごきつつ、しきりに相づちを打ち続ける。リーリュアはいまだ反応を示さないキールに心細げな視線を送るが、彼はふいと横を向いてしまった。


『……そんなの、うちの姫さまじゃないみたいだ』

『キール!』


 大人げない態度に、侍女たちから非難の声が上がる。


『姫さま、本当によくお似合いですわ。あんまりお綺麗なので、キールったらきっと照れているんです』


 口々から先ほど以上の賛辞を浴びせかけられ、とうとうリーリュアは耳の裏まで真っ赤に染まってしまった。


「ふん。まだまだ孩子ガキだな、チビ」


 キールにだけ聞こえるように剛燕が意地悪くささやく。


「なにをっ!」

「さて。お気に召さなくても、もう着替えている時間などありませんから、そのままで参りましょうや」


 キールの反論を無視して、剛燕は皇帝の待つ宮殿へと歩き始めてしまった。

 リーリュアは、慌ててひらひらと揺れる裙の裾を捌きながら後に続く。

 輿を用意すると言われたのだが、この機会に自由には歩かせてもらえない皇宮内を見てみたいと断っていた。

 道すがら、文官武官、下働きの使用人、たくさんの人と行き合ったが、皆が皆、葆の衣装を身につけた異国人へ物珍しげな視線を遠慮なく送ってくる。

 なかにはひそひそと耳打ちしあう者たちもいて、自分の足で来たことを少し後悔し始めていた。


『顔を上げて、リーリュアさま』

『キール?』


 一歩下がってついてくるキールが、威嚇するような視線を前方に向けたまま声をかける。


『あなたは、オレたちの自慢の姫です。何ひとつ恥じるようなことはありません。いまの姫さまは、この皇宮にいるだれよりもきれいです』


『……ありがとう』


 リーリュアは俯きかけていた顔を上げた。国を代表してここにいる自分の、一挙手一投足がアザロフの評価に繋がるのだ。

 翆緑の瞳で前を見据え、金の歩揺に負けない輝きを放つ髪と、羽のように軽い薄紫の帔帛をなびかせ颯爽と回廊を進むリーリュアを、皆が足を止め礼をして見送る。

 そこには先ほどとは違う畏敬の念さえ感じられ、先導している剛燕は密かにほくそ笑む。


「やるじゃないか、チビ」


 満足げに呟いて振り返り、一段と警護の厚い門を示した。


「この先に苑輝さまがおられます」

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